第15話

        5


『幸せに恵まれますように』

 わかり易いほどにシンプルな願いが、私の名前の由来。

 けれど、どんな思いで願われたのか、それは名前だけではわからない。例えば、用いる主語を変えればまるで違う意味に聞こえるはずだ。

 まず考えられるのは『あなたが幸せに恵まれますように』

 あるいは『あなたも幸せに恵まれますように』

 そして、私の場合は『あなたは幸せに恵まれますように』という祈りだった。


 私の母は兵庫県出身で、関西の大学で父と知り合った。一九九〇年、バブル景気の真っ只中で、父は関東に本社を構える大企業の商社へと就職を決めた。

 母の内定先はどれも関西の企業で、そのまま就職すれば遠距離恋愛になり、結婚すれば内定を蹴って父に着いていくことになる。

 母は結婚することを望んだが、彼女の父――私にとっての祖父はそれを認めなかった。

 母の実家は地元では有名な家柄だったらしい。が、子供は二人姉妹で男児に恵まれなかった。だから、特に長女である母の結婚相手には婿養子をと、望んでいたのだそうだ。

 全国を飛び回る商社の営業マンに婿養子は不適格であるし、母が一度地元を離れることも快くは思われない。

 母と祖父は何度も言い合いを繰り返し、最終的には駆け落ち同然に内定を蹴って父に着いていったのだという。

 普段穏やかな二人を見ていれば、そんな苛烈な時代が母にあったとも、恋人に実家を捨てさせる度量が父にあったとも、とても思えないけれど、そんな二人の若い頃の選択によって私はこうして生を受けている。

 一九九四年に母は私を身ごもり、そのことを一応の礼儀として実家に報告した。結婚から四年、一度も実家に帰ろうとせず、関西にすら寄り付こうとしなかった母の強情ぶりに祖父は折れ、結婚のことは認めるし、過去のことも謝罪する。だからせめて里帰り出産をと母に申し出た。翌年の三月中旬が出産予定日であり、正月に帰省してそれから実家でゆっくり過ごせばどうか。真(ま)矢(や)――母の妹であり私にとっての叔母だ――だって久しぶりにお姉ちゃんに会いたいと言っているし、どうだろうか、と。

 けれど母は祖父のことを許しておらずその申し出を拒絶した。「そっちで子供を産ませて人質に取るつもりでしょ」と捨て台詞を吐いて。

 母はそのことをずっと後悔しているようで、酔うと贖罪のように口にする。「私はなんてことを言ってしまったのだろう」と。そんな母を父がなぐさめる。私はそれを偶然聞いてしまっただけだ。

 結果的には、それが母と祖父の最後の会話になった。


 一九九五年一月一七日。起床して大きく膨らんだお腹を摩りながらテレビを付けた母は、そのまま手元のリモコンを落としてしまったらしい。

 ブラウン管に映っている悲惨な情景に呆然とし、それが地元の光景だとテレビのテロップで知った母の混乱は極致に達した。

 後に阪神・淡路大震災と名付けられることになる出来事だ。

 慌てて自宅の固定電話から実家に向けてコールをする。番号をプッシュする指が震えて何度も押し間違えてしまう。

 やっとの思いでかけても、けれども繋がらない。

 どうして、どうしてと呟きながら何度も何度もかけ直す。

 同じ作業を繰り返し、疲れ果てたことでようやくテレビの音声が耳に届く。

 全国から電話が相次いでおり、繋がりにくい状況が続いています、と。

 繋がらないのは回線がパンクしているだけなのかもしれない。家は無事で、電話線もきっと断線しているわけではない。かけ続ければ、必ず無事な声を聞けるはず。藁にもすがる思いで、電話機の番号を押し続けることしか母にはできなかった。


 その日、東北へ出張に行っていた父は昼過ぎには母の元へと飛んで帰っていた。

 家族の無事を確かめに行きたいと喚く母に「君が行ってもどうしようもない。そもそも身重の状態でなにができるのか」と必死に宥めたそうだ。

 行こうとしても辿り着けなかったと思われるが、近くに向かえば余震の被害を受ける可能性がある。父の判断はきっと正しかった。

 結局母は、充血した目でテレビを見つめながら時折繋がらない番号をコールし、家族の無事をただ祈り続けていた。

 

 ギリギリのところで持ちこたえていた母の精神は、けれど翌日になって決壊した。

 テレビのヘリコプターが映す映像が、たまたま母の実家を捉えたのだ。

 地元の名家。少し古臭いけれど伝統の香りがする日本家屋は母の小さい頃の自慢だったらしい。その家が、完全に潰れてしまっていた。

 意識を失った母はそのまま破水した。

 母の様子が心配だった父が会社を休んでいたことが幸いしたのだろう。慌てて救急車を呼び、救急隊員は母のかかりつけだった産婦人科のクリニックではなく、新生児集中治療室のある蓮実市総合病院へと搬送した。

