第19話
2
人殺しの子供が転校してくるらしい。
それは立川法子が中学二年生だった夏休みに、同級生たちの間で流れていた噂だ。
他人の噂話しか娯楽がないほどの田舎ではない。デパートやショッピングモールに行こうと思えば電車で数十分揺られなければならない地方都市の片隅ではあるけれど、本屋や家電量販店なら自転車で行ける距離にもある。漫画でもゲームでも手は届きやすい。
ただ、単なる噂として聞き流すには、少々刺激が強過ぎた。普段なら噂話になんて興じない子も含めて、夏休みの間はみんなが飛び付いていた。
法子自身も例外ではなかった。馬鹿みたいに騒いだりはしなかったけれど、本当に人殺しの子供がクラスにやってきたのなら、学級委員としてどのように対応するべきだろうと考えを巡らせていた。
また、同じ時期に別の噂話も耳にしていた。こちらは大人たちの間で囁かれていたもので、同級生たちが口にしているところは見たことがない。法子も、地域の集会に行ってきたという祖父から聞かされただけだった。
蓮実市立総合病院で起こった術中死。それは事故かあるいは事件か。そんな噂だった。生きた人間にメスを入れるのだから百パーセント安全とは思えないし、医療ドラマを見れば成功率は何パーセントと言っているのも耳にする。珍しい話でもないだろうになにをそんなに騒いでいるのだろうと思っていたけれど、どうやら執刀医と患者の立場が問題であったらしい。
死亡した患者は蓮実市市議会議員で次の市長候補の一人だった。執刀医の方はこの地域の資産家一族であり、地域政財との結び付きも強かった。
つまるところ、地域の有力者二人が揃った密室から、死体が一つ転がり落ちたという話で大人たちにとっては涎がこぼれるようなエンタメだったのに違いない。
もっとも、政治の絡んだエンタメなんて子供たちにとっては退屈な話だ。全国ニュースならともかく、地方のテレビ局でようやく取り上げられる程度。学校で話題になるには弱くそれよりも転校生が人殺しの子供かもしれないという、自分たちに関係のある噂に夢中になるのは当然だった。
法子にしても、この狭い地域で二件も殺人の噂が流れるなんてと思ったから耳に残っていただけだ。それほど深く気にしていたわけではなかった。
だから、二学期最初の朝礼で転校生が三澄と名乗るその時まで、二つの噂話の出所が同じであるなんて考えてもいなかった。
名乗るだけの簡素な自己紹介を終え、教室を見渡した彼女の目は同級生と思えない程に冷たく沈んでいた。
父親の起こした騒ぎによってあらぬ噂や心無い言葉をかけられたりもしたはずだ。少しだけ同情して、けど次の瞬間にはそれを恥じていた。
教室の隅からぼそりと「人殺しの子供」との囁きが小さくもれたのだ。他人事ではない。法子たちの間で流れた噂こそがその典型的なものだった。
教壇までは聞こえなかったのか、あるいは聞こえていない振りを選んだのか、担任も三澄も特に反応は示さなかった。担任はどこか心持ちが悪い表情で、夏休み明けに増えていた教室奥の空席に座るよう三澄に促した。
この担任は五クラスある二年生の担任教師の中でも二十代後半で最も若い教師だ。ひょっとすると押し付けられたのかもしれない。少なくとも学校側は三澄を持て余しており、問題が起こらないことを消極的に祈っている。そんなところだろうと思われた。
三澄もそんな空気に気付いているのかもしれない。彼女は担任に軽い会釈だけをして、返事をすることなく示された席へと歩き出す。それはお前たちに心を開くことはないという意思表示のようにも感じられた。
三澄が席に着いたところで担任が救いを求めるように法子に視線を向けていた。法子は小さくため息をついてから、腰を浮かす。
「三澄さん。私、学級委員の立川です。なにか困ったことがあったら遠慮なく聞いてね」
三澄は法子の方へ目を向けた後、小さく頷いた。その日、彼女が口にしたのは結局自分の名前だけだった。
そんなことだから、転校当初はいじめのような問題に発展しないだろうかと注意していたが、法子の知る限り卒業までに大きな問題は起こらなかった。
