6.音楽の夏。

 しばらくすると、夏休みがやってきた。

 夏の間、彼はチハの歌声を聴き続けた。

 音楽を聴かない彼が音楽を聴いていた。


 音楽の夏だった。


      □□□


 チハの歌声が、部屋の中に響き渡って。

 その音楽が、彼の空白を埋めていった。

 隣には端末を前に耳栓をしたユッキー。

 バンドメンバーの残り二人は退避中だ。


「ちょっとタイム」


 と、ユッキーが口にして音楽が止まる。


「どうよ? 私の歌声、良くなってる?」


 例のチハの歌声のチューニングである。


 ユッキーが彼に対し提案した例の作業。

 チハの歌。彼しか聴けない外側の音楽。

 その音楽を、こっち側の歌に変換する。

 そのためにチハと彼とユッキーはいる。


 さて。


 この中で一番過酷なのは誰だろうか?


 答え。


「全然良くなってねーよ! ざけんな!」


 耳栓をぶん投げ絶叫するユッキーです。


 明らかに魔改造されているマイクから、

 端末へと繋がるケーブルを引っこ抜き、

 発狂し端末を床へ叩きつけようとして、

 すぐやってきた他の二人に止められた。


「止めんな! もう嫌だ! 嫌だーっ!」


 ずるずる、と。

 そのまま部屋の外へと連行される彼女。


「回復まで時間が掛かる。少し待ってて」


 ドラム担当のアーさんがまず顔を出し、


「なはははー。お二人さんごゆっくりー」


 ギター担当のなっちも告げて引っ込む。


 後で紹介された残り二人のメンバーだ。

 両方女の子。女子四人のバンドなのだ。

 現在、彼は女の子四人に囲まれている。


 ただし、


『あ、なっちとアーさん彼氏いるからね。

 はーれむ展開とか期待したら駄目だよ』


 と先にユッキーに釘を刺されていたし、

 彼の方もそんなもの期待してなかった。

 が、代わりに少しだけ気になったのは。


『チハさんは?』


『ロボくん。めっちゃわかりやすいなー』


 と、ユッキーに言われた。彼は黙った。


『チハにはいないねー。後は処女だよー』


『その情報って必要?』


『そして私にもいない。後、私も処女ね』


『その情報って必要?』


『チハと駄目だったら私が貰ったげるよ』


『断る』


 そんな馬鹿を言っていた相手は退場し、

 人が引きずられる音と絶叫が遠ざかる。

 色々と誤解を招きそうな状況だったが、

 ここはユッキーの自宅なのでセーフだ。


 そして、ここはユッキーの自室である。


 壁も扉も天井も床も防音がされている、

 窓も着脱式の防音パネルが嵌めてある。

 彼女は自慢げに胸を張って彼に言った。


「作ってみたっ! すごいでしょー!」


「寝るところが見当たらないんだけれど」


 ちなみに。


 彼としては初めて女子の家に上がって、

 初めて女子の部屋に入ったことになる。

 ただし気になっている女子の友人の方。


 やはり、何かが間違っている気がする。


 それにしては私物の類が見当たらない。

 ベッドも机もぬいぐるみすらなかった。

 彼が尋ねると彼女は部屋の隅を差した。


「それが私物。だから触っちゃダメだよ」


 部屋の隅っこに置かれているその私物。

 工具や部品や機材やらが積まれてる山。

 そうか気をつける、とだけ彼は言った。


「あと、寝床は押し入れ。王道でしょ?」


「王道だな」


 たぶんきっと、いや絶対にそれは違う。


 ともあれ、彼とチハの二人は残された。

 友人の自室に二人きりという謎の状況。


 さて。


 二人の間にどんな会話が発生するか?


 答え。


「…………………………………………」


「…………………………………………」


 この深く長く暗く気まずい沈黙である。


「ギターなんだけどさ。二人いるんだね」


 泥のような沈黙を掻き分け彼が言った。

 この辺りはさすがに彼も男の子である。

 よく頑張ったと褒めてやるべきだろう。


「うん。私リード。なっちがバッキング」


「そうなんだ」


「うん」


「…………」


「…………」


 言葉は途絶え、再び会話は泥に沈んだ。

 音楽に興味があったら違っただろうか、

 と沈黙の泥の底で彼はちょっと思った。

 でも彼はチハの音楽にしか興味がない。


 もしかしたら。


 チハにも、興味がないのかもしれない。


「……あんたはさ」


 今度はチハが泥から言葉を引き出した。


「何で、私にここまでしてくれるわけ?」


「君の歌が好きだから」


「そっか」


 とだけチハは言った。素っ気ない返事。

 再び会話が泥へと沈む――前に言った。


「――だったら、ご褒美あげなきゃね?」


 先に、ちゃんと謝っておくべきだろう。

 あ、これキスする流れだ、と思った人。

 大丈夫。怒らないので挙手して下さい。

 はい。今、挙手した良い子のみなさん。


 まじごめん。


 残念ながらそういう展開にはならない。


 チハは彼にさっと顔を近づけたりせず、

 代わりに、自分のギターを手に取った。


 彼の顔を上目遣いで覗いたりもせずに、

 ギターを鳴らしチューニングを行った。


 当然「目、閉じてて」なんて囁かずに、

 マイクの前で「注目!」と彼に怒鳴る。


 キスをする代わりに、チハは歌い出す。

 超絶異次元の、ただのド下手な歌声を、

 チューニングが狂ってるギターの音を、

 耳を塞ぎたくなるようなただの騒音を、

 唇の代わりに彼に向かって押し付ける。


 傍から見ているとご褒美とは言い難い。

 ある種の業界ですらおそらくは拷問だ。

 おいやめろ馬鹿、と言いたくなる惨状。

 そんなことよりもキスしろよ、と思う。


 そりゃそうだ。


 どれだけ耳を凝らしたって聴こえない。


 チハが歌っている音楽は、聴こえない。

 彼女の歌を好きと言った彼の為の音楽。

 ただ、彼だけがその音楽を聴いている。

 彼の中にある巨大な空白を埋める音楽。


 その音楽は二人の間でだけ流れている。


 彼とチハの――音楽の夏が過ぎていく。

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