Ep.5

 一人で砂浜を歩き続けた。誰のことも考えずにとりあえず歩くことに集中した。この世界にはそもそも僕一人しかいないんだと思い直すことにした。それでも、どうしても百合は頭から消えることはなかった。

 どうして、百合はあんな話をしたのだろうか。百合は僕に何を求めているのだろうか。いきなり、意味のわからない話をされて僕は嫌になって逃げた。側から見れば百合がおかしい奴で僕は何も変なことはしていない、と思う。だけども、なんだか嫌な気分になった。百合が傷ついているんじゃないかと案がえれば考えるほど、なんだか自分が嫌な人間のように思えた。そうして、嫌になって全てを忘れようとして、また歩くことに集中した。

 そんなふうに思考と無思考を何順か続けた時にふと思った。どうして百合は僕に「さよなら」について考えさせようとしたのだろうか、と。そう考えると色々不思議に感じた。僕はどうして百合とそんなに気さくに話をすることができるのだろうか、百合はそもそも何者なのだろうか、この世界から仮に出ることができた時、百合との別れを悲しむのだろうか。

 ―さよなら、って何なのだろうか。

 百合は結局のところ、早とちりしていたのかもしれないと感じた。僕は遅かれ早かれこの問題に出会わざるを得なかった。それがこの海辺の世界でなのか、陰鬱で無意味な元の世界なのかわからない。でも、僕はいずれ、必ずと言っていいほどこの問題にぶち当たることになっていたのだろう。でも、百合はそのことを伝えずに、いきなり「問答」をしてきた。だから僕は納得がいかなかった。

 もし、この仮説が成り立つのなら、百合は何者なのだろうか。僕にとって彼女は何者なのだろうか。そして、ここはどこなのだろうか。

 考えれば考えるほど僕は自分の暗い穴を覗き込んでいた。その穴はとても深く落ちたらひとたまりもないようなものだった。深淵を覗く時、我々も云々という格言があるように僕は今対峙している穴に飲み込まれそうになった。百合は何者で、僕に何を伝えようとしているのか、ここはどこなのか。百合はもう二度と会うことはできないのか、彼女の最後のセリフは”adieu”なのか。

 僕は歩くのをやめた。砂浜に座り、海を眺めた。僕はこのままどうなるのだろか。どこへいくのだろうか。元の自分の生活を思い出した。全ては別れの世界だった。小学生も中学生も高校生も誰かが僕に手を差し伸べていた。でもその全てが僕にとって邪魔だった。何度も何度も手を差し伸べてくれた人もいた。母親だった。父親だった。でもその手すら払い除けた。彼ら彼女らは僕の前から去った。罵声を浴びせながらの者もいたし、何も言わないまま去っていく者もいた。でも、彼らは一様に僕の前から去っていき、そして、二度と現れることはなかった。

“adieu”

 耳の中で誰かがそう呟いた。かつての友人の声だったかもしれないし、恋人の声だったかもしれない。一番聞いてきた家族の声だったかもしれない。もしかしたら百合だったかもしれない。わからない。でも誰かが僕の耳元で囁く。

“adieu”

 嫌だ!と心の中で叫ぶ。これまでの自分の過ちを赦せとは言わずとも誰も僕の目の前から二度と去ってほしくはない。何度も嫌だ!ここにいてくれ!と心の中で叫ぶ。でも、耳の中ではいろんな和音を奏でながら、囁く。

“adieu”

「嫌だ!!!!」

 僕はとうとう声を上げていた。

「何が嫌なの?」そう声が聞こえる。聴き慣れた声。でもその声はこれまでのものとは違っていた。僕は声の方を見た。

 百合が少し寂しげな顔をして立っていた。

「何が嫌、なの?」

 僕は泣きじゃくりながら答えた。

「誰かが僕に『さよなら』と言ってくるのが嫌なんだ。僕のそばから誰かがいなくなるのが。百合、君もいなくなるのかい?僕は誰が僕と証明して、僕の価値を示してくれるんだい?」

 百合は何も言わず僕の横に座った。

「どうして『さよなら』が嫌なの?」

「わからない。でも、どうしようもなく寂しいんだ。『また明日ね!』とか『バイバイ!』が持つものとは違う距離を感じるんだ」

「さっきとは違う回答ね」

 百合はそう言いながら寝転がった。

「あなたは、別れが寂しいのは、『過去の記憶』に原因を求めた。でも、今のあなたは違う。”adieu”が持つその言葉の意味それ自体に寂しさを感じている」

「君は何者なの?」僕はずっと思っていた質問をした。

「私?私は筧百合。さっき名乗ったじゃない」

「そうじゃなくてさ、君は、どんな人間なの?」

「そうね、それはあなたが知っているんじゃない?あなたが必要としている人間。絶対に”adieu”と言わない人間。そして、その深淵に向き合ってくれる人間」

「君は僕が作り出した幻想・・・?」

「イマジナリーフレンドとも言えるかもしれない」

「それじゃあ、ここはどこなの?」

「ここはどこでもない場所。永遠に海と砂浜が続く場所。あなたの心の中に眠る思い出の場所。あなたも気づかない、原初の場所」

「君は、誰?」

「筧百合。あなたの導き手よ」

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