理由はいくつか考えられる。人殺しの子供という噂が物騒だったこと、三澄の父親は失脚こそしたらしいが騒ぎ自体は事件化せず逮捕もされていないこと、という二点は大きいだろう。また、資産がなくなったわけでも、地域政財との繋がりが切れたわけでもないため、多くの家庭であの子には関わらないようにと釘を刺されていたはずだ。
これで三澄が周りからハブられていると訴えれば、また別の問題になったのかもしれない。けれど、三澄本人が他人との交流を拒絶していたのだから、問題になるはずもない。
それが良かったのかどうかという賛否はあるだろうけど、少なくとも直接的な加害があるよりは、孤立していた方がマシだろうと法子は考える。
もっとも、法子が三澄の様子をしっかりと気にかけていられたのは二学期の間だけだった。三学期に行われた学年末テストの結果が悪く、法子には余裕がなくなっていた。
法子が点数を落としたわけではなく、同級生たちの点数が伸びていた。
蓮実中央中学校では平均点の発表と共に五教科の総合点が二十五点刻みでブロック分けにされ、それぞれ何人いたか、と振り分けられた表が配られる。学習や受験校の選定に生かしていくことが本来の趣旨だが、近い成績の友人たちと点数を教え合えば大まかな順位を特定することもできる。
425~449あるいは450~474、法子はいつも、そのどちらかのブロックに収まっていた。確実に425点以上を取ってくる同級生は法子以外に三人いて、法子はいつも彼らと点数を競い合っていた。
状況が変わったのが二年生二学期の中間テスト。475点以上のブロックに生徒が一人だけ居た。初めてのことだったけど、法子を含めたいつもの成績上位四人の中に該当者はおらず、また名乗り出てくる者もいなかった。
これだけの点数を叩き出しておきながら誰に自慢することもない。そうなると、誰とも交流していない生徒に違いない。
三澄理沙としか考えられなかった。
悔しくはあったが、それよりも仕方がないという気持ちに襲われた。なにしろ三澄の家は資産家で有名だったし、彼女の父も祖父も医者だったという。きっとレベルの違う教育を受けているのだろうと、法子はそう考えた。
だから、法子を追い抜いていくのが三澄一人なら、諦められたはずだった。
三学期の学年末テスト、475点以上の生徒は相変わらず名乗りのない一人きりだったが、450~474点が四人、425~449点代が九人と、同級生たちが点数を上げてきて、いつもの倍以上の人数が法子の周りに集まっていた。
法子の点数は437点だった。最低でも五人、最高で十三人、法子の上を行った同級生たちがいる。
総合点の振り分け表を手にして、法子は中学受験に失敗した時のことを思い出していた。
法子は第三小学校の中では一番成績が良い自信があった。その法子でも中学受験の勉強は難しく、なら他の受験生たちも同じように苦労しているはずだと考えていた。
誰もが同じ条件で、だったら自分は誰よりも努力をしていると信じていた。誘惑してくるものはたくさんあったけれど、誰よりも我慢をしているはずだった。
そんなものでは埋まらない差があると、手のひらの中でしわまみれになった受験票を見つめながら法子は思い知った。
だから、それからも勉学を怠らなかった、と法子は胸を張って言える。
一番にはなれなかったとしても、努力をしていない人たちや、誘惑を我慢できない人たちとは違うと、そう思っていた。
それなのに……
振り分け表が配られた日の昼休み、お手洗いに行こうとして法子は教室を出た。
横切ろうとした隣の教室はドアが開いていて、そこから中での会話がもれていた。急いでいたし、盗み聞きなんてするつもりはなかった。けれど、その内容に思わず聞き耳を立ててしまっていた。
「すごいじゃん遥! 学年で十四番以内なんてさ。あんた今まで400点だって超えたことなかったのに」
「まーね。あたしがちょっと本気出せばこんなものよ」
頭の中が真っ白になって、気が付くと洗面所の個室に駆け込んでいた。
