第三十三話「パウダーによる検出の他に、シアノアクリレートを噴霧する方法がある。短時間で硬化する接着剤だが、これは指紋の成分と反応するんだ」


 ユースティティアからの情報提供は驚愕の内容だったが、とはいえど調査による裏付けはしないといけない。

 既に盗難騒ぎになってからしばらく経ったあとなので、現場の保存性は望むべくもないが、それでも情報を調べておくに越したことはない。



 今回は妹のターニャが同行することになった。夜食のサンドイッチを作るとかなんとかいって浮かれていたが、ピクニックではないので勘弁してほしい。



 科学調査に興味津々のアイリーンには気の毒だが、彼女は前回の事件の後遺症が出ているのでお休みである。

 どうやら魔術を迂闊に使いすぎた・・・・・らしい。魂に染み付いた呪いを落ち着かせないといけないのだという。特級指定魔術の代償。強力な魔術なだけに、反動が大きいのだろう。



 ともあれ、ナーシュカに事情を説明し、風紀委員会の調書管理庫の鍵と現場遺留品の保管庫の鍵を受け取ってから、俺とターニャは夜中にこっそり現地へと向かったのだった。











「――Ordaím! Faigh gruaig, snáithíní éadaí, agus fianaise eile」



 夜、誰もいない博物館の一角にて。

 短く詠唱したターニャは、魔石の欠片に息を吹きかけた。

 呼応して、ふんわりと淡い光を纏う小さな妖精たちが、ぽぽぽぽぽ……と魔石のそばから生まれていく。

 否、最初から彼らはそこにあった。周囲を漂う溶け合った気配から、彼らは形を与えられたにすぎない。



 世界の位相の異なる場所から。

 我々のいるユークリッド空間は距離空間であり、中心xがあってそのε近傍にあれば近い、と判断できる。

 しかし、たとえば位相空間上の多様体は必ずしも距離空間ではない。世界がどのような多様体で表現されるのかはいまだに分かっていないことであり、リッチ平坦多様体となるかどうか、コンパクトケーラー多様体となるかどうかは定かでない。

 そもそも、我々のいる世界が(どの視点で論ずるかにもよるが)厳密なユークリッド空間となるかは分かっていないので、「局所的にユークリッド空間とみなせる空間」として多様体の考えを用いているのであり。



 コンパクトな余剰次元の折りたたまれた先、カラビ=ヤウ多様体に宿るエネルギーの揺らぎに、魔力や精霊を当てはめる考え方を俺は仮定しており。



 そして妹曰く、その考え方のせいで、俺はとんでもなく精霊に嫌われているのだという。



「今、妖精たちに髪の毛や衣服の繊維を見つけたら集めておいで、と命じました。みんなお兄様にあっかんべーしてますよ」



「……そうか、さぼってる奴がいたらいつか神秘を暴き立てて数理モデル化してやるぞと脅してやってくれ」



 ターニャの手に持っている皿の上に、ぽつぽつといろんなものが集まっていく。

 髪の毛、何かの食べかす、からからに乾いた草木……あらゆるごみのようなものが皿の上にみるみる育っていた。

 本当に証拠になりそうなものを集めているのだろうか、と思わなくもないが、最近の魔力の残滓をかぎ取った妖精があつめたものなので、ここにあるごみは一応、過去一週間以内に人が触れているはずのものである。



 もう少し補足しておくと、この現場で窃盗が起きたのはおよそ五日前。世界迷宮から出土した謎の石板が盗み出されたという。



(……特に物証になりそうなのは髪の毛。魔力紋の残滓で本人確認を行うことができる、はずなんだが)