 途中一度だけ目を覚ました母だったが「私を帰らせて」と錯乱した様子で叫び続けたため、やむなく全身麻酔での緊急帝王切開となった。

 妊娠三十二週による早産であった。


 精神安定剤が用いられたのか、産後の母は穏やかな様子だったらしい。

 父の両親は奈良に住んでおり、無事であることが早々に確認された。母方の親戚筋とは絶縁状態だったが、父は両親の知り合いの手を借りて、彼らの安否を調べた。

潰れた祖父の家には当時祖父母と叔母、それからペットの猫が暮らしており、その全員の死亡が確認された。震災の犠牲者は多く、母の入院も長引いたため父が小さな葬儀を行って埋葬することになった。

 その報告を聞き終えた母の胸中は如何なるものだったのか。私には想像することも難しい。

 これが最後の会話になるとわかっていたのなら、あんな暴言は吐かなかった。

 あの人は娘に謝罪し、歩み寄ろうとしたけれど、それを拒絶されたまま亡くなった。

 だけど、父の勧めに従って里帰り出産をしていたなら、私もこの子もがれきの下だったかもしれない。

 彼との結婚を諦めて地元に残り、父の持ってくる縁談を受け入れていたら、やはり震災に巻き込まれていただろう。

 父を許せなかったからこそ私もこの子も生きている。父への暴言を後悔することはこの子を呪うことにもなりかねない。

 その強烈な矛盾は母の心をどれだけ苛んだことだろう。

 私の誕生日は、母が家族を喪って家族を得た日だ。そして彼女は、喪った家族を想い、祈った。

 あなたは幸せに恵まれますように。


 この話は最初から最後までを父や母から教えてもらったわけじゃない。少なくとも小学四年生当時の娘に話すべき内容ではない。

 とは言え、自分の誕生日が震災の翌日で、母方の両親が震災で亡くなっているとなれば、なにかあったのだろうかと小学生でも考えてしまう。

 生まれた日の出来事だ。気にならないわけがない。両親が私のいないところで会話をしていればこっそり盗み聞きしたし、たまに母がお酒を飲んだら弱音をこぼすことを期待した。授業の一環で名前の由来を聞いて、なんとも言えない気持ちになった。そうして聞き出した話をつなぎ合わせ、それでも足りないいくらかを想像で補った。

 だから、当時の私はなんとなく自分が生まれた日に起きた出来事を知っていた。

 私はその話を、法子にしてしまったのだ。


 小学四年生の七月、夏休み直前の話だ。

 その日は四年生のクラス合同授業があり、二クラスが体育館に集まった。

 科目は道徳。

 取り上げられたのは、阪神・淡路大震災での出来事だった。

 震災時の写真をスクリーンに映しながら、地震が起こった時に自分や家族、友達の命を守るためにどういった行動を取るべきかについて。

 避難所で生活することになった時、どんなことに気を付けるべきか。

 負傷者の救助に当たるボランティアの人たちが映った写真を見て、彼らの活動をどう思ったか。

 震災時には留守になった家やコンビニで盗みなどの被害が多発するけれど、それについてどう考えるか。

「正しい答えはありません。皆さんがどう思ったか、素直な感想を聞かせて下さいね」

 最後にそう結んだ講師の女性は、当時自分も被災したのだという。きっと何度もこうして子供たちのため、辛い経験を届けてきたに違いない。しわの刻まれたその頬に優しい笑みをたたえられるまでどれだけの月日が必要だったのだろう。

