第二十八話「問題ない! 振動はすべて安定軌道を外れない! たとえこれだけ揺れてもリアプノフ安定条件を満たす、大域的に漸近安定だ!」


 誘惑の悪魔、メフィストフェレスは賭けをしていた。



 すなわち、老学者ファウストが「時よ止まれ、汝はなんと美しいのか!」と口にしたとき、その瞬間にファウストは命を落とし、メフィストフェレスに魂を捧げなければならないという契約である。



 この世の全てに失望しており、自殺さえ考えていたファウスト博士は、その賭けに乗ることにした。

 “時よ止まれと願うぐらい人生に満足するなど、今さらあり得るはずもない、できるものならやってみせよ”ーーと。



 契約が成立した瞬間、たちまちにファウストは若返った。

 そして彼女は、享楽の限りを尽くすことになった。



 この広い世界のありとあらゆることを体験させよう、とばかりにメフィストフェレスは働いた。あの手この手でファウストを感動させて、隙あらば彼女を堕落させてしまおうとした。



 その賭けは今もなお続いている。



 誤算があったとすれば、ただの小僧と小娘だと侮っていた子どもが、実は小娘の方はとても恐ろしく腕の立つ魔術師だったことである。











 水晶球と魔法鏡で悪霊を操る。

 降霊術における悪霊強制の術式の一種。ここに呪文を添えることで高度な悪魔術へと変化する。

 この術式を高位の悪魔本人が使えばなおのこと。



「あははは、あはは、おかしい、ほんとおかしいわ、あのヨハン先生が私に振り向いてくれないなんて、どうかしてるわ」



 アマンダは胸を抑えながら哄笑した。μή, φώς, φίλοςーーメフォストフィロス光を愛さざるものの操る悪霊が彼女を蝕んでいた。



 憑依術。



 悪霊のほとんどはあくまで実態のない魔力的な存在である。彼らは香の煙と動物の血を依り代にすることで、ようやく現世に形どることができる。

 裏を返せば、実態がないがゆえに、人の身体に取り憑いてしまうことも可能であった。



 お香の煙と香水の匂いに紛れさせた悪霊を使役すれば、ただの平凡な女学生を操ることなどお茶の子さいさいである。



 ひらひらと踊るアマンダは、いまや赤い道化服を着た悪魔メフィストフェレスを守る盾となっていた。



「אתה גברת צעיר מעצבן. אנא נעלם במהירות」



「そうよね、わたし気づかなかった、都合が良すぎるにも程があるわ! わたしがヨハン先生に片思いをし始めてから、即座に都合よくお悩み相談を請け負ってくれる部活動が見つかるなんておかしいったらありゃしないわ! 横恋慕を狙っていると考えたほうが自然じゃない!」



