四章 A Mad Tea-Party
第18話
1
県中心部の駅から繁華街を抜けて、さらに十五分ほど歩いた先の住宅街にその喫茶店はある。煤けたレンガ風の外観が生活感あふれる街並みにポツリと浮いており、パッと見ただけでは古臭く感じる人だっているかもしれない。
けど、藤村遥はこの店を気に入っていた。ドアを開けば時代と地域を飛び越えるようだったし、店内には店主が実際に外国で買ってきたというアンティーク調の小物が並んでいた。小さな海外旅行みたいな気分を遥はいつも感じている。
それになにより、紅茶専門店だというのが遥は気に入っていた。
同級生たちがこのことを知れば驚くはずだ。見た目が派手なら男の趣味だって派手。そんな遥が一人落ち着いた店内でクラシックを聴きながら紅茶を楽しんでいるなんてきっと思わない。
でも遥は、自分にはこの時間が必要だと知っている。他人と関わることが大好きで、恋愛だって相手が好きというよりも、恋愛そのものを楽しんでいる。遥にはその自覚がある。そのせいで時に言い過ぎることもあるし、滅茶苦茶に感情をぶつけられたりもする。そんな時には一人で落ち着くことも大切だと遥は考えている。
だからこの店にはこれまでの彼氏も、幸恵だって連れてきたことはない。遥にとっての密やかな隠れ家だ。ただ、知り合いの誰かが偶然この店を訪れて、中でたたずむ遥の姿に目を丸くしているところも見てみたい、と天邪鬼に考えたりもする。実際のところ、街に繰り出してきた学生たちがこの辺りにまで足を伸ばすことはほとんどなく、この店で誰かと鉢合わせたことは一度もない。
そんなところを都合がいいと考えて、遥は彼女との密会場所に選んでいた。
店に入ると先に彼女が待っていた。この店の雰囲気に長身の彼女はよく似合う。男装の麗人のようだった。もっとも、それはただのイメージで実際の彼女はスカートを履いていたから、男装でもなんでもない。
そんな三澄理沙は数年ぶりに親友との再会を果たしてきたばかりのはずだが、どうしてだかどんよりとした表情で紅茶の中へと視線を泳がせていた。
その様子に少しの落胆を覚えつつ、遥は彼女の向かいへと座った。
椅子を引く音に気付いて、理沙が顔を上げる。眼鏡の奥に見える瞳は悩ましげな色をたたえていた。
「ダージリンを一つ」
注文を取りに来た店員に声をかけてから、理沙に向き直る。
「一体、どうしたわけ? 八年ぶりに親友と再会してきたばかりには、とても見えないんだけど」
理沙にLINEを送ったのはちょうど二週間前のことだ。彼女と最後に会ったのはまだスマホが出始めた頃で、当時は遥も理沙もガラケーだった。もちろんLINEなんてなかったはずだ。
けど、LINE内の連絡先を調べてみると理沙の名前があった。スマホに残っていた連絡先から自動的に登録されていたらしい。既読が付けば、少なくとも連絡先が生きているとわかるので、遥はメールを使わず真っ新なトークルームへとメッセージを送信した。
昼過ぎに送ったメッセージには三時間経っても既読が付かなかった。やっぱり連絡先が死んでいたのだろうか。もし登録してあるメアドや電話番号の全てが通じなければどうしたら良いだろうか。誰か連絡先を知らないだろうかと、知り合いの顔を順番に思い浮かべていった。
けど、中学時代の同級生で現在も理沙と連絡を取っていそうな子に遥は心当たりがなかった。頭を悩ませながら繁華街を抜けたところでスマホが音を鳴らし始めた。アプリの通知音じゃなくて着信音であることに気付き、遥は慌ててバッグからスマホを取り出す。かけてきた相手を確認し、すぐ耳にあてた。
どうやら理沙は思ったよりもせっかちなようで、メッセージを見てすぐに電話をかけてきたらしい。
『あ、藤村さんかな。あれ、どういう意味?』
挨拶もなく、電話越しに問い詰めるような声を出す理沙に遥も思わずムッとしてしまう。この子はあたしに興味がないのか、と。
「数年ぶりの会話だってのに、そんな言い方ある? もっとなんかあるでしょ。久しぶりーとか、元気にしてたー? とか」
