第十四話「得られた、RBM(制限付きボルツマンマシン)の階層型ニューラルネットワークの出力結果が――あまりにもひどかった」


 その頃、魔術学院アカデミアでは、一つのことが話題になっていた。


 入試に大幅に遅刻したにも関わらず、異例の合格をもぎ取った少年。

 新入生にも関わらず、臨時講師として入試問題の解説をした少年。

 生徒会長から直々に呼び出しをされた少年。

 入学一日目の午後から忽然と消えた少年。

 どの授業にも影も形もない少年。


 ジーニアス・アスタのことである。


『ジーニアスの妹です。この度は兄が心配をおかけして申し訳ありません!』


 と、ターニャが関係各位に平謝りをしどおしだったのがついしがたのこと。教員も事務も生徒会も、状況は理解したと返答をして、苦労している妹をねぎらうような言葉をかけていた。


「おう、お疲れ」


「ナーシュカぁ……。お兄様がぁ……」


「ドンマイ。あいつは人に迷惑を掛ける天才だからな」


 昼時、特待生寮の食堂でナーシュカとターニャは落ち合っていた。二回生と三回生、学年は違えども二人は偶に一緒にこうやって食事を摂ることがある。従姉妹同士なのでこれぐらいは普通である。

 主には特待生のターニャと一緒であれば美味しいご飯が無料で食べられるというナーシュカ側の事情もあったが、別にターニャの懐が痛むわけでもない。


「お兄様ったら本当ターニャがいないと駄目なんですね、こうやって私が色んなところに頭を下げているから何とかなっているものを」


「お前ちょっと活き活きしてね?」


 昼食のビュッフェを頬張りながらターニャは形ばかりのため息をついた。活き活きしてないと言えば嘘になるだろう。事実、ターニャは昔から兄に迷惑を掛けられるのをちょっと喜んでいる・・・・・節があった。

 私がいないと駄目、という気持ちが何かをくすぐるのだろう。厄介なことであった。


「でも、色んな人が気にしているのは事実です。私の友だちのアイリーンも、学院側に一筆必要なら書くよと言ってました」


「あの姫さんか。ノリが軽いな」


「口調は軽かったですけど心配してましたよ」


 アイリーンはむしろ、多分魔術の研究絡みなんだろうなあ、きっともっと凄い魔術が見れるんだろうなあ、とそっちの方を残念がっていたのだが、それは別に言わなくてもいいことだとターニャは胸中に納める。透明化魔術しかり、入試問題の講評の伝達関数の安定化しかり、あの好奇心の塊のお姫様はすっかりジーニアスの知識の虜になっていたのだが、それは別の話である。ともあれ一国の姫が、ただの平民の少年を心配しているのだ。


「まあ、あいつ一週間ぐらいどっか行ってるからな。この前も新入生の総代やってたやつが、心配だからと世界迷宮に行こうとしてたな。学院の許可もなしに世界迷宮に入ろうとするなんてとんでもねえやつだぜ」


「アネモイさん、でしたっけ? 兄の文通友だちのようですが」


 こう見えてもターニャは、兄のジーニアスのことをよく知らない。誰よりも一番詳しい自信はあるのだが、突飛な行動が多すぎるので把握しきれていないというのが正しい。確かアネモイという少女は、ニザーカンドが迷宮化した事件で、兄とアイリーンと一緒に迷宮踏破を成し遂げた人、ということぐらいは知っている。

 社交ダンス部か何かの部活で、一人ぼっちで練習していたのをどこかで見かけた記憶がある。アネモイとはそれ以上の交流はない。


「というより、足取り不明ですって!? 授業をさぼっているだけじゃなくて!?」


「ああ」


「まさか迷宮……!」


 ぽろりとフォークを取り落としたターニャは、遅れて最悪のケースに気づいたらしかった。一週間もいない。もし仮にあの兄が世界迷宮にいるとしたら七十日ほど潜伏している可能性がある。もっと深層に挑んでいれば尚更である。

 否、ほぼ確実にあの兄は世界迷宮に挑んでいる。透明化魔術を使える兄は、昔から人の目を盗む天才であった。その上、馬鹿みたいに命知らずなのだから心配は有り余る。


「ナーシュカ、私潜ります」


「まてまてまてまて、三日前に学院内で目撃されてるんだ。迷宮に潜っているという確証はない。学生課に履修科目申請をちゃっかり済ましてるんだよあいつ。きっと無事だ。そもそも世界迷宮への"扉"には専用の"鍵"がないと入れない」


「完全に油断してました、あの兄なら"鍵"を贋作できます」


「いくらなんでもそいつは考えすぎだ」


 やいのやいの、と口論に発展し、行くだの行かないだの会話が急に沸いたようになる。いつの間にか食堂の生徒たちは二人に注目していた。優等生のターニャのほうが勢いづいているのでますます周囲から目を引いてしまっていた。


「ナーシュカは心配じゃないのですか!?」


「心配するだけ無駄なんだよ、あいつのことをいちいち心配していたら心臓がいくつあっても足りないんだ。そうじゃなくてどっしり待ってりゃ、けろっとした顔で帰ってくるさ」