遥、遥と呼ばれていた。教室の中までは見ていない。けど、答えた声は知っている。
藤村遥。同じ第三小学校出身の不良娘。
勉強ができたような記憶はない。先程も400点を超えたことは一度もないと言われていた。そんな子が同じブロックにいるなんて法子には信じられなかった。
あの子は何点だったのだろう。そんなことを考えて心が震える。もしあんな子に負けていたとしたら、私は……
目頭が熱くなり、視界がにじみ出す。溜まった雫をこぼさないようこらえるために、法子は昼休みの間個室から出られなかった。
それでも心の荒波が収まらなかった法子は帰り道に武田文香を捕まえると、午後の間抑えてきたものを吐き出した。
「藤村さんなんて、口を開けば彼氏かアイドルの話ばっかりだったじゃない。髪を染めて呼び出されていたこともあったじゃない。そんな子が、ちょっと本気を出したぐらいで私に追いつくなんて、ずるいじゃない。おかしいじゃない」
法子の呪詛のような言葉に対して、文香は少し、困ったように笑った。
「でもさ、遥ちゃんだって頑張ってたんだよ。今まで400点取れなかった子がさ。よっぽど頑張らないと無理でしょ」
「じゃあどれだけ頑張ったっていうのよ。だって、私はずっと頑張ってきたんだよ」
「うーん、のんちゃんの気持ちもわかるんだけど……」と、文香が言葉を濁す。
「遥ちゃん、冬休みから私と同じ塾に来たの。行きたい高校があるからって言ってね。内申点に響くかもしれないからって三学期には黒髪に戻していたし。あの子も我慢して頑張ってるの。425点以上ってさ、すごいじゃない」
そんなのは我慢じゃないと、法子は考えている。髪を染めることも、化粧をすることも、中学生には必要ないはずだ。それをオシャレだと言って『我慢』することがそんなにも偉いのか。
私は、最初から手を出していないのに。
心の中だけで叫んだはずだった。けれど、法子の歯止めはもう壊れていた。
「でも、これまですぐサボったり怠けてたりしてたじゃない。いつも自分に甘かった。あの子だけじゃないよ。授業中に騒いだり、こっそりと漫画を呼んでいたり、私は何度も注意してきた。日直や委員会の仕事を忘れる子の代わりを何度もしてあげた。みんな、自堕落だったじゃない。私が! どれだけ迷惑をかけられたと思っているの!」
息を呑んだ文香に、法子は気付かなかった。
「そんなあの子たちと、どうして私が同じような成績でなくちゃいけないの!」
胸の中に湧き上がった感情を吐き出すことでようやく法子は落ち着き、文香の顔を真っ直ぐに見ることができた。
のんちゃんが一番頑張っているのにね。そんな風になぐさめてもらえることを法子はなにも疑わずに期待していた。
文香は唇をギュッと結んで、なにかに耐えるような表情で法子を見つめていた。
ねぇ、と呟いた彼女の瞳から、法子はどんな感情も読み取れなかった。
「私たちのこと、今までそんな風に考えていたの? 私のことも、迷惑だって思っていたの?」
そこでようやく、法子は自分が言い過ぎた、ということを理解した。
「文香、私は別に……」
「そりゃあ、のんちゃんは昔から努力家だったよ。みんなが嫌がる当番だって進んで引き受けてくれたし、のんちゃんがいなかったら、みんな、もっとまとまりが悪かったと思う。でも、でもさ、そんなのってないよ。みんなだって努力してるし、あなただけが頑張ってるわけじゃないんだから。そんな風に言うのは、おかしいよ」
わたし、こっちだからと、文香は法子と別れて歩き出す。その背中を呼び止めようとして、けれど法子は何一つ言葉を見つけられなかった。
翌日から、法子に対して文香が余所余所しくなった。彼女だけではない。クラス全体にそっと距離を置かれているようだった。
日に日に孤立を深めていく教室の中で、どうしてこんなことになってしまったのだろうと自問自答する。これまでは誰もが頑張りを認めてくれていた。学級委員としてクラスメイトの尻拭いをしてきたし、生徒会長として頼られてきたはずだった。
誰よりもみんなに貢献してきたはずなのに、どうしてこんな扱いを受けなければならないのだろう?