心に沸いた不機嫌さを隠す気も起きず、愛想なく理沙に言い返す。
『そんな感慨を求めているのなら、君の送ってきた内容が悪い』
悪びれた様子のない彼女の態度にため息が出る。
『それで、幸恵は大丈夫なの』
その声がうわずっていて、スマホ越しに焦っている理沙が思い浮かんだ。遥はその想像に少し胸がスッとした。
そこでようやく「ああ」と気付く。彼女はひょっとしてなにか勘違いをしているのかもしれない、と。
遥の送ったメッセージは、確かに紛らわしいと言われても仕方がない。
『ねぇ、幸恵を助けたいってどういうこと?』
遥がメッセージを送ってから四時間程。おそらく大学の講義かなにかでスマホを確認できなかったのだろう。何年も会っていなかった知り合いから急に来たヘルプメッセージ。もし火急の要件だったなら。そんな想像で四時間分のロスに慌ててしまっても無理はない。
――福多幸恵を助けたい。力を貸して欲しい。
それが悩んだ末に遥の送ったメッセージだ。
理沙に他人への興味が薄いことはわかっている。だからインパクト重視で、LINEを開かなくても通知画面で内容が伝わるシンプルなものを遥は考えたつもりだった。
様子を見る限りどうやら効果があり過ぎたようだ。
「そんなに慌てなくても大丈夫だからちょっと落ち着いてくれない? 犯罪に巻き込まれてるとかじゃないから」
スマホを通して長いため息が遥の耳に流れ込んできた。
『今すぐどうにかしなければならないって話ではないのね』
念を押してくる理沙に「違う」と答えた。
「でも、あたし的に幸恵の状況は良くないと思ってて、だけどあたしじゃどうにもならないの。不本意だけど、あんたじゃないと駄目なんだ」
『……わかった。今週末そっちに戻る。一度会って話そう』
その言葉で理沙がもう地元を離れていることを知る。
「そうね。あたしもその方が話しやすいし。どこで待ち合わせるか決めて、後で送るね」
短い会話を終わらせると、遥の意識は今向かっている喫茶店の方へと移った。
あそこなら幸恵と鉢合わせる心配もないはずだ。店の名前で検索し、あまり作り込まれていないホームページを見つけると、そのURLを理沙に送信した。
週末になって、先に着いた遥がダージリンの香りを楽しんでいると、額に大粒の汗を乗せた理沙が店内へと入ってきた。時計を見れば約束の時間ギリギリだった。駅から距離があるから、遅れそうになって駆け足になったのかもしれない。遥はそこまで気にしないけど理沙は気にするタイプだろう。相手を待たせるかどうかじゃなく、自分が約束を守れないことがいやなタイプ。
胸を抑えて何度か深呼吸した理沙を遥は椅子に座ったまま見上げた。
あれだけ身長が高いと釣り合う男を探すのも難しそうに思える。遥の経験上、恋人の身長が自分より高いと気後れする男は多い。それにあの性格でもある。
でも、逆に考えればそこで振るいにかけられるわけだから……
そんなことをぼんやりと考えていた遥は、腰かけた理沙に睨みつけられた。
「藤村さん、失礼なことを考えてるでしょ」
「え?」
どうやらこの性格のこともよく覚えられているらしい。
少しだけ口元が緩んで「久しぶり」と声をかける。
「うん、久しぶりだね」
それで? とテーブルに肘を乗せた理沙が指を組む。
「幸恵になにがあったわけ?」
「まぁまぁ、急がなくたってあたしは逃げないから。取り敢えずなにか頼んじゃって。ここの紅茶はどれもオススメなんだから」
遥の差し出したメニューを紅茶? と首を傾げながら理沙が受け取る。遥が教えたホームページの、アクセス方法以外をろくに見ていないらしい。
その表情が少し曇っていることに気付いた遥は「あれ?」と声をかける。
「ひょっとして、紅茶苦手なの?」
「そんなことはないんだけど」
遥にはそう答えつつも、気乗りしなさそうにメニュー表を眺めている。
せっかくの隠れ家に案内してやったのにと少し不満のわいた遥だったが、この子にも好き嫌いのようなものがあると思うと楽しくなったので、それで帳消しということにした。
