Ep.4
「命題?」僕は百合に聞いた。
「そう、命題。聞いたことあるでしょう」
「数学とかに使われているやつ、だよね」
「別に数学だけじゃなくても使われるけれどね」
僕は、百合がどうしてこの言葉を使ったのかいまいちよくわからなかった。
「ここでね、私と翔で話をするの。その話はね複雑怪奇で一発で答えが出ないようなもの。もちろんずっと二人で考えることなんてできない。だからあなたが一人になった時、私がいなくても今後考え続けるの。そして、その答えをあなたが出した時、私に伝えるの。それがあなたの生きがいだし、あなたに課せられた使命。そのための努力は惜しまないけれど、それ以外はしなくていいの。あなたの価値は私が保証するし、あなたは自分を責めなくていいの。それすればいいの」
百合が言っていることについて意味がよくわからなかった。
「それはどういうこと?」
「単純にいうとね、今から私とあなたで一生を賭けて導き出す『命題』を考えるの。そして、あなたは文字通り一生を賭けてその命題について答えを出すの。そしてその答えを、こうして二人で会えた時に私にプレゼンするの。あなたの使命はそれだけ。その『命題』を答えるために生きるの。自分を奮い立たせるの。自分を認めるの。それをしているときだけあなたはあなたであって、そのことを確信するの」
「よくわからないなぁ」
「それでもいいわ。いずれあなたはそれをわかる時がくるし、それはそう遠くないはずよ」
百合はそこまで話をした後、砂浜に座った。
「そうね、“adieu”って言葉知っているかしら」
と百合は話を始めた。
「”adieu”。それは、『さよなら』を意味するの」
「確かフランス語、だっけ」と僕は持っている知識で答える。
「そう、フランス語で『さよなら』。でもね、単なる『さよなら』ではないの」
「どういうことだい?」
「“adieu”が持つ『さよなら』の意味は、『永遠の別れ』なのよ。明日また会えるとは限らない、いや、むしろ今後一生合わないかもしれない。そのような時に使われる挨拶なのよ」
「それは悲しいね」
僕は百合の話に耳を傾ける。
「私たち人って、どこかで出会って恋に落ちて、セックスして子供を作って、家族になって、そして老いて死んでいく。それは古代の仏陀が言っていることじゃない」
「所謂、四苦ってやつのこと?」
「彼は、それを『苦』と捉えているようだけど」
百合はここまで話をして今度は砂浜に寝転がった。
「それじゃあ、離別は、“adieu”はどうして寂しいのかしら。愛別離苦を取り出すことはできないのかしら。そう考えたわけよ」
百合は話を続ける。
「私たちって、肉体を持つだけの存在として考えてみて。私たちを形作るのは、今現在存在を証明するのは今こうして話している思考ルーチンと肉体だけ。過去は単なる事象でしかないし、未来は単なる絵空事でしかない。そこには何の影響力も持たない。そのような現在のみを生き続ける私たちにとって“adieu”って本当に寂しいものなのかしら」
百合はそこまで話をした後、僕の方を見た。あなたの番だと伝えているようだった。
「寂しいんじゃないかな」と僕は言った。
「僕は今こうして、君と会話している。これは現在進行形で行われている作業だ。その中急に君が僕の目の前から消えて、そして今後僕の目の前に現れないとするのなら、僕は非常に寂しいと思う」
「その寂しさはどこから生まれるのかしら」
「というのは?」と僕は百合に聞き返した。
「『寂しい』という感情を持つために何が必要なのかということよ。私たちが『寂しい』と感じるには過去と現在のギャップが存在するはずよ。『過去に〇〇があったのに、現在存在しないから、寂しい』のよ。でもさっき言ったみたいに、過去は単なるデータでしかないの。今現在生きる私たちにとって過去というのは副次的な存在なの。あってもなくてもいいの。そんな不必要なものに心を縛られるのってなんだか不合理だと思わない?」
「百合は、『寂しさ』を否定したいのかい?」僕は変な理屈を捏ねる百合に少し苛立っていた。
「違うわ。今していることは『あなたの命題、哲学的な命題』を見つけることなの。探すことなの。提示することなの。そこには必ず『反論』が必要よ。あなたの考えを、人生をより一層昇華するための『反論』が必要なの。私はそれを提示しているだけなのよ」
「それは僕の求めているものじゃないかもしれない」
僕は百合に少し反抗的な態度をとってみた。
「それは、残念ね」
百合は本当に残念そうな顔をして言った。
「私はあなたが今後『生きる』上であなたを形作るかもしれないと思って、話をしたのだけれど」
そういう百合の姿を見ると本当にしょんぼりしていて、僕の言った言葉が彼女を傷つけていることをありありと感じた。
二人の間に沈黙が流れた。こあれまでで、沈黙が流れることはったけれど、ここまで重い苦しい沈黙は初めてだった。
僕はその空気が耐えられなくなって、初めて百合から遠ざかった。この砂浜の先まで歩いてやろうと思って、歩き始めた。
この世界で初めて僕は一人になった。
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