三澄と同じように直接的な被害には繋がらなかった。それを幸いと言っていいのかどうか。もうすぐ受験生ということもあり、それほど暇ではなかったのかもしれない。あるいは、下手な騒ぎになって内申点に響くのを恐れたのかもしれない。そんなことを、どこか他人事のように法子は考えていた。
結局、学級委員として生徒会長として必要最低限のやり取りを行う日々が過ぎ、気付けば法子は三年生になっていた。
生徒会の仕事を終わらせ、帰り道を一人歩いている最中に三澄理沙の姿を見かけたのは、五月の連休前のことだった。
主に第三小学校出身者がよく利用する駅の改札前に彼女はいた。法子の自宅はこの駅を通り過ぎた先にあるのだが、迷いなく改札口へと向かっていく姿を不審に思い、つい「三澄さん?」と呼びかけていた。
彼女は立ち止まり、法子を認めると訝しげに目を細めた。
三澄とは三年生になってからクラスも別れてほとんど顔を合わせてはいなかった。もっとも、二年生だった時もほとんど会話らしい会話はなかったと、法子は思い直す。
「こんな時間にどこへ行こうとしているの?」
多少気まずく思いながらも声をかけてしまった以上は仕方がないと、法子は頭に浮かんだ疑問を問いただした。
既に十七時を過ぎており、どこか遊びに行くには遅い時間だ。夜遊び、非行と言った言葉が頭に浮かぶ。例え学校で孤立していても、間違いを犯そうとしている同級生を見過ごすことは法子にはできなかった。
「どこにって、帰るのだけど……」
困惑した様子で答えた三澄に、法子も首を傾げていた。
「あなた……電車で来ているの?」
「そうだよ。そっか、まともな自己紹介もしなかったからね」
「ちょっと待って欲しいんだけど、引っ越して転校してきたわけではないの?」
「私の身の上はどうせ知っているんでしょ。私立に通っていたけれど父親の事件でいられなくなったから公立に戻ってきたわけ」
「でも、あなたって第二から第四のどこでもないよね?」
「小学校は第一だから校区で言えば中学は蓮実北になるね。けれど、そんな理由で知り合いばっかりのところに戻るのはいやでしょ。だからちょっと無理を通して蓮実中央に通わせてもらえるよう頼み込んだわけ。これが電車通学の理由。文句ある?」
「いや、そういう事情なら……」
なら、もういいよねと三澄は背を向ける。その背中に「待って」と声をかけていた。
「まだなにか?」
「あなたは、どうしてそんなに平気そうなの? 父親のやらかしだってあなたのせいじゃないでしょ。それなのに転校しなくちゃいけなくなって、転校先でも孤立して、なんでそんな風になにも気にしてないなんて顔でいられるの?」
三澄が法子に視線を戻す。転校初日に見たのと同じ、あの冷たい目だ。
駅のホームに電車が止まる。北方向への進路だから、恐らく三澄が乗ろうとしていた電車なのだろう。ホームから電車が発進し、踏切の音が止んだところで三澄はその難しそうにしていた表情を少しだけ綻ばせた。
「じゃあちょっと話をしようか。立ち話もなんだし、座ろうよ」
そう言った三澄は駅前の喫茶店を指差した。
「学校帰りに寄り道……」
いけないことだと思いつつ、三澄の話を聞いてみたい誘惑に法子は逆らえなかった。三澄の開けたドアを通りながら、自分の情けなさにため息がこぼれる。カランカランと客が来たことを知らせる音が悪い遊びを歓迎しているようだった。
「初めて?」と、訊ねてきた三澄に「うん」と答える。
「真面目な子だとは思ってたけど、喫茶店ぐらいで罪悪感を覚えるとは思わなかった」
からかうような言い草にムッとした法子は「そういうあなたはどうなのよ?」と、睨みつけて言い返した。
「私? 私は前の学校だとよく喫茶店で友達と一緒に勉強をしていたよ。試験前とかは特にね」
