第16話
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立川法子は頑張らずにはいられない女の子だった。不真面目な同級生たちに比べて、自分は頑張っていると主張することが彼女のアイデンティティだった。
そんな彼女が中学受験に挑戦することはある意味で当然のことだったかもしれない。
「法子ちゃん、受験するんだって。すごいよね。さすがだよね」
法子となるべく関わらないようにしていたから、教室の隅で囁かれていた噂話が耳に入ってくるまでそのことを知らなかった。
思わず、頭の中が真っ白になる。
「えー、そうなの。なんていうか、あの子もよくやるよね」
小さな悪意のこもった言葉が、私の耳を通り抜けていく。
もし同じ中学を受験することになってしまったらどうしよう。自分自身の努力で法子と違う中学に行く。その提案が魅力的だったから夏休みの間も頑張ったのに、その結果が同じ中学じゃ本末転倒だ。
「ねぇ、文香(ふみか)ちゃん、ちょっといい?」
武田文香(たけだふみか)は私たちが三年生の時に法子とペアで学級委員をやっていた女の子だ。二年生の時の中島とは違い、彼女とは上手くやれていた。法子ほどじゃなくても、私と同じくらいには真面目。私と文香も仲がいい。今は私たちとは別のクラスだけど、そこでも彼女は学級委員をやっている。
その文香が一人でゴミ捨て場に向かっているのを見かけて、思わず声をかけていた。
「ん? どうしたの?」
早くゴミを捨ててしまいたいのか、顔だけをこちらに向けた文香に足を合わせる。
「のんちゃんってさ、どこの中学を受験するつもりなのかな」
文香はあっさりと学校名を告げると、怪しむように目を細めた。
「どうして私にそんなことを聞くの? のんちゃんに直接聞けばいいじゃない」
「それは、まあ、そうなんだけど」
当然の疑問だ。勢いで声をかけてしまったからなにも言い訳を用意していなかった。
「そう言えば、最近のんちゃんと一緒にいるところ見かけないよね。ひょっとして喧嘩でもした?」
「そういうわけでもないんだけど……」
私が曖昧に濁すと、彼女は少し考えた後、その不可解そうな表情を崩して大きく頷いた。
「ひょっとして、サプライズで同じ学校を受けるつもりなの? 幸恵ちゃんだって勉強できるもんね。わかった。それなら私も内緒にしておいてあげる」
勝手に都合のいい勘違いをしてくれた文香に後ろめたく思いながらも「ありがとう」と頷いた。
文香が口にした中学校は、私の志望校である紫苑学園ではなかった。
ほっと息をもらして、なんだか心が軽くなっている自分に気付いた。
文香に声をかける前に考えていたことを思い出す。
――受験をした結果、法子と同じ中学に行くことになるなら本末転倒だ。
思わず両頬を手のひらでパチンと叩いていた。
「幸恵ちゃん?」
隣で一体どうしたのかと文香が目を丸くしていることも気にならなかった。
違うでしょ、そうじゃないでしょと自分に言い聞かせる。
確かに中学受験を考えたきっかけは法子だったかもしれない。けど私が紫苑学園を、本気で努力しないといけない中学を受験したいって思ったのは、別の理由でしょ、と。
もし法子の志望校が紫苑学園だったとしても、今の私には関係ない。
少し動揺して弱気になってしまったことが情けなかった。この気持ちは頬の痛みと一緒に忘れなければ。私にはよそ見をしている時間なんてないのだから。
私の行動を好意的に解釈したのだろう、ゴミを捨て終えた文香が「頑張って」と両拳を握ってエールを送ってくれた。
「ねぇ、どういうこと?」
私と法子は六年生でも再び同じクラスになっていた。その日、教室に入って自分の机にランドセルを置いた私を、法子は叫ぶように問い詰めてきた。
私たちの県の、私立中学受験日の翌日だった。
その日まで学校の先生たちには口止めを頼んでいたけど、平日の入試日で学校を休まなければならなかったから、さすがにバレてしまったらしい。
法子も昨日は受験で学校を休んでいたはずだから、他の同級生から聞いたのだろう。信じられないといった表情で私を睨みつけてくる。
「なにが?」と、とぼけながら席に着く。法子は私の机をバンッと両手で叩き、真っ赤な顔で見下ろしてきた。
「どうして受験するって隠してたの!」
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
「でも私が受験するって知ってたよね? だったら普通なにか言わない? 私も受験するんだ、とか。一緒に頑張ろうね、とか。あえて言わないってことは隠してたってことでしょ。友達だと思ってたのに、隠し事なんて、ねえ、ひどくない?」
法子は目に涙を溜めて怒鳴りつけてくる。彼女が裏切られたと考える気持ちもよくわかる。でも、私だって彼女にだけは言いたくなかった。
そうやって、私がどうして話そうとしなかったのか、その理由を考えようともしないところがたまらなくいやなんだ。
「しかも紫苑学園ってなに? 当てつけ? そういえば四年生の頃から妙に私のこと避けてたよね°どうして? 私なにかした?」
誰かが「のんちゃん可哀そう」と口にした。私たちを取り巻くクラスメイトの視線が突き刺さる。
こうなることはわかっていた。もし事前に話していても、状況はそう変わらなかったはずだ。「どうせ受験するなら一緒のところを受けようよ」から始まり、「なにかやりたいことでもあるの。ないのにどうしてそんなところを受けようとするの。当てつけなの?」に至るだろう。他人の気持ちを想像しない癖に干渉だけはしようとする彼女に紫苑学園を受けたい理由を答えたくはなかった。
