3.空白。
彼には音楽で感動した経験がなかった。
ただの一度だってない。
母親が彼に小さい頃聴かせた子守歌も、
大きくなって聴かせた演歌や歌謡曲も、
父親が聴かせたジャズやクラシックも、
友人の勧めるボカロ曲やアニソンにも、
妹のロックやパンクやデスメタルにも、
当然、世間一般で流行っている曲にも、
これっぽっちも感動できたことがない。
空白だけがそこにある。
音楽を聴くと彼はいつも空白を感じる。
その音楽を取り巻く巨大な音の空白だ。
そんな空白の圧倒的な大きさに対して。
流れている音はあまりにもちっぽけで。
だから音楽は彼の心をすり抜けていく。
理由はよくわからない。
彼には実は凄まじい音楽の才能がある。
だから彼はどんな音楽にも感動しない。
彼にはいかなる音楽もゴミ同然なのだ。
その考えにはロマンがあるがまあ違う。
才能とかでは全然ない。
彼はリコーダーだってろくに吹けない。
音楽の成績はこれまでずっと2だった。
もちろん絶対音感だって持っていない。
ドレミファソラシドの違いも知らない。
何でドが二つあるんだ、と思っている。
カラオケの歌声もごくごく普通である。
つまり、ただの欠点だ。
どうも彼は音楽に感動できないらしい。
そのための能力がすぽんと欠けている。
人間なら誰もが持ってる欠点の一つだ。
少しでかめな欠点だが致命的ではない。
彼は、そう結論付けた。
自分が音楽を聴いて感動できないこと。
そのことはそれほど悲しくはなかった。
そもそも彼は感動したことがないのだ。
音楽は空白を流れるノイズでしかない。
だから、彼は音楽を聴かない。
それで全然、構わないはずだったのだ。
彼女の歌声を聴いた、あの瞬間までは。
その音が彼の空白を埋め尽くすまでは。
□□□
たぶん来ない――いや、絶対に来ない。
待ち合わせの場所に向かいながら思う。
彼は、昨日の自分の言動を思い返した。
どう考えても、ナンパにしか思えない。
しかも、めっちゃ下手くそなナンパだ。
もっと上手い方法だってあったろうに。
それでも彼は待ち合わせ場所に向かう。
どう考えたって、来てるわけないのに。
諦めることがどうしてもできなかった。
馬鹿だよなあ、と自分でも思いながら。
約束の時間の十五分前に目的地に着く。
――いた。
昨日と同じ場所に、彼女が座っていた。
思わず、彼は、自分自身の目を疑った。
ちょっと本気で幻覚なのではと思った。
しばらくして幻覚ではないと気づいた。
そして、相手を待たせていることにも。
即座にダッシュした。
くそちくしょう失敗したと彼は思った。
この馬鹿野郎頓馬、と自分に対し思う。
万が一の可能性でも考慮すべきだった。
二時間前から待っとくべきだったのだ。
彼は全力疾走で彼女の前に辿り着いた。
「ごめん――」
若干引かれている気配を感じつつ謝る。
「――待たせた?」
「いや、こっちが早く来ただけだし別に」
と、相手に言われて、彼は顔を上げた。
とりあえず怒ってはいないらしかった。
「それより」
と言って、彼女は隣にいる人物を示す。
そこでやっともう一人の存在に気づく。
彼女の元バンド仲間らしい相手を見て、
「あれ?」
と彼は思わず声を上げた。知っている。
昨日の合コンに来てた背の高い女の子。
相手も、どうやら彼に気づいたらしい。
そして言った。
「『ロボットくん』だ」
すぱんっ、と。
隣にいた彼女が、その頭を引っ叩いた。
「……ロボットくん」
彼は音楽に感動できない。
が、感情は普通の男子高校生並にある。
つまり、その、ええと、まあ、あれだ。
割と普通に、ちょっとショックだった。
□□□
とりあえず近くのファミレスに入った。
四人掛けの席の向かい側に女子が二人。