「そう、なんだ」
法子にとって、少し意外な答えだった。
三澄は孤立こそしていたものの、学校での生活態度は至って真面目だったからだ。日直や委員会活動、清掃時間に毎日の宿題、少なくとも二年生の間は彼女がさぼっていたり、忘れていたりするところを見たことがない。
他の不真面目な人たちとは違う。法子は自分と同じタイプの子だと考えていた。
カウンターでアイスコーヒーを頼む法子の姿はこなれた様子でさっさとドリンクを受け取ってテーブル席へと歩いていく。同じものを注文しようとして声が上擦ってしまった法子とは少しも似ていなかった。
ようやくドリンクを受け取って三澄の正面に腰を下ろした。
「で、どうして私がなにも気にせずにいられるのかって話だったっけ?」
頷いた法子に、顔をしかめた三澄が言う。
「立川さんには、そう見えるだけだと思うよ」
「それは……」
「考えてみなよ。なにも気にしていないなら、わざわざ家から遠い蓮実中央に通ったりしない」
「あ……」
確かにその通りだ。聞いたばかりの話なのに、法子はそのことに気付いていなかった。
問題はあっさりと解決し、三澄はアイスコーヒーに口を付ける。このままではきっと、彼女はそれを飲み干して帰ってしまう。
引き止めなきゃ、という気持ちがあった。自然と言葉が口をついて出る。
「私、おかしいって言われたの。それも、二回も」
言ってしまって、けれど後悔はなかった。他の子には、決してこんな相談はできない。そんなことをすれば、次の日には相談内容が学年中に広まっているだろう。
その点、孤立している三澄に法子の相談をもらす相手がいるとは考えにくかった。彼女に話してなにかが良くなるとも思わなかったが、誰かに話を聞いてもらうなら、今この瞬間しかないように思われた。
三澄はグラスを傾ける手を止めて、それをテーブルの上に戻す。「それで?」と彼女が訊ねた。
「一度目は、みんなが私の味方をしてくれた。二度目はみんなにおかしいって言われたの。私はただ頑張ってきただけなのに、どうしてこんなことになったんだろうって」
三澄は法子を観察するように見つめ「さっきの、私がなにも気にしていないように見えていたのと同じことだよ」と言った。
「それってどういう……」
「別にクラスの事情にも立川さんにも興味はないけれど、まぁ、大体の事情はいやでも耳に入ってくる。君が失言して孤立していることも知っている」
それから一度言葉を切り、少し考える様子を見せてから三澄が口を開く。
「立川さんが藤村さんたちに憤ったのは、あっさり自分と同じぐらいの点数を取られたからだよね?」
「そうだけど……」
言い方に引っ掛かりを覚えながら法子は答える。間違ってはいないが釈然としない。
「だったら、転校してきた私がすぐに学年一位の点数を取った時、どうして喧嘩を売って来なかったわけ?」
「それは、だって……仕方がないと思ったんだもの。あなたは医者の、それもこの町一番の資産家の娘じゃない。特別な教育だって受けてるんだろうし、諦めようって気持ちにもなるでしょ」
「そこだよ。君には最初から、三澄理沙の成績が良いのは、自分よりも努力しているからなんだろうって考えがない。その発想が抜け落ちているんだ。つまり、他人が見えていないんだよ」
「そんなことは……」
ない。否定しようとして、法子は愕然とした。
確かに私はそんな発想をしていなかったと、法子は気付いてしまった。
三澄理沙は特別なのだと思っていた。
彼女が努力している姿を法子は想像すらしていない。
「君も飲みなよ」
三澄がそう言ったことで法子は自分がまだアイスコーヒーに手を付けていなかったことに気付いた。三澄はブラックのままだったが、法子はガムシロップとミルクを加えた。黒かった液体が灰色に濁っていく。
