第三十九話「学習すれば勝てる、というのが君の敗因だ」



 戦いの変化は、誰にも気づかれないところから少しずつ始まっていた。空を駆けるジーニアスの軌道に、余裕が生まれつつあるのだ。



 それは、試合の趨勢を注意深く観察しなくては気付かない程度であったが――この微差が幾度となく積み重なっていた。



 光の十字の出現を予測する。

 予兆となる魔力の揺らぎを検出して、先に逃げこむ道を見つける。



 魔力の密度の変化、術式、相手の視線――多数ある観測量から、結果の学習を少しずつ行っていく。



 ジーニアスの基本戦法は、演算に時間をかけることにより魔力の不足を情報量で補うことのみ、ではない。むしろ真髄は、状況を学習して、最適化に向けて改善を積み重ねるところにある。



(そうだよね、これがジーニアスの戦い方なんだもの。私が知っているジーニアスは、絶対に諦めない)



 状況の変化に一番敏く気付いたのは、アイリーンであった。



 なぜなら彼女は信じている。

 アストラル体の属性欠落者で、生まれつき魔術を上手に編むことができない人間でも、あらゆる困難を乗り越えられる。

 もうだめだと思った瞬間でさえ、簡単に覆せる。



 ――この世において、知識と想像力イマジネーションさえあれば出来ないことはないのだから。



(そうだよ。ジーニアスは、約束してくれたんだもの。一緒に八賢人になってやるって言ってくれたんだ)



 小さな約束。たとえそれが守られなかったとしても問題はない。約束をしてくれたこと自体が、アイリーンにとって心の救いになっている。そんなささやかな言葉。



 その言葉が、もう一度アイリーンの心を掴んで離れない。

 今まさに苦戦しているジーニアスが、あっと驚くような方法で切り抜ける未来が、頭から離れない。



 きっとあのときのように。

 マルコシアスとの戦いのように、あるいはあの女騎士アテーマとの戦いのように。

 きっとジーニアスであれば、状況を覆してくれる――。





 状況は依然としてジーニアスが不利ではあるが、さりとてルードルフも勝ち切れていない――やがて違和感が、少しずつ、試合を観戦しているものたちにも何となく伝わり始めたその時。



「――――――」



 ルードルフが何かをつぶやいた。

 その口の動きはアイリーンにもうまく読み取れなかったが、それはよく知っている言葉だとも思われた。

 "勝ったな"、と。











 ◇◇











 この勝負を制するには――オルフィレウスの輪が必要不可欠である。

 だから俺は、余分な計算リソースを使用せずに、オルフィレウスの輪の構築を急いだ。



 しかしその傍らで、どうしても必要となる計算時間を捻出するために、相手の攻撃パターンを学習して予測をしていた。



 マナマテリアル製センサデバイスによりもたらされる観測情報。

 誤差のある観測値を用いて、動的システムの状態を推定・制御するカルマンフィルターの応用。



 そして、非ガウス分布性の加法的外れ値(Additive Outlier)が生じる状況における、より正確な条件付き平均の推定値を、マルリェーの定理を用いて計算すれば――。



(計算リソースを削るのであれば、最小次元オブザーバによる推定という方法もある。だが観測ノイズが大きい以上、全状態オブザーバを用いた推定のほうがより堅牢ロバストだ)



 背後に構築した二つのオルフィレウスの輪。

 更に、透明化させていた・・・・・・・・第三のオルフィレウスの輪を解放する。



 刹那、極限まで詰められた情報量が魔力に転換された。



 賭けに出るのは、相手の想定外のオルフィレウスの輪が完成した、今である。



「だから、これでおしまい。ごきげんよう――」



 三つのオルフィレウスの輪が同調する。

 それらを結んだ一直線上に、毎秒数十km――大気の分子と衝突するやプラズマ化したガスが発光するほどの速度を仮想模倣エミュレートさせる。それは天体現象の類似魔術アナロジー