理沙は紅茶の種類がそもそもわかっていなさそうだったので、取り敢えずアッサムのミルクティーをと、顔馴染みの店員に遥は声をかける。
運ばれてきたカップに、理沙は文句を挟むことなく口を付けた。
「どう? 美味しいでしょ」
理沙は目を細めて「そうだね」と答える。その様子におや、と思う。彼女の言葉に遠慮は感じられず、紅茶を飲み下す姿も落ち着いていて、嫌いなものを口にしているように見えなかった。
でも、紅茶専門店だと気付いた時に表情を歪めていたのは間違いないと遥は思う。
そうなると、紅茶そのものじゃなく、紅茶に関するエピソードでいやなことがあったのかもしれない。
遥にはピンときた。
「ははーん。つまり、以前手酷く振られた男が紅茶好きだった、とか?」
もう一度カップを傾けていた理沙は思わずといった様子でむせて、慌ててカップをテーブルに戻す。その瞳がジロリと遥を睨み付けた。
「君に変わった様子がなくて私は安心したよ」
遥がその発言の意図に気付くまで数秒かかった。
「……あ、今のって皮肉? あんたも相変わらずだよね。で、どうなの? やっぱり男なんでしょ」
「残念外れ。君の期待しているような面白そうな話はなにもないから、さっさと本題に入って」
ちぇー、と遥は口をすぼめながら紅茶のカップを手に取る。のどを潤しながら、理沙の事情も気になるけどこれ以上つついて機嫌を損ねては意味がないなと考えた。
カップをテーブルに戻した時にはもう思考は切り替わっていた。「あたしがあんたを呼び出したのは――」と本題に入る。
「幸恵の就活に関しての話なの」
完全に予想外だったのだろう、理沙は戸惑った表情で「就活?」と訝しげに首を傾げてみせた。
「そ、あたしら大学四年生の悩み事」
そう言ったものの「あ、そっか」と理沙が他人事のように答えたので、遥は少しだけ不安になった。
「ひょっとして理沙、留年とかした?」
「え? ああ、違う違う。留年はしてないけれど、私医学部だから。後二年は学生のままなんだよ」
普通なら嫌味に聞こえそうなものだけど、不思議と彼女が言うとそんな風には聞こえない。自慢のようにも聞こえず、単なる事実を説明しただけのようだった。
私の話はいいからと、理沙が続ける。
「幸恵の就活がどうしたというんだ。まさか、あの子の内定が決まらないなんて話ではないだろうね。だとしたら私への相談は見当違いだし、そもそも君だってそこまで気を揉む問題ではないと思うけど」
さっきまであれほど心配していたことが嘘のような態度で理沙はそう言った。
幸恵自身ではどうしようもない問題が降りかかっていて、そのことで悩んでいるなら全力で手を貸すけれど、就活や受験といった問題であれば自分自身で解決するべきだ。そういった線引きが理沙は人よりもかなり明確で、きっとそれが彼女の美学なのだろうと遥は思う。
冷たいようにも思えるけど、仲直りしたい相手に対しても自分を曲げようとしない姿勢は、どちらかと言えば好ましい。
眉をひそめている理沙に、遥は首を振った。
「その逆で、幸恵には内定があるの」
「なら問題ないじゃないか」
話の着地点が掴めない様子で理沙が首をひねる。
「問題はあるのよ。簡単に言うと、コネで手に入れた内定だって噂がある」
コネ? と、遥の言葉を繰り返しながら、理沙は再度首をひねった。
「それってなにか問題がある?」
理沙にそのように聞き返され遥は目を丸くする。思わず腹の底から笑いが込み上げてきて慌てて口元を手のひらで覆った。
「話が早くて助かる」
「受験の裏口入学とは違うのだから、企業と就活生の双方にメリットがあれば問題ないだろう。そりゃあ人事個人に金を包んだとか、身体を売ったという話であれば変わってくるけれど、あの子がそんな手段を取るとは思えないし」
「あたしも理沙の言う通りだと思うし、幸恵のコネはそんな手段じゃないから安心して」
「なら、藤村さんはなにを問題だと言っているの?」