このコーヒーの本当の色はもうわからない。法子も、自分がなにを考えてきて、なにを考えてこなかったのか、わからなくなっていた。
学校帰りに始めて飲むコーヒーは甘く苦い味がした。
「私がどこの私立中学に通っていたかは、話したっけ?」
法子がグラスをテーブルに戻すのを見届けた三澄は急に話題を変えた。
「いや、聞いてなかったと思うけど」
「紫苑学園って言ったら、わかるかな」
「それって……!」
法子にとってはあまり聞きたくない名称だった。わざわざそんな話を持ち出したということは、三澄はあの子と、幸恵と知り合いなのだろうか。
だったら、三澄はいつから私のことを知っていたのだろう。そんな考えが法子の頭を過ぎる。飲み込んだアイスコーヒーがそのまま下ったかのように、法子は足に冷たさと重みを感じていた。
「そう。だから実を言うと君のことは幸恵から聞いたことがあったんだ。まさかこんな風に会うなんて思ってもいなかったけどね」
やっぱり、と法子はもう一度グラスに手を伸ばす。どうしてだかいやな汗が止まらなかった。飲んでも飲んでものどがカラカラに乾いていた。
幸恵は、私のことをどんな風に三澄に伝えていたのだろう。考えたくないと強く思ったのに、法子は想像せずにはいられなかった。
三澄が小さくため息をついた。
「勘違いしてそうだから言うんだけど、幸恵から君の悪口を聞かされたって話じゃないよ。そもそも私たちは直接話してるんだから、幸恵から聞いた印象なんて関係ない」
むすっとした表情で言い切った三澄を、法子は疑わしげに見つめた。もっともな意見だが、それは言葉にするほど簡単でもないはずだ。案の定、三澄は「ただ」と言葉を続けた。
「私の印象と幸恵の印象に、大きな違いはないと思ってる」
結局、三澄も法子の言葉を聞いてくれない同級生たちと同じだと、唇を噛みしめる。
「あなたも、私のことをおかしいって言うんだね」
「そんなことは一言も言ってないよ」
絞り出した法子の言葉を三澄は軽く受け流しグラスへと手を延ばす。呆気に取られて三澄の仕草を眺めていると、どうしたの? と言いたげに小さく小首を傾げた。
「三澄さんは、私をおかしいとは言わないの?」
「立川さんはそんなことが聞きたかったの?」
言われて、法子は黙り込む。考えている間、三澄は一言も口にしなかった。これ以上、自分からはなにも語らないと決めているかのようだった。
『私の話を聞いてよ』
法子は、いつか幸恵に叫ばれた一言を思い出していた。自分のことばっかり、とも彼女は言っていた。
「幸恵や文香は、どうしておかしいって言ったのかな」
訊ねながら、法子は気付く。これまで誰かの気持ちについて、相談したことがあっただろうか。振り返ってみても、まるで心当たりがなかった。
グラスから手を離して、三澄が腕を組む。眼鏡の奥の目がスッと細められた。
「それは、私に聞いているの?」
「そうだよ。だって、あなたしかいないじゃない」
「本人たちに聞けばいいのに、って無理な話か」
それができるならこんな話はしていない。睨みつけた法子に「ごめんごめん」と三澄が軽く謝った。
「いいけど、私は自分の考えが百パーセント正しいとは思ってないし、それで君が納得できるとも限らない。納得できても、君の現状が変わるわけじゃない。それでもいい?」
「それでいいよ」
頷いた三澄は一度コーヒーを手に取った。グラスを唇から離し「私の所感だとね」と口にしながら法子を見据える。
「君は多分、母親のような人なんだ」
「母親?」
想像もしていなかった言葉が飛び出して、法子はオウム返しに問いかけていた。
法子がおかしいと言われた理由から、三澄がなにを思い浮かべたのか。興味のわいた法子は自然と、少しだけ前のめりになっていた。
