第20話

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 福多幸恵と藤村弘樹の短い交際について聞いた時、三澄理沙の脳裏に思い浮かんだのはたった一度だけ話し込んだ、立川法子との一件だった。

 自分が最も頑張っていて、辛い思いをしていて、真面目な分損をしている。だから誰よりも同情されるべきだと考えていた立川は、ある意味そんな自分を演じていたと言える。そのルールに周りを巻き込んでいた。幸恵はそれに気付いて、彼女から離れていったのだろう。

 けれど、幸恵が弘樹に期待していたことは、それと同じことだ。

 弘樹がダメな男であればあるほどに、彼女は親友である藤村遥に相談できる。兄さんってホントろくでもないよね。ユキちゃん可哀そうと、同情してもらえる。

 ただ、幸恵は立川ほどに割り切れなかった。

 愚痴をこぼすだけなら、何でも良かったはずだ。完璧な人なんていないのだから、色眼鏡を使えばいくらでも不満は見つかるだろうし、捏造することだって簡単だ。

 それをできなくしてしまったのは、理沙の一言に違いない。

『幸せな君にはわからない』

 立川の親友であるうちに芽生えた、私の苦労話にも同情して欲しい、私の頑張りも認めて欲しい、私の話だって聞いて欲しいという彼女の願いは、相手より不幸でなければ叶わないと思わせてしまった。

 自分は他人よりマシなのだから、愚痴を言ってはいけない、話を聞いてはもらえないと、より深く自分の殻へと追い立ててしまった。

「あたしの言葉は、あの子には届かなかったよ」

 電車に揺られながら隣に座る藤村がポツリとそうこぼす。

 理沙は幸恵と別れた藤村と合流し、先に帰った幸恵を追いかける形で彼女たちの最寄り駅を目指していた。

「届かなかったというよりも、幸恵は最初から自覚していたんだ。誰よりも不幸になれば愚痴をこぼせるという考えは間違っているって。けど、どうしようもなかったんだ」

 自分が辛いと感じていることを相手にわかってもらえなかったら。大した話じゃないよねと軽んじられてしまったら。可哀そうだと思うけど、でもあなたは私より幸せなのだからいいじゃないと突き放されてしまったら。それはきっと、耐え難いことだ。

「あたしはそんな、深刻に考える話じゃないと思うんだけどな」

 向かい側の窓に映る景色をぼんやりと眺めながら呆れがちに藤村が言う。

「だって愚痴は愚痴でしょ、相手より不幸だとか、そうじゃないとか関係なくない?」

「藤村さんは、これは誉め言葉なんだけど、単純なんだ」

 ギョロリと大きくを目を開かせた藤村が理沙の顔を下から覗き込んでくる。

「いや、それ悪口でしょ」

 褒めているんだって、と理沙は笑う。

「藤村さんの愚痴は、相手にこぼした時点で完結してる。吐き出すことが目的なんだから、聞かせた相手がどんな反応をしようが関係ない。仮に、なにか不愉快なことを言ってくるなら、その相手は切ればいい。違う?」

 自分のことなのに彼女は腕を組み考え込んでいた。それから「まぁ」と口を開く。

「そういうところはあるかもしれない」

「でしょ。でも幸恵や立川さんはそうじゃない。自分の吐いた愚痴に対して、相手に同情してもらうのをゴールにしている。だからややこしいことだって考える。君の方が単純だし、それから健全だ」

 そっか、と納得したように頷くも、やはりどこか引っ掛かるのか茶色い髪を揺らしながらしきりに首をひねっていた。そんな様子が理沙には微笑ましかった。

 乗換駅に着いたので理沙と藤村は一度電車を降り、私鉄のホームを目指す。幸恵が真っ直ぐ帰宅していれば鉢合わせないはずだが、念のため慎重に移動していると、理沙のバッグから電子音が鳴った。

 スマホを取り出した理沙は、表示されている内容に目を走らせた。

「立川さん、ちゃんと幸恵に会えたみたい」

 その報告に藤村が顔をしかめた。

「一応言っておくけど、あたしはまだ納得していないから」

 構内の階段を下りながらムスッと藤村が言う。

「わかってる。私だって荒療治だと思ってる」

 幸恵にとって、立川はトラウマの根幹だ。合わせたくないという藤村の気持ちもわかる。その再会は幸恵の心をさらに圧し潰すかもしれない。けれど、電話をかけて立川と話してみて、理沙は大丈夫だと思った。今の彼女は、自分の本質ときちんと向き合えている。

それこそ、未だに父と、その反骨精神から抱いた夢に、どう決着を付けるべきか迷っている理沙よりもよっぽどだ。

幸恵にもトラウマと向き合ってもらいたかった。彼女は、ただ同情してもらいたいだけじゃない。そのことを思い出して欲しかった。

 私鉄の改札を抜けてホームに出ると、ちょうど電車が止まったところだった。ラッキーと呟いて駆け足になった藤村を慌てて追いかける。開いた扉に二人して飛び乗った。

 少し切らした息を落ち着かせてから座席に座る。「じゃあ」と藤村が首を傾げた。

「楠木の件もあたしの考えとは微妙に違うってことになるのかな。自分には内定があって、楠木は内定がない。第一希望の会社にも落ちてしまった。だから楠木が愚痴をこぼすのは仕方がない。って話じゃなくて、コネで内定を得たと思われている自分が楠木に言い返しても周りが受け入れてくれるとは思えない。そんな風に考えてしまっていたのかな」