それならギリギリまで隠していた方が余計なことを考えなくて済む。ただでさえ私の受験先は難関校なのだから。
「心当たりがないなら、私がなにを言ったってのんちゃんにはわからないと思う」
睨み付ける彼女の視線を真っ直ぐに受け止めて言い返してやった。
私がそんな風に反撃してくるとは思っていなかったのか、法子は目を見開いて、それから強く唇を噛んだ。
「幸恵ちゃんなんて落ちちゃえばいいのに」
法子が捨て台詞を吐くのと同時に朝のチャイムが鳴り響いた。
受験結果の発表された翌日、登校すると生気のない瞳でぼうっと黒板を見つめている法子がいた。その様子から結果は明らかで思わず彼女から目を逸らす。
他のクラスメイトたちも察しているようで遠巻きに法子とそれから私の様子もうかがっている。なかでも、文香がどう声をかけようとかと視線を行ったり来たりさせている様子は居た堪れなかった。
私が黙って自分の席に着こうとすると、不意に法子の首がゆっくりと動きその視線が私を捉える。
海の底からのぞき込まれたようだった。
ねぇ、聞いて。法子はポトリと言葉を落とす。
「私、落ちちゃったよ。受験のために我慢したこともあったし、すごく頑張ったのに」
返事を待たずしてさらけ出された胸の内に「……そう」としか私は答えられなかった。
「幸恵ちゃんは、どうだったの?」
少し震えた声には聞き覚えがあった。四年生の時、私が映画に行ったかどうかを気にしていた時も、こんな声だった。
クラス中の視線が私に集まる。みんなが息をひそめるようにして私の答えを待っている。そんな空気の中で正直に答えたくはなかった。
でも、すぐにばれる嘘で傷を舐め合うフリをしたって、後で余計に拗れるだけだ。
本来なら喜ばしい報告になるはずなのに、おそろしいほどに気が重たかった。
「受かっていたよ」
真っ赤に腫らした目で法子が私を睨み付ける。
「幸恵ちゃん、良かったよね。これで満足? 私に恥をかかせて、これで満足?」
法子の受験した中学だって難関校だ。彼女が受験することは学年内でも有名だったし、みんなから「頑張って」と言われていた。そんな彼女が落ちた裏で、親友だと思っていた相手がコソコソとさらに難しい中学に合格していたのだから当てつけだと言われても仕方がない。
けれど――
「私はそんなつもりで受験したわけじゃない」
私の叫びに「聞きたくない」と被せた法子は机に突っ伏して耳を塞いだ。
そうやって、法子はいつも私の気持ちを決め付けようとする。
私はただ、あなたに話を聞いてもらいたかっただけなのに。
「のんちゃん、大丈夫?」
法子の後ろに回った文香がしゃがみ込み、彼女の背中を摩る。視線だけが私を強く睨んでいた。
文香にしてみれば私が受験することを隠していたわけだし、負い目を感じているはずだ。その分私に腹を立てるのも仕方がない。
でも一方的に法子が気遣われて、私が針のむしろに立たされるのは我慢ならなかった。
周囲を巻き込んで『幸恵ちゃんが私にひどいことをする』と主張する彼女の態度に、私のそれでも彼女を友人だと思っていた心が黒く染まっていく。
どうせこの同級生たちとは一ヶ月も経たずにお別れだ。なら、もう言いたいことをすべてぶちまけてしまえ。黒く染まった心が私に命じる。
立ち上がって法子の席へと向かう。怪訝な表情を浮かべる文香を無視して、耳を抑えている法子の手を無理矢理引っ張った。
「やめてよ幸恵ちゃん」という文香の悲鳴を無視して法子に叫ぶ。
「ねぇ、私の話を聞いてよ。のんちゃんはどうしてそんなことが言えるの。のんちゃんだって受験を頑張ってきたんだからわかるでしょ。恥をかかせたいなんて気持ちだけで合格できるわけないじゃない」
放してよ! 法子が叫んで私の手を振り解く。
キッと充血した目を私に向ける。
「なに……それ。合格できた自慢なわけ?」
「だから……」
自分が頑張ったと主張するなら、私だって頑張っていたことをわかってくれてもいいはずなのに。自慢をしたいだとか、法子に恥をかかせようだとか、考えてもいないのに。どうしてそのことに気付いてくれないんだろう。
どうして私が責められなければならないんだろう。
勝手に決め付けられた私の気持ちを裁かれなければならないのだろう。
「ねえ、のんちゃん。あなたのそういうところ、本当に嫌い」
腫れあがった法子の目がこれ以上ないくらい大きく見開かれ、その隣で文香が小さく息を呑む。
「のんちゃんはおかしいよ。自分の言ってること変だって気付かない? いつもいつも、自分のことばっかり。ねえ、どうなのよ」
叫ぶ私の両手を文香が両手で抑え込む。
「やめてよ幸恵ちゃん、お願いだから、落ち着いて」
それを言うなら、まずはのんちゃんの方でしょう!
クラスメイトから向けられた非難の視線が私の叫びに対する回答だった。それを引き千切るように自席に戻って腰を下ろす。
もうどうしたってこの気持ちは理解してもらえないのだと、諦めに似た感情でクラスメイトの姿が目に映らないように机を睨み付けた。
教室を飛び出したいとも思ったけど、それではまるで逃げ出したようでいやだった。
ドアの外から小さく口笛が聞こえた。
視線を上げると、廊下に何人かの人影が見えた。騒ぎが隣のクラスにまで聞こえて覗きに来られていたのだろうか。「やるじゃん」という声が聞こえたけど、どうしてだか視界が滲んで、誰が言ったのかわからなかった。
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