第十一話「とはいえ概日リズムの寄与だけでは信頼性が乏しいから、覚醒 - 睡眠調節因子として知られる、ドーパミンニューロンを活性化させるプリセット魔術を用意していた。寝過ごすのを防ぐためだ。わかるか?」

 目が覚めたら夜だった。

 隣で猫が寝てた。

 やっべえやらかしたかも、と思ったが後の祭りである。早い話が野宿確定であった。


「やらかした、昼寝のつもりががっつり眠ってしまっていた、でもそんな馬鹿な、1.5時間後には起きれるように調整していたはずなのに」


 小首をかしげる。寝過ごさないよう注意していたはずなのだが。

 こう見えても、体温、ホルモン分泌、血圧をスムーズに調節して、1.5時間後には覚醒状態にゆるやかに遷移できるよう、呪文をいくつか設置していたはずなのに。今見れば、術式がすべて破壊されて、安眠のルーン魔術がそっと添えてあった。


「……お前の仕業か!」


「ひにゃっ!?」


 とりあえず猫をわしゃわしゃとくすぐっておく。にゃいにゃいと暴れる黒猫が人の姿に変わったのは、それからしばらくしてのことであった。






 ◇◇

 現代魔術は異世界をクロールするか 第十一話

 ◇◇






 生理学の観点から見たとき、眠気は、大きく二つの主要因によってもたらされる。睡眠量のホメオスタシス(恒常性維持)と、肉体の概日周期だ。


 睡眠のホメオスタシスというのは、恒常的に一定の睡眠を求める性質のことを指す。たとえば徹夜などで寝不足となると眠気は増大し、その徹夜分をしっかり眠ることで眠気が軽くなるが、これはまさに恒常性維持の話である。覚醒時間が長期化するにつれて睡眠負債が大きくなって眠気が増大することは、睡眠の二過程モデルのProcess S(Sleep homeostasis)で説明される。


 もう一つの主要因、概日周期とは早い話が体内時計である。

 哺乳類は体内時計を持っているとよく説明される。これは概日体内時計タンパク質(Circadian Clock Proteins)のことを指し、それぞれ、Clock(時計)、Cryptochrome(クリプトクロム)、Period(期間)……などといった名前が付けられている。これら体内時計タンパク質の寄与により、日中には眠気を抑える覚醒信号が出されて、夜は眠気が強くなる。この概日周期は、睡眠の二過程モデルのProcess C(Circadian rhythm)で説明される。


「とはいえ概日リズムの寄与だけでは信頼性が乏しいから、覚醒 - 睡眠調節因子として知られる、ドーパミンニューロンを活性化させるプリセット魔術を用意していた。寝過ごすのを防ぐためだ。わかるか?」


「にゃいにゃい」


「猫のふりをするしてごまかすんじゃねえよ」


「にぁああ」


 目の前で正座する黒い魔女ユースティティアの鼻をつまみつつ、俺は滾々と説明した。

 今日は大事な入学式だった。とりわけ午後は、入寮手続きなど大事な申請手続きをいろいろと進めなくてはならなかった。だから時間内に起きなくてはならなかった。どこかの誰かが術式破壊をして安眠させるなんてことをしなければ間に合っていたはずだ、と。


「そんなに大事じゃったら昼寝なぞしとる場合じゃなかろうが、この阿呆」


「うるせえ、お前の無茶ぶりで緊張して昨日あんまり眠れなかったんだよ。何だよいきなり試験問題の講評って。新入生にさせるようなことじゃないだろ」


「あれはお主の実力を確かめるために必要だったのじゃ。教授陣でもお主の扱いは賛否両論だったのじゃぞ? 仮入学にこぎつけるまで、何とか関係各位に根回しをして、じゃあ理解度を確かめるために問題を解説させましょうよ、となったのじゃ。むしろ不合格にならんかったことを感謝してほしいぐらいじゃわい」


「うぐ」


 俺の抗議むなしく、どうにも会話は旗色が悪かった。安眠のルーン魔術も、俺の疲れを癒すための気遣いらしいし、こうなるとあんまり責められない。いろいろもやもやするが、ため息をつくほかなかった。相手には大きな借りがある。仕方ない。