 あたしの説得が届かないわけだ、と一人で納得して首を振る。

 それから一駅、二駅と過ぎた後、藤村が唐突に「そう言えば」と話を振ってきた。

「理沙って煙草吸ってる?」

「え、どうして?」

 藤村の前で吸ったことはなかったはずだ。彼女がどこから連想したのかわからず理沙は戸惑った。ひょっとして、煙草臭かっただろうかとも考える。

 不安気な様子を覗かせた理沙に「あぁ、違う違う」と藤村は笑って顔の前で手をヒラヒラさせた。

「別に匂ってるわけじゃないよ」

「じゃあどうして」

 これじゃ認めているのも同じだなと思いながら、藤村に訊ねた。

「いや、大したことじゃないんだけどね。あんたと幸恵があった数日後の話かな。大学であの子に聞かれたのよ。女子が煙草を始めるのは男の影響がほとんどだって聞いたんだけど、遥はどう思う? ってさ。あたし、これにはピンと来たね」

 幸恵にしてみれば、まさか理沙と藤村が通じているなんて思っていないだろうから、これは不可抗力だ。

「そっか」と理沙の口から言葉がもれる。

『煙草吸うんだ』と、軽く流されたけど、気にしてくれていたらしいことに理沙は嬉しくなっていた。

 理沙の感慨はどうでも良さそうに「で、どうして始めたの?」と藤村が問い詰める。

「正直さ、どっちかというとあたしのキャラじゃない? ま、あたしは昔に彼氏のをもらって合わなかったからもういいやって思ったんだけど」

「藤村さんはどう答えたわけ?」

「そりゃそうでしょって。多分ショックだったんじゃないかな。ハスチューでも孤立しているイメージはあったけど、いじめられてたわけじゃないし。なんか周りとは雰囲気が違ったもの。一匹オオカミ的な、異国の王子様的な?」

「藤村さん?」

「あたし的には正直女にしておくのもったいないもの。高身長で医学部のハイスぺとかさ」

 藤村さん? もう一度言って睨み付けると「おお、怖い怖い」と彼女は首を振る。

「でさ、そんな格好いいあんたにあの子は憧れていただろうから、もし煙草を始めたのが男の影響だったなら、なんだかいやだなってそんなことを思ったんでしょ」

 頭を抱えたくなった。そのように思われることを理沙は考えてもいなかった。

「で、その真相は?」

「え、それ答えなきゃいけない?」

 ちょうどいいタイミングで電車が目的地に着いた。けれど、降りた後も話を変えるのは許さないと言わんばかりに藤村が理沙の前に立ち塞がる。

「わかってる? 私たち、急いでいるんだよ」

「だからでしょ。そこを解決しておかなくてどうやって幸恵に会うつもりなの?」

 譲る気はないといった表情で腕を組む藤村に、理沙は諦めてため息をこぼす。

「わかった。なら歩きながら話そう」

 隣で理沙がガッツポーズを取った。

 改札へ向かいながら「一年前のことかな」と理沙は語り始める。

「お盆で帰省している時にね、本当に偶々なんだけど、街で幸恵のことを見かけたんだ。あの子、多分デートをしていて男の方が煙草を吸ってた。それを見ていたら、何となく」

 藤村が目を丸くして理沙の顔を見上げてくる。だから言いたくなかったんだと心の中で毒づいた。

「勘違いしないで欲しいんだけど、別にその男に嫉妬したとか、そういう話じゃないから。ただ、私がミスを犯さなければ、あの子とまだ笑い合える友達でいられたのかなって思うとどうしてもこう、やりきれなくなったんだ」

 藤村が口元を手で覆い、顔を逸らした。

「そんなに笑うところ?」

「いや、ごめん。ホント、思ってた百倍面白い理由だったから」

 理沙は小さく息をつく。

 この子はこの子で、いい性格をしている。

「というか、多分あたしその時の相手知ってるよ」

「は?」

 思わず声が裏返ってしまったが、幸恵と藤村は同じ大学の友人同士。生活圏も被っているのだから考えてみれば何の不思議もない話だ。

 藤村は視線を正面にこそ戻したが、緩み切った頬はそのままで「いや、ホントこれが面白い話なんだけど」と繰り返した。

「一年前って言ったよね、あれ男の方がご執心でさ、幸恵も一度だけデートに付き合ってやったのよ。でも、それっきり。なんでだと思う?」

「まさか」

 そこまで言われれば、藤村が笑いを堪えられない理由にだって見当がつく。

「そ、煙草の煙が鬱陶しかったから。あはは、傑作だよね」

 自重する様子もなく藤村が笑いながら改札を抜けた。

 それを追いかけながら理沙も改札を通り、ポツリと呟く。

「私、煙草やめようかな」

 藤村は笑いながら「それがいいと思うよ」と大きく頷く。

「教授連中には好評だったんだけどねぇ。ま、どうでもいいか」

 自販機の横に金網のゴミ箱があったので、手持ちの煙草を投げ入れる。

 それを見て藤村が「じゃあ行こうか」と駅前にある喫茶店へと視線を向けた。

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