「幸恵の内定はあの子の親が裏で手を回した縁故採用だ、って噂が幸恵の所属しているゼミで広まったのよ」
遥は楠木和美の名前を出して、彼女と幸恵の間で起こっている確執について説明する。
「どう思う?」
「藤村さんの話をまるっと鵜呑みにするならば、の前提だけど、どうもこうもない。言い掛かりもいいところじゃないか。そもそも、幸恵が縁故採用されていたとしても、二次面接で落ちている楠木には関係のない話だ」
「だよね。あたしだってそう思う」
「だったら、なにが問題なわけ?」
「もし理沙がそんな噂を流されたらどうする?」
「無視一択だね。直接的な実害を被るのなら手段を考えるけど」
藤村さんは? と、あまり興味が無さそうに理沙が問い返す。
「取り敢えず言い返しているね。勝手な噂を流すのは結構だけど、そんな時間があったら自分の内定先の心配でもしてなって」
理沙が「それ、すごく想像しやすい」と頬を緩めた。
「で、そんなことを聞くということは幸恵の対応はそれらとは違うってことだよね」
遥は一度頷いてから、そうでもないかと思い腕を組み直した。「いや……」と言葉がもれる。
「理沙と同じで無視をしていると言えばしているんだけど。ただ、違うの。ああ、なんて言えばいいんだろう」
言葉に言い淀む遥を見かねたのか「例えば」と理沙が助け舟を出してくれる。
「私の意見が積極的な無視なら、幸恵のしている無視は消極的。そんな具合かな?」
その意見に遥は大きく「そう」と頷いた。
「あたしの言いたかったことそのまんま。理沙だったら多分あんなのは放っておけって感じで無視するんだろうけど、幸恵は、楠木がそう言うのは仕方がないって感じで無視をしているの。仕方がないこととか、なんにもないのに」
あんな奴、一度キッパリ言い返してやればいいのに。そう憤る遥に小さく首を振る幸恵。その時のやるせなさを思い出し、遥の言葉に感情が乗る。
残っていた紅茶を飲み干して、店員におかわりを注文する。その時になって、理沙が浮かない顔をしていると、遥は気付いた。
「どうかした?」
「自分で言っておいてなんだけど、私の知っている幸恵とイメージが合わなくて。あの子普段は大人しいけれど気は強いし、口も悪かった。男子の胸倉を掴んでいるところだって見たことがある」
「わかるよ。あの子、意外と毒舌だよね」
男子の胸倉を掴むシチュエーションがすごく気になったけど、まずは理沙の疑問に答えるべきだと心に言い聞かせて、遥は頷いた。
理沙はほっと息をついたけど、表情は浮かないままだった。
「なら、ますますらしくないように思えるけれど」
「そんなセンチにならなくても、あの子は変わってないよ。でも、そういう話じゃないの」
楠木の陰口の方が、問題なんだ。そう言った遥に理沙は真剣な表情を作り、顔を寄せた。
「その噂が出回ってすぐなんだけど、あたしの方が腹を立てちゃってさ。幸恵を連れて楠木に文句を言いに行ったんだ。幸恵は気乗りしてなかったけど、それでもまだ気楽に見えた。遥が全部言っちゃうんだから、私が一緒に行く必要ある? みたいに言ってたし。で、さっきみたいに幸恵がコネだろうがなんだろうがあんたには関係ないって言ってやった」
「あれ、本当に言ってたんだ」
「うん。でね、楠木がこう言い返したの」
一字一句が遥の記憶に残っている。それを聞いた時の、幸恵の表情まで含めて。
『もう内定が決まって、悠々自適で幸せそうなあんたらにあたしの気持ちはわからない。例えズルであってもあの会社に内定をもらえたあんたが、あたしはとても羨ましい』
え、と呟いた理沙が唖然とした様子で目だけを瞬かせる。「それは……」と一言を絞り出すのがやっとのようだった。
「当然だけど、楠木はなにも知らないはず。だけど、偶然にもあいつはミラクルヒットを出してしまった」
