Ep. Final
「あなたの導き手よ」と百合は言った。
「僕の導き手」
「そう、私はあなたに『哲学的ナ命題』を与え、そしてあなたにその命題について一生をかけて解決してもらう。その命題はあなたが原初に持つ『苦悩』。あなたはそれを望み、この空間を作り上げ、そして、私を呼んだ。だから私はあなたの味方として、『導き手』としてあなたを命題に導いた」
僕は百合が何を言っているのか分からなかった。いや、違う。分かろうとしなかった。
「僕は、どうなるの」
「大丈夫。またいつもの生活に戻るから。最後の『問答』をすれば、あなたは覚める。そしてその『命題』が解けた時、伝えにくるの」
そう言って、百合は服を脱ぎ、裸になって海に入っていった。
「ここで話しましょう」
僕は、百合に導かれるまま服を脱ぎ生まれたままの姿になって海に入っていった。
百合の裸はとても魅力的ではあったけど、性欲に導かれるようなことはなく、ただ彼女が持つ神秘性にのみ縛られていた。
裸の男女が海の中で手を繋いでいた。
「どう?冷たい?」百合は僕に聞いた。
「冷たい」
「そう」百合は別れる前と同じ笑顔を見せた。
百合は唐突に僕を抱きしめた。僕の胸板に彼女の乳房が押しつぶされた。柔らかい感触が全体を包み込んだ。
百合は耳元で囁いた。
「どうして『さよなら』は寂しいのかしら」
僕は黙って百合を抱きしめた。
「分からない。過去も未来も副次的なものに過ぎない僕らにとって『さよなら』が寂しいはずがない」
「そう、あなたはそう思っていた。これまでそう考えていた」
「君はこれまでの僕だった」
「そうとも言える」
百合はそう言って首の位置を変えて逆の耳に向かって囁いた。
「今はどう感じる?」
「『さよなら』が持つ寂しさは過去に縛られずに単独に存在するはずだ。その言葉もつ発音、字、などに」
「でも、それは今はわからない。やはり過去に起因しているのでは?」百合は問答を続ける。
「そうかもしれない。ただ、それはあくまで副次的だ。『寂しさ』を助長するのに過去の記憶は必要不可欠だが、過去の記憶が『寂しさ』の根源を生み出すわけではない」
「では何?」
「それを見つけるのが、僕の役目」
「見つけることができそう?」
「君がそばにいるなら」
「私は君だし、君は私。さぁ、目覚めて。そして、私に『寂しさ』を教えにきて」
僕は百合と一緒に海に沈んでいった。苦しくはなかった。目を瞑り、二人で抱き合いながら沈んでいった。暗い海の底へ、深淵へと、
沈んでいった。
気がつくといつものベッドの上だった。窓からは西日が差し込んでいた。だるいからだを叩いて起き上がる。いつもの小汚い部屋。片付けが上手くなくて色々と散らかっている。僕はまず、机を片付けることから始めた。
あの夢を見てから、僕は急に涙脆くなった。色んなことで泣き、いろんな別れを見ると心が苦しくなった。『寂しさ』が僕を締め付けていた。僕の謎は、考えることはどんどん深くなった。
“adieu”
どこかでその声が聞こえる。僕は百合を思い出した。夢の中にいた少女。僕の過去であり、僕の原初。今日もあの海辺で僕を待っているのかもしれない。”adieu”の答えを楽しみにしながら。
僕はその日から行かなくなっていた大学に通うようになり、哲学者を志すようになった。百合に答えを届けなくてはいけない。『寂しさ』の根源はどこにあるのか。僕の『哲学的ナ命題』は解決していない。その命題を解くまでは僕は諦めることはできない。
そうして、何年も経った。幸運が重なり、僕は大学の助教にまでなれた。その後も研究を続けた。先行研究も読み漁り、論文も書いた。その全てが『さよなら』についてだった。周りの研究者からは『トラウマ持ち』と呼ばれることもあった。でも、僕は気にしなかった。『命題』を解決するまでには僕は百合に会えないのだから。
そうして、何十年も経って、僕もとうとう死を宣告された。いつ死んでもおかしくないような歳になった。僕の命題はまだ解決していない。僕の命題はこの人生との別れを主題にして進んでいた。
そんなある日、僕はある啓示を受けた。悟ったとも言ってもいいかもしれない。それはとても単純なものだった。ただそこにたどり着くには言語化できないような論理がある。それでも、僕の中でその悟りこそが『命題』への答えだった。誰に伝えるでもない、書籍として残らず、この老いた躯体が滅びるとその悟りも消えて無くなる。四苦八苦の中で生き続ける僕たちの『命題』。
気がつくとあの海辺にいた。僕は年老いた老人ではなく、あの頃の僕だった。でも、海辺は西日で真っ赤に染まっていた。
僕は彼女の名前を叫んだ。でも、返事はなかった。あの頃のように、「ヨーソロー」とも叫んでみた。でも、返事はなかった。砂浜を走り抜けた。息が切れようとも無理して走った。それでも彼女はいなかった。そうしてずっと探し回って、百合はいなくなってしまったと思った。
―寂しかった。
―どうして?
声が聞こえた。でもその声はずっと遠くで鳴り響いているような声だった。
―君に逢いたかったんだ
―そう
その声は言った。
―答えは見つかった?
僕は何も言わず頷いた。
―それはよかった。
僕は砂浜に座り、海を眺めた。すると、横から花の香りがした。砂浜からする花の香りに、おかしいなと思った。花の香りにつられて歩いていくと、そこには小さな花壇があり、小さな花が咲いていた。
百合の花だった。
―答えを教えて
声は言った。
―君を愛している
僕はそう言った。
―そう
僕は花壇の元に砂で書かれた文字を見つけた。そこには次のように書かれていた。
“adieu”
僕の証明は終わった。
或ル男ノ哲学的ナ命題 θ(しーた) @Sougekki
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