「幸恵から聞いたのは、なにも君たちが喧嘩していた時の話ばかりじゃない。君の、昔の話も聞いたんだよ。君は低学年の頃から誰よりも真面目で責任感が強くて、その頃の幸恵は君のことを本当に尊敬していたんだそうだ」
「今更そんなことを聞かされたって何とも思わないけど」
幸恵と言い争った時の苦い気持ちがよみがえり、法子は口を尖らせた。三澄はそれには答えずに話を続ける。
「誰よりも真面目だった君は、だからこそ他人の不真面目さが許せなかった。君は周りの子に、自分と同じような自制心や責任感を求めたんだ。けど、低学年の児童たちは素直に聞き入れてはくれなかったんじゃないかな。その点においては、君の方が特別だったんだ」
三澄の言っていることは正しい。みんなのためを思って言っているのに、法子の言葉はあの子たちに届かなかった。
「例えば君は、清掃時間に手を抜く子がいても、じゃあ自分も楽をしようとは思わない。注意をしたり、自分がより頑張ったりしたはずだ。結果的に君もさぼった子も同じ教室で授業を受ける。動物の世話を忘れて死なせてしまった子は、きっと泣いたよね。世話を立川さんに押し付けていたのに、同じように泣いて悲しむことはする。君はそれを不公平だって思ったんじゃないか」
不公平と、法子は口の中で呟いてみる。確かにそんなことを考えていたかもしれない。
「そこに折り合いをつけるため、君は精神面の優劣を周囲との間に見出そうとしたんだ」
「それが、さっきの母親ってこと?」
そう、と三澄が頷く。
「クラスメイトたちはまだまだ未熟な子供で、私は大人なんだ。だから我慢しなければならないし、あの子たちが間違っていれば正さなくちゃいけない、と。それから、こうも考えた。あの子たちがもう少し言うことを聞いてくれるなら、私はもっと楽ができるのに。休むことができるのに、と。まるで幼児の世話に追われる母親のようだろう?」
「そんな風に言われたら、確かに母親のような考え方かもしれないって思うけど。でも、それって悪いこと?」
「別に悪いことだなんて言っていないじゃないか」
あっさりとした口調で三澄は答えた。
「それに、それが悪だというのなら、育児に疲れた母親はみんな邪悪ってことになる」
そんな話はないだろう? と三澄は軽く笑ってみせる。
「周囲を低く見ているのは余り褒められないけれど、少なくとも真面目なのは評価されるべき個性だよ。小学生が自分を律したってそれほど得はないんだし、普通は楽な方へと流される。そうならないだけすごいし、幸恵もそんなところを尊敬していたんじゃないかな」
「……あなたにすごいって言われても嬉しくないんだけど」
法子の印象では、三澄だって自分に厳しくできる人だ。だからこそ、少し上から目線で言われているようで不愉快だった。
「そうだね。余計な一言だった」
心のこもっていない謝罪を聞き流し、三澄の次の言葉を待つ。乾いたのどを潤そうと手を延ばしたグラスはいつの間にか空になっており、結露した水滴の不快感だけが手のひらに残った。
「君が真面目なだけなら良かったんだ。それだけなら、今の状況だって長くは続かないかもしれない。けれど君は、私が君以上に努力をしているかもしれないという考えができていなかった。それはどういうことだと思う?」
三澄の問い掛けに法子はなにも答えられなかった。
「君は母親役にしがみ付いて、周りに子どもの役を押し付けていたんだ。子どもは無邪気で悩みなんて持ってはいけなかった。一番辛い思いをしているのは自分でないといけないから、他人の努力を認められなかった。そうやって自分のアイデンティティを侵す考えを無意識に否定してきたのが君だ」
幸恵は、と少しトーンの落とした声で三澄が続ける。