中学生の頃、遥は転校してきた理沙から幸恵の話を聞き出そうとした。仲の良かった幸恵と立川法子がどうして小学校卒業間近に喧嘩をしたのか、その理由に立川の弱みでもないだろうかと下心があったからだ。武田文香たち他の同級生は立川の擁護をするばかりで話にもならなかった。幸恵と同じ私立中学にいたと知り、理沙ならなにか聞かされていないだろうかと期待したのだった。
遥は強かだった中学生時代の自分に感謝する。つい余計なことまで話してしまった理沙の弱さにも。そのお陰で遥は、楠木の言ってしまった言葉が幸恵にとってどんな意味を持つのかすぐに理解することができた。
「私の過ちは、あの子の中でまだトラウマってわけか」
悲痛な表情を浮かべた理沙に、遥はなにを言ってやればいいかわからなかった。話題を逸らしたい気持ちもあって、遥は話を進める。
「第一希望の企業に落ちた楠木は確かに気の毒だよ。彼氏が働いているからっていうその志望動機はどうかと思うけど、まぁ、同情してやったっていい。でも、だからって幸恵を責めるのは身勝手な言い分だもの。そんなのは一々気にするべきじゃない。一度ガツンと言い返すべきなんだ」
「それで、私を呼んだんだね」
「うん。わかってると思うけど、楠木の話はしちゃ駄目だから。この件じゃ散々説得しようとしちゃったし、あたしの差し金だってばれたら聞いてくれなくなるかも」
理沙は目を瞑り、眉間に指を当てる。遥は考えている彼女に変わって新しい紅茶を注文してやった。
それが届いた頃に理沙は小さく頷く。
「大丈夫。私がなにを言うべきかについて、おおよそはまとまった」
さすが、と声を弾ませた遥に理沙は力なく笑う。
「あの件は私にとってもトラウマだ、なんてことはもちろん言えた義理ではないけれど、私だってずっと気にしていたんだ。幸せそうに見える相手でも、本心でどう思っているかは別の話だってよくわかっていたはずなのに。どうしてあんなことを言ってしまったんだろうって。だから、いつかは向き合う必要があったんだ。あの続きをしなきゃいけなかったんだ。感謝しているよ、藤村さん。お陰でもう一度、幸恵に会う勇気が湧いた」
確信があったわけじゃないけど、理沙との再会は幸恵にとっていい方向に働くはずだと、そう期待して二人は笑って別れたはずだった。その同じ店で今、遥と理沙はしかめた顔を突き合わせている。
「ええっと、それってつまり、どういうことなんだろ」
理沙と幸恵のやり取りを聞き終えた遥は眉間を強く押してから紅茶に手を付ける。脳が激しくカフェインを求めていた。
紅茶は既に冷めており、新しいものを注文する。それを待ってから理沙が口を開いた。
「幸恵はあの一件を、とうに消化できていたんじゃないかな。きっとあの日のことを何度も思い返して、どうして理沙はあんなことを言ったんだろう、私はあんなことを言われたんだろうって考えていたんだ。だから、あの子はすぐに言い返してきた。あれはその場で考えたものじゃないと思う。ずっと考え続けて、幸恵が辿り着いていた結論なんだ」
「でも、それじゃあ楠木に言い返さないのはどうして? 理沙に言い返せるぐらいなら、楠木にだって言えるでしょ。いい迷惑だって」
理沙は少し考えた様子を見せてから「言い返してはいけないと思ってるんじゃないかな」と呟いた。
「私や楠木の言ったことに対する幸恵の結論は『いい迷惑だけど、私はそれを言われても仕方がない』ってことなんだと思う。私に言い返してくれたのは、私が頼んだからであって、幸恵が積極的に言い返そうとしているわけじゃないんだ」
「もし、もしよ。それが仕方なくっても、言い返したっていいじゃない。どうしてあの子はあんなに頑ななのよ」
ここが行きつけの店でなければ頭を掻き毟っていたかもしれない。遥にしてみれば幸恵はややこしく考え過ぎているようにすら思う。
「幸恵のあの一言は、思わずもれたような感じだった。聞き返しても、あの子は慌てて誤魔化した」
遥はついさっき聞かされたばかりの言葉を思い出した。
――幸せな私は、誰かを羨んだり妬んだりしてはいけないんだよ。
「引っ掛かる言い方だよね」
遥の呟きに理沙が頷く。
