第五話「有機チオ硫酸化合物。玉ねぎやニラなどのアリウム属植物のもつ化学成分。 赤血球や赤血球の中に含まれるヘモグロビンを酸化させる作用を持ち、還元型グルタチオンとの反応によって、溶解性貧血を起こす」

 迷宮の奥で巨大な炎の柱が上がったのを目の当たりにして、中心部から離れていた魔物たちは動揺を隠せなかった。

 急いで駆けつけるべきか、それとも今は外から迫りくる敵に集中すべきか。おそらくはそのような逡巡があったのだろう。

 しかしその迷いは、戦闘中においては致命的な隙となる。


「――せぇや!」


 ニザーカンド解放部隊の一人が、狼の魔物の頭蓋を矢で射抜いた。

 呼応して、冒険者たちが魔物に矢を、そして魔術の雨を浴びせかける。

 近接戦闘しかこなせない魔物は、遠距離からの攻撃に弱い。ニザーカンド解放部隊を率いる共和国騎士は、そのことを熟知していた。


 状況は解放部隊に有利であった。魔物たちは、数こそ多かったが個体としての脅威はそれほど高くない。野良の獣を相手にするのと大差ない。

 加えてこちらは、優れた腕前の魔術師が複数人いた。


 カバラ数秘術を研究する【教国】の若き枢機卿カーディナル。『貴公子』『魔道王』ルードルフ。

 身体の刻印から武器を自由自在に取り出せる、【通商連合】の最終兵器。『赤鬼剣士』ナーシュカ。

 妖精女王の生まれ変わりと称される【精霊の森】の精霊術師。『精霊の導き手』ターニャ。


 特級指定魔術を使いこなせる彼ら三人がいる限り、ニザーカンド解放部隊は百人力である。百人力どころか、彼らは一騎当千の魔術師であるといってもいい。もはや攻略は時間の問題である。


(――それでも、私は気がかりです。お兄様)


 唯一、ニザーカンド解放部隊に焦りがあるとすれば、要救助者リストに載っている、国賓級の二人を見つけられていないことであろう。

 特級指定魔術の使い手。【王国】の姫、アイリーン。【公国】の伯爵令嬢、アネモイ。

 この二人の行く影を未だ捕捉できていないのである。この部隊の迷宮攻略進度は相当早いペースであるが、それでも追いつかないのは奇妙な話だ。たった二人で迷宮探索をそんなにするすると進められるだろうか。


 それに、もう一つ。

 部隊の一員である精霊術師の少女は、遠くに燃え盛る炎の旋風を見据えながら、不安を募らせた。


(おそらく、ジーニアスお兄様があの先にいるはず。あの常識のないお兄様のことだから、平然と迷宮の奥にまで到着していてもおかしくないです)


 そして、迷宮の中心に待ち構える魔物を焼き殺すために、時計台に放火することさえ厭わないだろう。効率のためには躊躇がない。あのすっとぼけた表情で「当然だろ? 生物は炎に弱い」とか言って肩をすくめる姿が想像できる。

 そして、だからこそ心配なのである。


 精霊術師の少女は、発動している魔術の勢いをさらに強めた。それが彼女の焦りを如実に表していた。


(だから心配なのです。迷宮核の守護者相手に、小細工が通用しなかったときはどうするのですか、お兄様! いつもそうやって、なし崩しに命を懸けるではありませんか!)






 ◇◇






 クローキング領域に防壁魔術を重ね合わせる。

 咄嗟の判断だったが、これが辛うじて災いを防いだ。マルコシアスの突進。捨て身の一撃だったのか、防壁魔術にはひびが入り、三人は衝撃で後ろに吹き飛ばされてしまった。


(透明なのに一瞬でこちらの場所を――!?)


 匂いをたどったとしても、炎の渦の流れのせいで空気が乱れていて探知しにくいはず、と考えてすぐに原因に気付いた。魔力だ。俺たちの魔力が"不自然なほどかき消されている場所"を感知して、逆に怪しい、と場所を探り当てたのだ。


 智慧が回る魔物である。非常に危険な相手だ。


「――吹き飛べ!」


 とアネモイが叫ぶ。同時に恐ろしいほどの魔力が収斂し、一条、二条、三条、と重なったアストラルの流れが、突如光の奔流となって黒い犬をぶち抜いた。

 咆哮。空を裂く一閃。

 え。何だこれ。

 大砲じゃん。

 というか竜の息吹並みだ。


 驚嘆に言葉を失う俺だったが、敵もさるもの。光線束に吹き飛ばされてのたうち回りながら、それでも光を逃れ、地面をジグザグに駆け回って再び突進してくる。

 速すぎる。

 防御が間に合わない。

「護れ!『大盾のエル・デ・テレウス』!」と声がした刹那、衝撃がまた俺たち三人を襲い掛かった。


 目の眩む一瞬。

 運が悪い。むせかえって蹲った獣姫アイリーンは、今の一撃を一番深刻に受け止めていた。

 だが彼女のおかげで一命をとりとめた。彼女の『王国魔術』で召喚した英雄、『大楯のエル・デ・テレウス』が俺たちを守ってくれたのだ。大楯の守りがなければ、本当に誰か死んでいたかもしれない。


(――じゃなくて、速すぎる! なんだこいつ! 熱傷の深さから言えば重篤のはずだぞ! なんでこんなに速く動けるんだ)


 鳩尾を抑えて苦しそうな獣姫アイリーンを庇いながら、俺は魔術を応射する。当たらなくていい。よけてくれたら十分。時間稼ぎの乱射。

 だが、本心を言えば、マルコシアスを仕留めたかった。


 奴は瀕死のはずである。

 げぇ、とどす黒い何かを吐きながら、何発かよけきれずに魔術を食らっている。皮膚は熱に爛れ、組織液がしみだしてぬらぬらと濡れて、しかも無理に動いたせいで血をあちこちにこぼしている。火傷の深さから言えば、筋繊維さえもまともに動かせない状態のはずだ。


 それでも、マルコシアスは死力を尽くして戦っていた。今にも死にそうだというのに、最後の最後まで抗うつもりらしかった。


(――上等! ならば奥の手を切るまで!)