「立川さんのそんな性質にいち早く気付いたのだと思う。あの子がどんな風に考えたかはわからないけれど、君に違和感を覚えて離れていったんだ」
幸恵に、文香に、おかしいと言われたことを法子は思い出す。
「だったら、私は認めれば良かったわけ? 藤村さんみたいな彼氏やアイドルのことしか考えていないような子が、私よりも努力していたって! そんなの……」
認められるわけがない。
「そもそも、どちらの方が努力をしているだとか、辛い思いをしているだとか、比べられるものではないよ。そんなのは自分にしかわからないのだから」
「……三澄さんは、どうやって折り合いを付けてきたの?」
私? と三澄が首を傾げた。
「あなたも、私と同じでしょ。真面目で、我慢することのできる子供だったんでしょ。だったら、わかるでしょ。周囲の子たちは不真面目で我慢ができずに当番ごとはよくサボる。そのしわ寄せはいつも真面目な私たちに来るじゃない。だったら、あの子たちは未熟で、私は優秀なんだって思わないと、比べ続けないと、やっていられないじゃない!」
三澄は少し考えてから「アドバイスになるかはわからないけれど」と切り出した。
「他人に興味がないよねと、幸恵に言われたことがある。そうかもしれないとは思ったよ。私には自分がどうしたいかが大事で、そこに他人の行動は関係ない。私の努力は、自分自身のためであって、他人と比べるためじゃない」
けれど、と三澄は顔を曇らせる。
「それが正しいかどうかはわからない。今もまだ、私はわからないままだ。立川さんに注意された子は、いつか君に感謝する日がくるかもしれない。私は他人に注意しようなんて思わないから、君の方が正しい側面だっていくらでもあると思う。私は君のことを分析しただけで、私の方が正しいと押し付けているわけじゃない」
他人に興味がない、と幸恵が指摘したのはこういうところなのだろうと法子は気付いた。
同じ真面目であっても法子と三澄は両極端なのだろう。他人が気になり過ぎる法子と、感心がなさ過ぎる三澄というわけだ。
それは本質的なものであるから、法子はきっと三澄のようには考えられないし、逆に三澄は法子のように人と関われないはずだ。
例えば、法子が他人にアドバイスをしたならば、その結果がどうしたって気になるはずだ。けれど、三澄は今日のアドバイスで法子がどういった選択をしようとも気にしないのに違いない。
三澄の言うこと全てに納得したわけではないけれど、腑に落ちたこともある。
他人が気になり過ぎるのなら、その行動ばかりに目を向けるのではなく、胸の内まで気にするべきだった。法子はそれができていなかった。
親というものはどうしても子どもの気持ちを決めてかかるものだ。法子自身も、母は私の気持ちをわかってくれない、と嘆いたことがある。その時の、どうしてわかってくれないの、という気持ちはひどく辛いものだった。
幸恵や文香も同じような気持ちを抱いていたのだろうか。
すぐに考え方を変えられるとは思わないし、藤村遥のことを認められる気もしない。けれど、自分の言動が相手の気持ちを無視しがちであることは、常に頭の片隅に置いておくべきだと法子は考えた。
そうやって自分自身を監視し続けるしかない。できるはずだ、と法子は言い聞かせる。自分を律することは得意なはずだ、と。
三澄理沙と話し込んだのはこの一件だけだった。学校ですれ違った際に挨拶ぐらいはしても、仲良くなったわけではない。卒業に際して、念の為に連絡先を交換したけれど、連絡を取ることはないだろうと考えていた。
まさか、三澄理沙の方から電話がかかってこようとは思ってもいなかった。
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