「野宿かあ。どうしようか。別に一日ぐらいならいいけどなあ」


「? お主、寮の部屋がないのかの?」


「だから申請できなかったんだよ。入寮申請書がなかったんだ。だから今日はどうあっても野宿さ。俺は貴族とかじゃなくて平民だから、何とか便宜を図るよう交渉することもできないしね」


「はーん、そういうことじゃったか」


 にやりと笑った口元を抑えるようにして、魔女は何やらを思案していた。


「……妾のところにくるかえ?」


「え?」


「一日だけなら泊めてやってもええぞ。代わりに薬剤調合を手伝ってもらうがの」


 渡りに船、という言葉がある。風呂で身体をさっぱり綺麗にしたいし、野ざらしで寝るよりも屋根付きで温かい布団でゆっくり寝たい。そういえば彼女は世界指折りの大魔術師だ。七大魔術師の一角、魔女術のユースティティア。さぞや快適な場所に住んでいるだろう。

 なるほどありがたい話だ、と俺は一も二もなく頷いた。






 ◇◇






 魔術学院の敷地内の広場には、ちょっとした風除けになっている謎のオブジェがある。オブジェは中が空洞になっており、人ひとりが寝転がるには十分すぎるスペースがあった。


「結局野宿じゃねーか」


 衝撃の事実だった。何とユースティティアも不定住の人ホームレスであった。世界に名だたる偉大なる魔術師の一人だと言われているのに、これは予想の斜め下である。

 どうやら彼女は、この謎のオブジェを根城にしているらしい。


「ほれ、そこにベッドがあるじゃろ? あれを使ってええぞ」


「藁じゃん」


「何度も使っておるから、十分柔らかくなっておるはずじゃ。定期的に煙を焚いておるから虫が湧いたりもしておらんぞ」


 そういう問題じゃないんだが。俺の想像しているベッドというのは、もっとこう、シーツやら何やらがあるはずだ。本当に野宿と変わらねえな、という有様に苦笑いがこみあげてくる。屋根があるだけありがたいかもしれない。


「すまない、できれば体を清めたいんだけど」


「そういうと思うてな、今湯を沸かしておるところじゃ。体を拭くとええぞ」


「なるほど」


 何となくわかっていた。今鉄鍋に火を入れて沸かしている水は、来客用のお茶にしては量が多い。これを水で割って適温にしてそれで身体を拭いて清めろ、ということなのだろう。


「……レモン?」


「正解じゃ。レモンの皮を煮込んだお湯じゃから、これで身体を拭いたらさっぱりするじゃろう」


 なるほど、気が利いている。


「このレモン湯に、炒ったドクダミと塩を加えてお茶を作るのがええんじゃ。残った茶殻は焼き菓子に混ぜるとちょうど栄養も取れるでな。ほれ、昨日の余りものじゃが食べるとええぞ」


 思った以上にしっかりしたお茶と茶菓子が出てきて、俺はちょっと意表を突かれてしまった。野宿なのに用意がいい。

 よく考えたらおもてなしを受けているのだから、あれこれ文句をいう立場ではない。ありがたくいただくことにする。

 夕食をまだ食べていなかったので、空きっ腹にはとても嬉しいおもてなしだった。


「……ありがとう、ユースティティア。この寒空の下で一晩過ごすことを考えたら、本当に感謝してる。ぜひ恩返しさせてほしい」


「かか、そんなの構わんぞえ。お主には薬剤調合をたんと手伝ってもらうからの。一宿一飯の恩は大きいいからのう」


「そのことなんだけど」


 ドクダミ茶を一口含みながら、ふと俺は思いつきを喋ってみた。


「もしよかったら、世界迷宮に一緒に潜って、素材を集めるのを手伝うというのはどうだろうか。俺もちょうど世界迷宮に入ってみたかったんだ」


 どうせ手伝うなら、迷宮に潜ってみたい。それもこの学院から足を踏み入れることができる、世界最大の迷宮に。

 そう思っての提案だったのだが、「やはりかのう」と黒猫の魔女はお見通しとばかりに笑っていた。



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