 金髪縦ロールアネモイの第二砲がマルコシアスを吹き飛ばす。断末魔のような恐ろしい声をあげながら、それでもマルコシアスは耐えきった。竜の息吹を二度も受け止めながら、なおもマルコシアスはこちらに向かって突進してくる。

 俺は今度こそ防壁魔術を展開した。魔力がもう完全に底をつきかけている。防壁は木っ端みじんに砕け散ったが、その隙に俺は一撃を差し込んだ。


 クロスボウの一射。

 人の手では、両手回し式のハンドルを使わないと弓を引きなおすこともできないほどの強烈な一撃。事実上、一回の戦闘で一度きりしか使えない攻撃だ。

 竜の息吹とはとても比べ物にならないが、当然、黒い犬一匹なら優に吹き飛ばすことができる。


 でん、でん、と地面を跳ねるマルコシアスは、それでも辛うじてまだ立ち上がろうとしていた。


「……逃げるぞ!」


 咄嗟に獣姫アイリーンを抱え、俺は金髪縦ロールアネモイと一緒に走り出した。

 残りかすの魔力で、魔術の乱打を繰り出して距離を稼ぐ。

 もはや悪あがきだったが、それでも十分である。


 呼吸も不規則でおかしくなり、ふらつくマルコシアスは、それでも爆発的な速さでこちらに向かって疾走し――そして今度は大楯の英雄の盾と衝突して後ろに吹っ飛ぶ。意識をかろうじて繋ぎ止めた獣姫アイリーンの魔力操作。

 更に重ねて、金髪縦ロールアネモイの第三射がマルコシアスの身を大きく焼いた。ただし竜の息吹を吐く彼女も、そろそろ限界が近いのか、反動で胸を押さえて胃液を吐いている。一進一退、猶予は全くない。


(だが、ビンゴだ!)


 ロープを引っ張って、罠を作動する。同時に、木が支えを失ってマルコシアスめがけて倒れこむ。あらかじめ設置しておいた罠がここで牙をむいた。倒木の勢いで、かの黒い犬から頭蓋の砕けるような音が聞こえた。


 それでもなお。

 もがき苦しみながら、木の重さから抜け出すマルコシアスは、血をこぼして再度こちらに駆け寄ってくる。


 ――強すぎる。


 逃げる俺の背中で、大楯の英雄がマルコシアスを吹き飛ばすのを目撃した。臓器のようなものを腹からこぼしながら、それでもマルコシアスは、こちらに向かって再度走ろうと向かってくる。


 距離が離れない。

 罠ももう底を突いた。

 アイリーンは意識を朦朧とさせており、俺もアネモイも魔力はとっくに尽きている。


(走れ。いいぞ、お前はもう死んでいる! 走って血が循環しきった時が最後だ!)


 大楯の英雄を踏み越えて、中空から襲い掛かろうとするマルコシアスが、再び竜の息吹で半身を吹き飛ばされる。アネモイの、最後の気力を振り絞っての一撃。

 だが入りが浅い。マルコシアスが半身をよじって、態勢を整えてそのままこちらに飛び込もうとする刹那――ようやくそれは始まった。


 べしゃり、と地面に激突するマルコシアス。

 筋肉が痙攣を起こしたようになって、襲い掛かることさえままならない。


 酸欠の症状。あるいは、中毒症状。

 全く、反応が遅すぎる。

 砕けた脳天の幹にナイフを突き刺して、俺はようやく一息をついた。






 ◇◇






 有機チオ硫酸化合物。玉ねぎやニラなどのアリウム属植物のもつ化学成分。

 赤血球や赤血球の中に含まれるヘモグロビンを酸化させる作用を持ち、還元型グルタチオンとの反応によって、溶解性貧血を起こす。


 よく、犬に玉ねぎを食べさせてはならない、といった言葉を耳にするであろう。

 これは犬のように、還元型グルタチオン濃度が遺伝的に多い生物が有機チオ硫酸化合物|(アリルプロピルジスルファイドなど)を摂取すると、ひどい溶解性貧血を起こすためである。

 嘔吐、下痢、呼吸困難の症状を起こし、ひどい場合はチアノーゼや全身痙攣を引き起こす。

 加えて言えば、HK 型赤血球を有する犬種の場合は、還元反応の過程で赤血球内のカリウムが血液中に流出して、高カリウム血症も併発しうる。


 量によっては死に至る毒だ。

 そして俺は、それをクロスボウの矢じりにたっぷりと塗布していた。


「これだけ激しく走り回っていれば、血液循環も早くなるだろう。還元反応に時間がかかることは分かっていたが、ここまで粘ったのは驚嘆に値する。だがそれでも、とどめの一撃にはなったようだな」


 ただでさえ、火災旋風で大火傷を負っていたのだ。臓器は熱でひどく痛めつけられ、呼吸器も重度の障害を受けていたはず。

 それに加えて、致死量をはるかに上回る毒を盛り込まれたのだから、この敵はいつ死んでもおかしくなかったはずである。


 ぐったりと座り込むアネモイ、アイリーンの隣で、俺は呼吸を丁寧に整えた。

 女の子のそばで息が荒いのはよくない。また難癖をつけられかねない。そんなどうでもいいことを考えながら、俺は勝利の喜びをかみしめるのだった。



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