 私はその授業の中で、自分のことしか考えていなかった。

「ねぇ、聞いて」

 その日の帰り道も法子は誰かの愚痴を話そうとした。おそらく今日の道徳授業でのことに違いない。

 道徳にはテストもないから、真面目に話を聞かない子が他の授業に比べて多い。加えて今回の合同授業は昼食後の眠くなる時間に五、六時間目を合わせての長いものだった。

 きっと退屈そうにしている子や、あるいは寝てしまっている子もいたはずだ。

 法子はそれを許せない。私が真面目に話を聞いているのに、どうしてあなたたちはサボっていられるのだ、と。

「ねぇ、待って、私の話も聞いてくれない?」

 誰かの名前を口にしようとしていた法子は虚を突かれたように目を瞬かせる。それから「どうしたの?」と少し不満げな様子で、けど私の話を聞こうとしてくれた。

 ほっと胸をなで下ろし「今日の道徳の授業、法子はどう思った?」と聞いてみた。

 法子はうつむき、少しの間黙り込んだ。

「すごくひどかった」

 絞り出したような声には悔しさがにじんでいた。

「たくさんの人が亡くなってしまったこともそうだし、そんな状況でも自分のことしか考えられない人のいることが私には信じられない」

 法子が憤っているのは、災害時における略奪行為だろう。

「みんながちゃんとしていられたら、そんな被害は出ないはずなのに」

「そうだね。私もそう思う」

 答えながら、そうじゃないと感じていた。

 災害時だから、他のみんなも盗っているからと、自分に言い訳をして火事場泥棒を行う心の弱い者が得をする。

 そんな非常事態であっても、自分の良識を手放せない真面目な人間は損をする。

 どちらが正しいかと問われれば、私だって後者だと考える。考えるべきだと思う。でも、自分がその立場に置かれた時にそれを選べる自信がなかった。

 法子はきっと、迷いなく後者を選べる。だからこそ、他人の心の弱さが理解できない。

 その弱さは正さなくてはならないし、正されるべきだ。法子はきっと、そう考えている。

「ねぇ、実はね。私、あの翌日に生まれたんだ」

 えっ? と法子も驚いたようで目を見開いた。

「あ、そう言えば確かに幸恵ちゃんの誕生日って……あれ、でもそう言えばお父さんもお母さんも関西の出身だって言ってなかった?」

「うん、それでね――」

 話を聞き終えた法子は「そんなことがあったんだ」と、悲痛な表情で呟いた。

「じゃあ幸恵ちゃんのお母さんが実家に帰っていたら、あの震災に巻き込まれていたかもしれないの?」

 私が頷くと「そっか」と遠い過去を思うように夕日に向かって目を細めた。

「何年も前の写真の中の出来事のように思っていたけど、全然、そんなことないんだね」

 法子がしみじみと呟き「でも」と口にする。

「幸恵ちゃんのお母さん、実家に帰っていなくて本当に良かったよね。幸恵ちゃんが生まれていなかったかもしれないんだもの。幸恵ちゃんも、幸恵ちゃんのお母さんも巻き込まれていなくて本当に良かった」

 え――?

 呆気に取られて声も出なかった。私は逃げるように地面に視線を落とし、それから彼女の顔を見られなかった。どんな表情で言ったのか、知りたくなかった。

 違うと、叫びたかった。

 私がわかって欲しかった話はそんなことじゃないと、彼女に言い聞かせたかった。

 けど私はなにも言い出せず、ただただこの話をしたことを後悔し始めていた。

 わかっていたはずなのに。法子がなにも理解してくれないことなんて。

 私は真面目で努力をしていて、不真面目で気ままな人たちより辛い思いをしているから、その話を聞いて欲しいと法子は言う。

 でも、彼女は私の話を聞いてくれない。

 自分がどれだけ辛いかが大切であって、他人の辛さには関心がない。

 だから、他人に共感して涙を流せても、それが少しずれていることに気付けない。

 そんな彼女と、これから中学卒業まで肩を並べ続けなければならないのかと思うと、気が滅入ってしまった。

 帰宅した私に母が一言「大丈夫?」と声をかけてきた。

「え、なんで?」

「だって、幸恵すごく顔色が悪いんだもの」

 心配されるぐらいにひどい顔色なのかと自分でも驚いてしまった。

 体調を崩しているわけじゃないとわかったのか「学校でなにかあった?」と気遣う様子を母が見せる。

 私が黙り込んでいると「答えなくていいから」と肩に手が添えられた。

「頷くか頷かないかでいいから、お母さん、教えて欲しいな」

 私は少しだけ考えて母に向かって頷いた。

「そう。わかった。話したくなったらいつでも言ってね。お母さん、幸恵の幸せのためならなんだってしてあげるから」

 しつこく聞いて来ない母が、ありがたかった。

 その後、特に母とこの日の件について話し合うことはなく、私は変わらずに学校に通い続けた。多少いやな気分を抱えたまま、その分だけ法子と距離を置くようにして。

 母が意を決した様子で話しかけてきたのは、終業式が終わった日のことだった。

「ねぇ、幸恵。お母さんの勘違いだったら笑ってくれていいんだけど、聞いて欲しいことがあるの。この前、すごく顔色が悪い時があって、学校でなにかあったのでしょ。でも、翌日からは変わった様子がなかったから解決したのかとも思ったけれど、もし問題が残っているのなら、何でも言って。転校とかだって幸恵が望むならしてあげられるし――」

 母が指を一本立てながら口にした提案は、大袈裟過ぎる気がした。私は別に法子にいじめられたわけじゃない。それに、この数日は彼女と距離を置くこともできている。どちらかと言えば急によそよそしくなった私に法子の方が困惑しているはずだ。

 それから、と母が二本目の指を立てた。

「もしなにかこの先に不安があるのなら、中学受験とかだって挑戦してもいいんだよ」

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