第11話 先生の恋(1)(直人)
「もっとしっかり観察して描くと良いよ。デッサンは観察力を鍛える練習だからね。皺の一本一本、影の濃淡もしっかり観察して描き込んでね」
美術教師の片桐美香(かたぎりみか)先生が、俺の描いている、自分の左手のデッサンを見て、丁寧に指導してくれた。
俺、若宮直人は、自分の教室で美術の授業を受けていた。今日は自分の左手をデッサンしている。
片桐先生は二十代後半のぽっちゃりした丸顔で言葉遣いも丁寧な優しい先生だ。俺への指導が終わると、片桐先生は他の生徒のデッサンを見る為に離れて行った。
ふと気付くと、隣に座る委員長の増田茜が、先生の後姿を振り返って見ている。
「どうしたの?」
「あ、いや、片桐先生、ちょっと変わったなって」
委員長は顔を近づけてきて、声を潜めてそう言った。整った顔立ちの委員長が顔を近づけてきたので、俺はドキッとした。
「えっ、変わったかな……」
「変わったわよ。凄く綺麗になったわ」
「ええ……片桐先生が綺麗?」
片桐先生はいつも小綺麗にしていて好感度は高いが、決して綺麗と呼べるタイプではない。
「はー、まあそうだろうね。若宮君には分かんないだろうな」
委員長が馬鹿にしたような態度を取ったので、俺はムッとした。委員長は結構ストレートにきつい言葉を投げかけてくる。
「俺には分からないって、委員長だけが思ってるかも知れないだろ。授業が終わったら、他の誰かに聞いてみようぜ」
「望むところよ。恥かいても知らないよ」
授業が終わり、委員長はすぐに香取さんを呼んだ。
「そう、私もそう思ってたの。綺麗になったよね!」
香取さんは少し興奮気味にそう応えた。
「ほらね」
委員長はほれ見たことかと勝ち誇る。好きな人にまでそう言われて、俺は自分が間違えているのかと気弱になる。
「ちょっと待てよ。芳樹にも聞いてみる」
芳樹なら俺と同レベルだと思い、声を掛けて呼び寄せた。
「この二人が、片桐先生が綺麗になったって、言ってるんだけど、芳樹はどう思う?」
俺にそう聞かれて、芳樹は驚く。
「長谷川君はズルいよ。だってあなたと同レベルじゃ……」
「俺もそう思ってたよ!」
「ええっ!」
委員長の言葉を遮った芳樹の答えに驚き、三人は同時に声を上げた。
「先生綺麗になったよ! きっと痩せたんじゃないかな」
芳樹は少し興奮気味に続ける。
「そう、そうよね! 痩せたのよね! 長谷川君よく見てるじゃない! 誰かさんとは大違い」
委員長が嬉しそうに、芳樹に同調する。これで俺の敗北が決定した。
しかし、芳樹の奴、よく観察しているんだな……。
六月最後の金曜日。今日は先生達もノー残業デーで、生徒は部活も無く早く帰るように指導される。先生も用事が無ければ、すぐに帰宅するようだ。
実はこの日は俺にとってチャンスなのだ。俺も香取さんも電車通学なので、学校から商店街を通って駅へ向かう。だが、部活の朝練や終了時間の関係で、普段は一緒になる機会がない。でも今日は上手くタイミングを合わせれば、一緒に帰れるのだ。
俺は芳樹や浜田とは帰らず、校門の見える校舎の陰から、香取さんを待ち伏せた。
だが、香取さんがなかなか出て来ない。俺は真っ先に教室を飛び出したので、まだ帰ってはない筈なのだが。
そう考えていると、香取さんが出てきた。でも、委員長も一緒だった。たぶん、委員長が用事で遅くなったのを待っていたのだろう。
仕方なく、俺は香取さん達を追い駆けた。
「香取さん、委員長!」
俺が声を掛けると、二人は振り向いた。
「あれ? 若宮君、先に帰ったんじゃないの?」
香取さんが不思議そうな顔をする。
「ちょっと忘れ物して。駅まで行くんだろ。俺も駅まで」
一緒に帰ろうとまでは言えなかった、駄目な俺。
「そう、じゃあ、一緒に帰ろうか」
香取さんがそう言ってくれたので、俺は二人と並んで歩き出した。作戦ではいろいろ話題を用意していたのに、香取さんは委員長と俺には入りづらい話題で盛り上がっている。
しかし、委員長はいつまで一緒に帰るんだろう。もう商店街の入り口まで来た。うちの学校で駅まで行く人は本当に少ないのに……まさか電車通学なのか? それとも商店街に用事があるんだろうか?
「もしかして、委員長も電車通学なの?」
俺は思い切って聞いてみた。
「ううん。私の家はこの商店街の中にある『増田屋』って青果店なの」
「ええっ! そうなんだ……」
知らなかった。青果店なら割と駅に近い場所だ。香取さんと二人になれる距離は殆ど無い。電車も逆方向だし意味無いじゃないか。
俺はガッカリしながら、二人と並んで、商店街の中に入って行った。
「あっ、あれは……」
商店街に入り、少し歩くと、菊池先輩のたこ焼き屋さんの向かい側で、電柱の影に隠れるように様子を窺っている女性が居た。背格好から片桐先生に見える。
「どうしたの?」
二人は話に夢中で、気付いて無いみたいだ。
「あれ……」
俺は片桐先生らしき女性を指さす。
「あれ? 片桐先生?」
委員長はそう言うと、先頭切って先生に近付いて行き、肩を叩く。
「片桐先生」
「ひやあ!」
委員長に気付いて無かったのか、先生は飛び上がるようにして、驚く。
「ど、どうしてここに……あなた達まだ帰ってなかったの……」
「私は家がそこだし、二人は電車通学です。それより、先生、ここで何をしているんですか?」
「あっ、いや……」
先生はあからさまにキョドリだした。
「ちょっと、三人とも来て!」
先生は委員長の腕を掴んで歩き出す。仕方なく、俺と香取さんも後を付いて行った。
先生は駅の方に向かい、商店街の入り口にある「スイッチ」という喫茶店に、委員長と一緒に入って行く。俺と香取さんも無言で中に入った。
「いらっしゃいませ!」
俺達が中に入ると、カウンター内に居た店長らしき三十代ぐらいの男性と、二十代後半のウエイトレスらしき女性が挨拶をする。
店内はオルゴールの音色と空調がほど良く効いていて心地良い。チェーン店以外の喫茶店に入るのが初めてだったので、俺は物珍しくてキョロキョロしてしまった。
その間に三人は一番奥のテーブル席に向かっていて、気付いた俺も後に続く。俺が席に着いた時には、委員長と香取さんが並んで座り、空いている席は先生の横だけだった。
香取さんの横に座りたかったが、仕方なく空いている席に座る。席は入り口方面に向いていて、カウンターも見える。今、ウエイトレスさんがお冷を運んで来るところだ。
「注文がお決まりでしたら、お伺いします」
ウエイトレスさんが人数分のお冷をテーブルに置いてから、みんなに訊ねる。
「先生が払うから、好きなの頼んで良いわよ」
急にこんな場所に連れられて来た俺は、戸惑っていて飲み物どころじゃなかった。
「じゃあ私はスペシャルパフェで!」
委員長が真っ先にオーダーする。
「あっ、じゃあ私もそれで」
「俺もそれでお願いします」
スペシャルパフェがどんなのか知らないが、流れに身を任せた。
「私はホットコーヒーをお願いします」
オーダーが終わると、ウェイトレスさんはカウンターに戻っていく。
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