 魔力紋というのは、物体が帯びている魔力の特徴である。人それぞれに異なった形の魔力紋があるため、探索者ギルドでは本人確認のために魔力紋を魔石に登録することがある。

 だが、微弱な魔力紋を魔石に転記するのは非常に高度な技術であり、ここまで弱まっているとノイズも多くなって本人特定には使いづらい。



 それならばむしろ、現場に残された指紋にこそ注目すべきであろう。腰元のポーチから、炭素とアルミニウムとマナマテリアルを混合したパウダー粉末を取り出しつつ、俺はターニャに話しかけた。



「指紋の調査は、隆線縁鑑定法、汗腺孔鑑定法などがあるが、せっかく犯人が南京錠や金具を触っているんだ、ここは複数の特徴点から鑑定する特徴点鑑定法を当てはめてみるのがいいだろう」



「……お兄様に聞きたかったのですが、本当に指で触っただけでそんな紋様が残るのですか? 魔力紋の残滓ではないのですか?」



「ああ、残るさ。ターニャも眼鏡や宝石装飾品に触った後はそれを拭くだろう? あれには人それぞれ違う形があるんだ」



「てっきり指の汚れがつくだけだと思ってました……それに、人それぞれの特徴があるとも思ってませんでした」



「指の汚れと言えば汚れなんだけどな」



 パウダーを南京錠に慎重にのせて、浮かび上がってきた指紋の確認を行いつつ俺は答えた。

 ターニャに言わせれば、指の大小や細さ程度の特徴はあることは知っていたが、それ以上はぴんとこない、との感じであった。



 刷毛で慎重に余分なパウダーを落とす。その後、触れるか触れないか程度に上をなぞって、マナマテリアルを薄く延ばして透明の膜状にして指紋の回収を行う。水分や油分が残っている新しい指紋については、この膜で回収ができる。

 問題は古い指紋についてである。



「パウダーによる検出の他に、シアノアクリレートを噴霧する方法がある。短時間で硬化する接着剤だが、これは指紋の成分と反応するんだ」



 シアノ酢酸エステル(クロロ酢酸のナトリウム塩とシアン化ナトリウムを反応させたもの)とホルムアルデヒドを塩基性触媒で反応させることで、シアノアクリレートが得られる。とはいえ微量だ。マクスウェルの悪魔の考えを拡張させたシラードの駆動機関エンジンをもつ俺であれば、化学的平衡はあまり気にしなくてもいいが、さりとて量が得られるわけでもない。



 南京錠に噴霧する程度ならば在庫はあるが――と少々心許なくなってくる俺の化学用品たちに、俺はちょっとばかり思いを馳せた。



「今度世界迷宮で魔物狩りとか素材狩りをして材料をたっぷり仕入れるかなぁ。魔物退治で魂の器魔力の拡張も行いたいし、ちょうどいいな」



「お兄様? 今度はターニャも一緒ですからね?」



 簡単な術式を作って、シアノアクリレートをスプレー上に噴霧する。好奇心で顔をのぞかせていた近くの妖精が、慌ててターニャのところに飛んで戻っているのが視界の端に見えた。



 指の油分、水分、アミノ酸などに反応したシアノアクリレートが、重合を引き起こして白色に変化する。もしここにマナマテリアル由来の蛍光塗料などを混ぜ込んでいれば、この重合部分が塗膜を形成するのだ。

 小さな術式をかけて、紫外光で南京錠を照らす。くっきりと浮かび上がったのは先ほどのパウダーには反応しなかった別の指紋。



「……さて、これで新しい指紋と古い指紋の差分を調査することができるわけだが」



 マナマテリアルを再び膜状に加工し、もう一枚の薄膜で指紋を回収しながら、俺は目をつむって考えた。

 これと同じことを、他の複数の現場で行うと考えたら、なかなか骨の折れる作業である。髪の毛や衣服の繊維の調査も合わせて考えたら、きっと膨大な時間がかかるだろう。できれば犯人の有力候補は絞り込んでおきたい――と俺は考えていた。











「となると……指紋と魔力紋のサンプルを集めるために、メイドに化けた潜入捜査が必要、か」



「今なんて言いました?」



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