珍しい状況だ。両手に花か、修羅場か。
実際にはどちらでもないのだけれども。
「ロボットくん……」
未だにショックが抜けない彼に対して、
「いやあ、ごめんごめん。まじごめんね。
びっくりして脳内の言葉が出ちゃって」
あははー、と。
と、失言をした相手は朗らかに笑った。
つまりは、ただの本音ということでは。
ロボットではない彼の心は再度傷付く。
「おいあんた失言しか言えねーのかっ!?」
べしべし、と。
隣の彼女が、再び攻撃を仕掛け始める。
が、身長差のせいかあまり通じてない。
あははー痛い痛い、で済まされている。
「…………」
っていうか、彼女の名前を聞いてない。
名前も知らない娘と待ち合わせしてた。
自分は、一体何をやっているのだろう。
そんなことに、今になって彼は気づく。
「あははー、ごめんねー、ロボットくん。
代わりに、私はユッキーって呼んでよ。
ちな本名はふゆき。冬に雪って書くよ。
どーぞよろしく。あと彼氏募集中です」
気になっている女の子の名前より先に、
その友人の名前を彼は知ってしまった。
めっちゃやらかしてしまった気がする。
そしてロボットくんは定着したらしい。
「というかこの間と全然雰囲気違う……」
もっとクールで無口だったはずである。
「あれは、いかにも付き合いで来ただけ、
こういうの興味ないの的なキャラ作り。
逆にそんな雰囲気の娘が好きな男子を、
フィッシュするって作戦だったんだよ」
「…………」
彼は見事に釣られた友人のことを思う。
きっと泣いていいんじゃないだろうか。
「ねえ、フィッシュされた男の子いた?」
「俺の友達がめっちゃタイプっつってた」
「やったぁっ! 一本釣り大成功だぁ!」
「いや……でも、連絡はしないって……」
「何で!? 何のために合コン来てんの!?」
釣った魚に謎の理由で逃げられた少女。
たぶん泣いていいんじゃないだろうか。
「……あ、もしかしてシャイな男の子?
なら、私から連絡すればいけるかも?」
彼は友人の言動をしばらく考えた後で、
「いや、すげなく断って欲しいって……」
「君の友達絶対変だよ! 変態だよっ!」
「はい、すとっぷ! すとーーぷっ!」
と、彼女の叫び声が店中に響き渡った。
「私の知らん合コンの話はそこまでだ!」
大袈裟に腕を振って叫んだ彼女の背後。
店員さんの笑顔が一瞬で般若と化した。
が、それに気づかず彼女は話を続ける。
「そんなことより私の歌の話をしろ!」
そう言って彼女はびしっと彼を指差す。
けれども指差したところで口ごもった。
何かすげー気まずそうな顔で彼を見た。
気づいた。彼も名前を名乗っていない。
「――ろ、ロボ(仮)」
いやホントよく来てくれたな、と思う。
彼はとりあえず、彼女に名乗ってから、
その後で、彼女の名前を聞こうと思い、
けれども、それらを実行に移すよりも、
般若顔の店員さんが来る方が早かった。
「……あーあーあー、やっべーぞ。チハ」
ユッキーと名乗った娘は呑気に笑った。
チハ。
何だろうか。ちっちゃいからだろうか。
それとも、名前のもじりなのだろうか。
どんな名前でどんな字を書くんだろう。
他のお客様のご迷惑になりますのでぇ、
と、彼女が店員さんに怒られている間、
彼は他人事のように、そう思っていた。
□□□
懇切丁寧な対応で三人は追い出された。
その結果、彼は彼女に名乗りそびれて。
その結果、彼女の名前も聞きそびれた。
たぶん聞いておくべきだったのだろう。
彼と彼女がお互いの本名を知る機会は。
そのまま、最後までやってこなかった。
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