「なにか羨ましいものがあって、でも自分はそれを羨んではいけないって考えているように聞こえない?」
「そう言われればそうかも」
「あの会話で、どうしてあんな言葉が出てきたのかを考えてみたんだ。けど、それを考えるとどうしても私のことを羨ましく思っていた、という結論になってしまう」
「あんたの羨ましそうなところって頭がいい、家が金持ち、とか?」
理沙は「本当に失礼な奴だな、君は」と苦笑いを浮かべた。
「でも幸恵は別にそれを羨ましく思いそうにはないよね」
「そうなんだ。そこがわからない」
眉を寄せる理沙に付き合うが、彼女に心当たりのないものを遥がわかる訳もなく、運ばれてきた紅茶から少しずつ湯気が消えていく。
「例えば、藤村さんだったらなにかある?」
唐突に遥へと視線を向けた理沙に「なにが?」と問い返す。
「羨ましいとは思うけれど、でも羨ましいと思ってはいけないもの」
「そんな一休さんじゃないんだから……いや、あるかも」
「本当に?」
質問したはずの理沙が訝しげに聞いてくる。彼女もたいがい失礼じゃないか。
遥は頭に浮かんだ内容をそのまま答えた。
「うん、友達の彼氏とか」
目を丸くしてあんぐりと口を開いている理沙の態度に、遥は少しだけ頬を膨らませた。
「せっかく思いついたから答えてやったのに。その表情はないんじゃない?」
「ああ、いや、ごめん。驚いたけれど、感心してたんだよ。私にその発想は出て来ないと思うから」
「ディスられてるようにしか聞こえないんだけど」
「そんなつもりじゃ――」
ないよ、と言ってくれようとしたんだろう。そんな理沙を遮って「あ、待って」と遥は叫んでいた。
閃いたのだ。
「そうだよ。彼氏だよ」
まるで話が掴めない様子の理沙が「どういうこと」と眉をひそめた。
「あたしたちが高一の頃、短期間だけどあたしの兄さんと幸恵が付き合っていた時期があって」
「初耳なんだけど」
「そりゃあ言ってないもの。でね、結局すぐに別れたんだけど、あたしは二人が付き合い始めた理由と別れた理由、どっちも……腑に落ちてないの」
かつて、幸恵に言った言葉をもう一度口に出す。
理沙が話を聞く体勢になったので、遥は二人の始まりと終わりについて、彼女に伝えた。
「幸恵はどうして兄さんと付き合って、なにが不満で別れたのか、ずっとわからなかった。まぁ、あたしも別れ話でごたついてたから聞く余裕もなかったんだけど。こういうのってさ、ちょっと時間がたつと聞き辛くなるじゃん。特にその時は身内だったし」
「いや、それはちょっとよくわからないけれど」
そういうものなの、と遥は口を尖らせる。
「結局今も聞けてないままなんだけど、さっきの話を聞いて同じだって思ったの。愚痴を言うあたしも、感情が爆発して八つ当たりしてきた理沙も、あの子は羨ましかったんじゃないかな。でも、それって不幸が前提だから、羨んじゃいけないって幸恵は思ってる」
理沙は黙り込んだままなにも言わなかった。
「あたし、もう一度幸恵と話してみる」
「……話して、どうするの?」
「理沙は、今の考えが当たっていたならどう思う?」
「良くないと思う。その考えだと、自分が誰よりも不幸でなければ愚痴の一つも言えないことになる」
「そう、おかしいと思うはずなんだ。幸恵だって、おかしいと思ってるから理沙に誤魔化したはず。だから――」
浮かない表情の理沙に遥は続きを呑み込んだ。
「ごめん、藤村さんを信用していないわけじゃない。でも、私はその説得は上手くいかないと思う」
ハッキリそう言われるとムキになってしまうものだ。
「そんなの、やってみないとわからないじゃない」
「そう、だから一度説得してみて欲しい。でも、それで駄目なら……」
理沙が、少しだけためらうように言葉を切った。
「さっきの君のお兄さんと幸恵とのエピソードで、私にも思い至った件がある。それに、懸けたいんだ」
君は反対するかもしれないけれど、と理沙は付け加えた。
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