「正妻の余裕みたいなの醸し出すのやめてくれません!?」


「ばっ、っ、っ、誰が誰の妻だ!?」


 ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人のおかげか否か、当の本人のあずかり知らないところで、ジーニアスの悪名はますます高まっていくのだった。






 ◇◇






 俺とユースティティアは、迷宮に潜ってから約七十日に渡って舌戦を繰り広げていた。


「エルズリー・フリーダだ! エルズリー・フリーダに決まってる! 絶対とまでは言わなくとも、極めて蓋然性の高い結果だね!」


「違わーい、エルズリー・ダントじゃ! エルズリー・フリーダは水のラーダ精霊ロアじゃ! 色はピンク、ブルー、ホワイト、ゴールド! 同じ水のペトロ精霊ロアのエルズリー・ダントのほうが、赤、黒、青の色の象徴で、血の捧げものを好むんじゃ!」


「カトリックに悲しみの聖母マーテル・ドロローサの出典がある、七つの短剣で胸を刺されて出血する聖母だぞ! 傷を持った聖母なんてそういるものか、やっぱりエルズリー・フリーダだ、こんな強烈な特徴量がほかにあるか!?」


「チェンストホバの黒き聖母もおるわ! 浅黒い肌で右頬に傷があるのじゃ! そしてエルズリー・ダントも黒い肌をしておる!」


 今日も今日とて解釈が分かれる。もはや日常茶飯事である。師事している立場であるのだから、普通は俺が折れてユースティティアの解釈を黙って聞くのが正しいのだろうが、俺とて無根拠で歯向かっているわけじゃない。疑問は解消されなくてはならないのだ。


 魔女術ならびに混沌魔術の学習は、難航を極めた。

 これらは、機械学習とあまりにも相性が悪いのである。


 身長、体格、魔力量、などの要素を持つ特徴ベクトルを、抽象パラメータに置き換える(特徴抽出)。この抽象パラメータへの置き換え方を試行錯誤し、よりよい情報表現を模索する(表現学習)。


 あるときは高次元のデータ集合から主成分分析を行い次元数を落とす。

 あるときはフーリエ変換・ウェーブレット変換を行い特徴表現を周波数領域に置き換える。

 あるときはBurrows-Wheeler法によるブロックソート後、繰り返し出現するシンボルにエントロピー符号を割り当てて圧縮を行う。


 様々な情報表現方法の組み合わせ層を重ね合わせ、よりよく特徴を抽出しているものを模索する。クラスタリングによる強化学習の繰り返し。


 それによって得られた、RBM(制限付きボルツマンマシン)の階層型ニューラルネットワークの出力結果が――あまりにもひどかった。


(だめだ、七十日近くを機械学習のために使っているけど、全然使い物にならない!)


 ジーニアスは、思った以上に進まない魔女術の研究にぐったりしていた。


 たしかに、既存モデルが過学習によって使い物にならなくなるときもある。その時はバックアップ時のモデルからやり直しである。

 過学習を回避すべくhold-out法やk-folds法を繰り返しても、現実のデータ数が少ない以上、過学習は頻繁に起きる。

 言語翻訳、商取引、薬物調合――いずれも機械学習で何度もやり直した記憶がある。

 だが、混沌魔術の術式解析に関しては当初の想像以上に、学習が困難であった。


「女性が子供を抱いている。聖母の象徴だ。気性が荒いとされるペトロ精霊ロアの特徴量に反している」


「エルズリー・ダントは、Erzulie D' enTort、すなわちErzulie of the Wrongsじゃ。女性と子供を保護し、それを間違えたものに罰を与えるのじゃ。一方、エルズリー・フリーダは慎み深い女性ではない。むしろ愛に奔放で多情な女じゃ。エルズリー・ダントこそふさわしい」


 今でさえ、魔法陣のシンボルが水の精霊のエルズリー・フリーダとエルズリー・ダントのどちらなのか、という初歩的なことで解釈が割れている。


「……薬剤の調合や資料の整理に関しては助かっておるのじゃがの」


 ユースティティアは宿の部屋にうずたかく積み上げられた資料の山と、ずらりと薬品のそろった棚を見てつぶやいた。勝手に持ち込んだ資料は二割ほどが再現性がないとばっさりと処分され、勝手に宿内に持ち込んだ薬品棚はすっかり埋まり切っていた。これらは全て、俺が手伝った成果である。

 我ながら、ユースティティアへかなり貢献してきたと思う。


 資料の整理は、魔女術の勉強のついでにやり始めたのだが、これがなかなか大変だった。

 魔女術の研究は体系立てるのがかなり困難であり、ユースティティアの知識の中には、もうすでに廃れて消えてしまった魔術体系さえもかなり含まれていた。だから、術式の再現性検証と再整理が必要だった。数理的なアプローチは、検証を効率的に進めるのに役立っていた。

 結果的にユースティティアの持っている資料の二割を削減することにできたのだから、かなりいい働きをしたと思う。


 薬剤調合は、俺も望むところであった。俺にとっても学ぶことが多く、当分の間必要な薬剤は、調合の練習がてらに俺が配合することが多かった。結果的にユースティティアも楽ができたはずだと俺は自負している。


(……だが、肝心の魔術解明は、まだ三割程度が関の山だな)


 ユースティティアも俺も、薄々感づいてはいる。

 どうやら俺は――本当に魔女術に才能がないらしい。


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