 光の十字が四方八方に交差する、そのわずかな隙間にルードルフまでの道筋を見出す。

 目と目が合った瞬間が、まさに勝負の分け目。



「――極大魔術・流れ星アストラル・シュート



 そして輪が、崩壊する。

 輪を貫きたるは、存在しないはずの十字の











 ◇◇











「学習すれば勝てる、というのが君の敗因だ」



 指導をしてあげよう。

 それが導くものとしての義務だから。



 口から発された言葉には、音で聞こえる台詞以上に、数々の意味が同梱されている。

 それが、カバラ数秘術の使い手、ルードルフの"言葉"である。

 古文書を読み解くとき、神秘主義者が用いる解読法――それを駆使したルードルフの発声法は、発言そのものが魔術となっている。



 失われた統一言語ホモフォーノイ

 その断片を知る、失われた時代の王のルードルフは、勝負に決着をつけようとしていた。



 あらゆる魔術は、失われた統一言語ホモフォーノイ言い換え表現・・・・・・である。

 それゆえに、文脈を失った魔術が成立しないのは必然の理。なぜならば統一言語ホモフォーノイからの文脈を失っているから。



「言っただろう。鋭いがゆえに、拾いすぎて・・・・・しまうと。だから君は、誘導・・に弱い」



 文脈を繰ること。

 ルードルフからすれば、誘導することは他愛もないことである。なぜならばそれは、文脈の操作なのだから。



 ジーニアスが状況を学習して、徐々に対応して、少しずつ不利な状況を修正していくことも想定内。それはむしろ、期待していたこと・・・・・・・・である。



「絶望的な状況を、少しずつわずかな勝機を積み重ねて、最後に想定外の魔術で私にとどめを刺す――魅力的な逆転劇だろう?」



 なぜなら、自分で勝ち取ったように見えるから。





 "太陽十字、八端十字。その輝きספירの全てを解放せよ"