 思考が誘導されている。

 冷静に考えたらそんな道理はないと気付くものなのだが、悪霊が思考の方向をあらぬ方向へと誘導させていた。

 アマンダが目の前の獣の少女に敵意を抱くように感情を操るーーそれは、誘惑の悪魔のメフィストフェレスにとっては造作もないことであった。





 ただし、一つだけ問題があった。

 対峙している獣の少女が、メフィストフェレスの想定を超えた魔術師だったことである。





「へえ、私の魔術に慌てて、思わず女の子を盾にするなんて、案外大したことのない悪魔なんだね、君って」



 蛇のようにうねった光の鎖が、十重二十重と悪魔に襲いかかる。英雄譚の英雄、『鎖のイース・ファナ・ディール』の幻影。

 石礫と炎魔術により鎖たちは空中で撃ち落とされるも、拮抗はやや悪魔側が不利であった。



 傲慢の大悪魔ルシファーの代理人を務める高位悪魔であるというのに、たった一介の少女にこれほど追い詰められるとはーーと、メフィストフェレスは憤りの気炎を吐いた。



「עטלפים, תתקוף את הבחורה הזאת」



 使役する悪霊たちをコウモリの姿に変えて、獣の少女へと突撃させる。英雄譚の英雄『大楯のエル・デ・テレウス』の盾とコウモリの群れが激しくぶつかる。

 瞬間、コウモリの一部に仕込んだ爆発魔術が連鎖的に反応を起こし、さらに毒の霧が少女を包んだ。



「ーー散らせ、『雷鳴のクル・ハ・シャーンク』」



 爆煙の中から雷が飛び散った。

 悪霊を蒸発させる裁きの稲妻。

 即座に悪霊を逃して、大鉈の形に変えて再び襲いかかるも、今度こそ大盾の英雄が悪霊を弾き飛ばした。



「מְעַצבֵּן」



 稲妻の余波がメフィストフェレスを襲い、さらに鎖が空を切って飛びかかる。悪魔は舌打ちをした。

 少女を盾にしながらくるりくるりと逃げ惑うメフィストフェレスは、顔をドラゴンの口に変えて業炎を吐き出した。さながらそれは地獄の業火。しかし。



「ーー釣りあげよ、『釣り針のモーヴィ・フシ・フォヌア』」



 白鯨を被った英雄譚の英雄が、釣り針で地面を釣り上げた。そこにないはずの海の大波が地獄の業火を鎮火させる。ごうごうと白い蒸気があたりを包み視界が途端に悪くなる。



 ここが勝機だーーとメフィストフェレスはげえげえ鳴いてカラスを呼び寄せた。カラスたちは血しぶきを上げてミイラになり、鋭くアイリーンに飛びかかる。



 血は魔弾。

 空を飛び交う鎖は、次々とカラスの血で撃ち落とされる。

 海の水伝いに雷撃が爆ぜるも、空を飛ぶメフィストフェレスにはわずかに届かない。



 血の魔弾とカラスの亡骸が、大盾に守られるアイリーンに五月雨のごとく襲いかかった。続けて悪霊たちが呪詛を吐く。血しぶきが針になってアイリーンに次々と刺さる。

 このままなら勝てる、とメフィストフェレスが口元を吊り上げたその瞬間。



「ーー穿て、『呪詩と弓のジョウ・カイネン』」



 ひょうふっ、と矢がメフィストフェレスの肩をしかりと射抜き通した。

 続けて矢羽に結ばれた光の糸から鎖が飛び出す。光の矢はいつの間にか釣り針になって、メフィストフェレスの肩肉にえぐり込んでいた。



 釣り上げろ、と無慈悲な声。

 メフィストフェレスは地面へと真っ逆さまに釣り上げられ・・・・・・ていく。

 大きく息を吸って再び業炎を吐き出すも、今度は大盾が全てを防いだ。





「ごめんね、訂正するよ、もしかしたら君ってとても強い悪魔なのかもね、だから私のことを侮っちゃったのかなーー」



 地面に激突する間際、メフィストフェレスは獣の少女を見た。



 空中に浮く数々の魔導書。

 先程よりも遥かに長く伸び切った縮れ髪。

 封印の呪文を隙間なく書き込まれた茨のツタが、獣の王女を縛り付けている。



「悪いけど君も、私の生贄になってくれるかな。迷宮の悪魔のマルコシアスと同じように、君も私の糧になってくれたら嬉しいんだけど、ね」



 鎖の力と釣り糸の力で引っ張られた悪魔は、その骨身を余すところなく粉砕させられるような力で大地へと叩きつけられーー。











 ◇◇











 早くアイリーンを助けに行かないとーー。



 ヨハン先生の部屋から飛び出した俺は、背中に抱えている女性のことをまるきり気にせず全力で階段を駆け下りた。悲鳴が上がった。



 身体強化魔術と駆動系制御により、最適化された運動パフォーマンスを誇る俺の肉体は、大きく飛び跳ねることも自由自在である。

 道中ぽろりと落とさないように、ヨハン先生を思いっきり俺の背中に結びつけておけば全力疾走も可能。「〜〜っ」と悶絶した声を上げるヨハン先生には怖い思いをさせてしまっているかもしれないが、今は速さが大事である。



「ゆ、揺れッ、振動ッ」



「問題ない! 振動はすべて安定軌道を外れない! たとえこれだけ揺れてもリアプノフ安定条件を満たす、大域的に漸近安定だ!」



「違っ、そうじゃないッ」



 げえげえと鳴くカラスの魔物が急に増えたのが気がかりである。襲いかかってくる数匹を避けつつ、初級魔術で撃ち抜いて逃げる。

 呼吸が乱れて辛いが、それでも俺は走った。ヨハン先生も半泣きになって震えている。



「許さん……っ、許さんぞ……っ、我輩をこんな……っ」



「何が!?」



 そういえばしこたま強力な媚薬を吸い込んだあとだった。

 気分がとても悪くなっているのかもしれない。こんなに揺らしたら頭がくらくらしてもおかしくないだろう。全身縛り付けられて、呼吸するたびに強制的に俺の背中の汗の匂いを吸わないといけないという状況も良くないのかもしれない。

 制汗剤、買っておけばよかったかもしれない。



「アイリーン! どこだ!? 無事か!?」



 作戦は予期せぬ出来事で中断になった。ヨハン先生は俺のことを、悪魔による襲撃だと勘違いしていた。

 何が起きているのかわからない以上、今警戒すべきは悪魔とやらの存在である。



 突如、爆発音が中庭の方から聞こえた。間断なく騒がしい戦いの轟音。



 誰かが戦っている。

 断片的な情報だったが、急ぐのに十分な理由である。



「ーー!?」



 目に飛び込んできたのは、空から落下する赤い服の人間。

 何が起きているのかは分からないが、あと少しで地面に激突してしまう。







(間に合えッ!!)







 胸に埋め込まれた迷宮核から緊急術式を発動する。マナマテリアルにより形成されたホバーボードが俺の足元に投影される。

 最適サーボ制御により疾風怒濤の速さで、俺は空間を一気に飛び去った。音の壁はとっくに後ろに過ぎ去っている。



 がばっ、とお姫様だっこのように抱えられる赤い服の人間。

「うええ!?」と理解不能な短い声を誰かが上げていた。多分アイリーンの声。



 包帯に巻かれた俺の手と、媚薬の残滓に濡れた俺の胸に抱きとめられた、その道化のような格好をしているのはーー真っ赤な顔をした悪魔。

 吊り橋効果という言葉がある。雄効果という言葉もある。喩えるならば、恋に落ちる音を聞いた気がした。




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