 その命令は、目と目の合った、あの刹那の内に終わっていた。

 ルードルフの背中の⊕が全てを実行し終えていたのだ。

 それは原始宗教における太陽を意味する象徴の記号。

 チェストが盛大に解放される。中に隠してあったサファイアの結晶が、空間を埋め尽くすほどにまばゆく輝いていた。



 呼応して、光の十字架が、八端十字架の形へと姿を変える。



【教国】の聖書には、盗賊の登場する篇がある。それによると、八端十字架の一部が傾いているのは、悔い改めた盗賊右盗が天に召されたことを表しているのだという。



 怪盗 智慧捨王の右半分のみの仮面で、ルードルフは歪に笑った。



「――君が慎重に隠していたオルフィレウスの輪は、きっとその一直線上にできると思っていたよ」



 なぜなら、その場所の付近から、一直線に攻撃を通すことができるのはその位置に限られるから。



 八端十字の枝を極限に伸ばして串刺しにすれば、どこにオルフィレウスの輪が出現しようと破壊できる。

 そのような一直線を、ルードルフは複数作っていたのだ。



 ずっと櫃の上に座っていたのは、相手がこちらへ攻撃する方向を限定するため。

 そして、光の十字架を乱雑に配置しつつ相手を追い立てるような戦いをしたのは、攻撃を一直線に通せる位置を限定させるため。



 通常の十字ではなく、八端十字架にして枝の数を増やして、あとは相手の虚を突いて枝を伸ばして串刺しにすればいい。



「輪が崩壊して動揺しているね? 逆転の手段を失って残念だったね、ジーニャくん」



 大破したオルフィレウスの輪が、細かいガラスのような破片になって空中を散る。

 破片で遮られた視界の先で、今まで存在しなかったはずの無数の光の枝が、メイド服の乙女を串刺しにする。図らずともそれは、まさに磔の姿。



「まあ、面白い勝負ではあったよ。これだけ長時間、私の攻め手から逃げ続けられる魔術師はそうそういるまい。きっと腕のいい魔術師になるよ、それなりに、ね」



 ――破片が、さらに細かく、細かく、砂のように分解される。











 ◇◇











「――あなたは疑うべきだった。どうして私が、生理的反応から割り出される最適なウィスパーボイスを続けていたのかを」



 種明かしは、実に初歩的なことである。

 怪盗を追い詰める推理はいつだって、論理的でないといけない。



 囮のメイド服を脱ぎ捨てて、包帯のみを身にまとった状態で、俺は空中に投げ出されていた。



 試合中、俺はたった二つのことのみを気にしていた。

 "光線の無力化"と、"オルフィレウスの輪の偽装"である。



 光線の無力化は、厄介だが簡単でもあった。

 なぜならば、「クローキング領域で光がどれだけ屈曲するのか」を、試合中に何度も確かめることができたからである。



 透明化の技術は、元を正せば、マナマテリアルにより疑似的に屈折率が負の通り道を作ること。

 つまり、光を誘導する技術である。



 すなわち、試合中にクソ馬鹿強力な・・・・・・・クローキング領域をじわじわと作れば、俺の勝ちなのだ。



「あなたに足りないものは、情熱、思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さ――」



 とはいえ、光も指向性をもつエネルギーそのものである。クローキング領域のみで完封できると考えるのは楽観的に過ぎる。

 ゆえに俺は多重に対策をとっていた。



 まず、試合途中に何度か投げつけた薬瓶の中身は、遅効性の媚薬である。ルードルフが光で焼き払ってくれたおかげで、一瞬で気化して空気中に十分に混ざったはずである。

 俺が空中に逃げたのは、この媚薬成分の比重が大気より重いためだ。



 次に、俺は砕けていい"偽物のオルフィレウスの輪"を作り上げた。

 これは、魔力密度で偽物だと見抜かれないように、きちんとマナマテリアルで作成する。利用イメージは蒸気や砂塵。ようするにミー散乱で光を減衰させる粉体である。



 レーザー光の威力が減衰する理由の一つに、経路上の不純物により散乱してしまうというものがある。

 ミー散乱は、光の波長程度以上の大きさの球形の粒子により引き起こされる大気散乱現象である。



 たとえば雨後の森林の木漏れ日なんかだと、大気中の水蒸気により光のカーテンができていることが確認できる。これが濃厚な霧の日であれば、視界が真っ白でなにも見えないであろう。



 これは水蒸気に白い色がついているのではなく、ミー散乱により光散乱が起きて、向こうが見通せなくなっているのである。



 透磁率、誘電率を自在に操れるマナマテリアルであればなおのこと。

 このミー散乱を引き起こすための"囮"として、偽物のオルフィレウスの輪は欠かせなかった。



「――そしてなによりも、"可憐さ"が足りない」



 空は、光の脅威の全てから解放されて、今かつてないほど自由である。

 今の俺の肌を隠すのは、ミー散乱により生まれた"謎の光"だけである。



 恥ずかしさなどあるはずもない。この裸体は、パレート最適解集合により求められた"可憐さ"の化け物であり、架空の存在である。



 このあられもない姿に、特級指定魔術師たちとルードルフが唖然としていたが、その一瞬が命取りなのだ。先ほどの古魔術タウントのお返しである。相手の集中を思いっきり削がせてもらおうではないか。



「! ぐぁ、な、貴様ッ、いつの間に媚薬をッ」



「これが本当の"心の泥棒"――覚えておいて」



 流石に状況に感づいたのか、ルードルフが咄嗟に光十字で一斉砲火を仕掛けてくるも、ミー散乱に阻まれて大した威力を発揮できていない。

 案の定、ひたすら頑強に練り上げたクローキング領域によってほとんどが散らされてしまい、障壁魔術で十分対処できる威力になっていた。



『The DECISIVE-MAGIC operation systems are in standby... Activate system: Exterminate Mode』



 無機質な音声と共にシステムオペレーションウィンドウが立ち上がる。

 この勝負の決着には、ただ一撃を当てればいい。安定性や威力が遥かに劣るとも、ただ一つの本物のオルフィレウスの輪さえあればいい。



 それは、俺の瞳。

 瞳の中から空中に投影されて展開された魔法陣が、アポロニウスのギャスケットのように拡張され、内側に内側に無限に小円を積み重ねていく。

 自己相似により生まれたフラクタル図形。その再帰的な、無限の図形で作られた魔法陣こそがオルフィレウスの輪なのである。



 流石の怪盗も、俺の"目"を盗むことはできなかったのだ。



「チェストとは、知恵を捨てよ、と心得たり――」



「ぐ、いいだろうッ――勝負だ!」



 無造作の光の十字が、四方八方から襲い掛かる。

 媚薬と裸体で集中をかき乱されながらも、咄嗟にこれだけの光の十字を操るとは、流石に特級指定魔術師の一人だけはある。



 だが、ミー散乱と高強度化クローキング領域に阻まれたその光の攻撃は、俺にわずかなダメージしか与えない。もはやただの光の十字は力不足なのだ。



「"八端十字は、教皇十字――"」



「させない」



 永久機関が輪転し、その膨大な情報量を魔力に転換させる。相手の詠唱よりも早く、その仮想模倣エミュレートは実現された。



 それは、先ほどまでブラフで発動するふりをしていた、天体現象の類似魔術アナロジー

 天を切り裂く極大魔術・流れ星アストラル・シュート





 勝負は、わずか一瞬のこと。



 空気が衝撃波で割れ、尾を引くプラズマの輝きが、独特の匂いを残していた。



 緊急的に発動された、ルードルフの"生命の樹セフィロト"の守護結界が――僅かにひび割れていた。



 俺のオルフィレウスの輪は、強化された光の十字架で串刺しになっており。

 ルードルフの仮面は、見るも無残に砕かれていた。



 それらは、この一瞬の交錯の激しさを雄弁に物語っていた。このたった一瞬が、勝負のすべてを決したのである。





「……なるほど、禁忌術式・生命の樹セフィロトを発動させられたか……私の負けのようだな」



「あなたの敗因は、私を怒らせたこと。ただそれだけ」





 決着。

 ホバーボードにより地面に優雅に降り立った俺は、包帯だけの姿で、カーテシーを髣髴とさせる優雅な一礼を返したのだった。








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