第9話
5
私は最初から勘違いをしていた。
だから、弘樹との交際は私にとって過ちだったと言える。
そのことに気付かせてくれたのも、遥だった。
「ほんっと、あり得ないんだけど」
その日は遥の家で一緒に春休みの宿題を片付ける約束だった。けど、インターホンを鳴らして出てきた彼女は最初からいたく不機嫌な様子で、私を部屋に案内してくれるなり、そう吐き捨てたのだった。
「また門野くん?」
訊ねながらピンク色の座布団に腰を下ろす。
「そうよ。決まってるじゃない。あ、ちょっと待って。飲み物持ってくる。コーヒーでいいのよね?」
「うん」
きびすを返した彼女を微笑んで見送る。早く愚痴を並べたいだろうに、気遣いを忘れないのは彼女のいいところだろう。
目の前の赤いテーブルに持参した菓子袋を置いておく。ピンクのカーテンは開かれて光が射しこんでおり、部屋の照明を灯す必要は無さそうだった。テーブルの上には洋服の雑誌が開かれたまま置きっぱなしになっており、それがなんだか遥らしい。
好みじゃない洋服の雑誌だけど、なんとなくページをめくっていると遥が戻ってきた。
「お待たせ」
カップを受け取って口に運ぶ。彼女の入れてくれるコーヒーはいつも砂糖が多めで苦みよりも先に甘さが口の中に広がる。甘くなった舌で唇を舐め「で、なにがあったの?」と彼女を促してやった。
「もうさ、ホントにむかつくんだけど、ちょっと他の女に言い寄られたからってデレデレし過ぎなのよ。あれは絶対上手くやればワンチャンあるって考えてるって。こんなに可愛い彼女がいるのにひどくない? でさ、それを指摘したらさ、嫉妬だなんて見苦しいってそんなこと言うのよ。あり得ない、ほんっとにあり得ない」
一気に吐き出した遥は血走った目で私の持ってきた菓子袋を力任せに引き裂くと、自分用に運んできた紅茶に手を延ばす。
遥と門野の交際は年明け頃までは順調だったはずだ。たまにこうして毒抜きに付き合いながらも、なんだかんだで楽しそうにやっていた。
雲行きが怪しくなったのが、先月のバレンタインデーだ。三年生が部活を引退してからますます部の中心的存在となった門野は、比例するように女子からの人気も伸びた。マネージャーである遥と交際していることは周知の事実だったが、それでも彼の元にはチョコが集まった。かなりの数をもらっていたことは間違いない。
遥は別にそのことを気にしていたわけじゃない。むしろ、彼氏がモテることを自慢したがるタイプだ。もし門野が遥以外から一つもチョコを貰えていなければ「あたしの見る目がないって言うの」と文句を垂れていたはずだ。
だからといって、チョコをくれた女子に色目を使うことを許したわけじゃない。それが遥の主張であり、私もその通りだと思う。
「それに、あたし聞いちゃったの。サッカー部の男子たちがね、誰のチョコが一番美味しかったかなんて話をしていてさ。それをあの男、岸(きし)さんって答えやがったのよ。そこは嘘でも彼女を立ててくれるべきでしょうが」
遥のチョコは手作りだ。私も一緒に作ったからその味は知っている。正直あまりおいしいとは言えない。少し値の張る市販品にはとても太刀打ちできない。そのことは遥もわかっている。でもこういうのは気持ちが大切だ、という彼女の言い分も理解できる。
それに岸さんは大人しく控えめで、髪も染めたことがないだろう黒髪をしていて清楚という言葉が似合う同級生だ。遥も可愛いけれど、タイプとしては正反対。そんな子の名前を出されたなら、そりゃあ腹が立つのも仕方がない。
「もっとむかつくのはさ、岸のチョコ、手作りなんだ。それで比べられてさ。他の男子たちも『岸さんお菓子作れるんだ。意外だね~』とか『遥ちゃんもお菓子作り上手そうなのにね』とか言い出すし。こんなのいい笑い者じゃない」
思わず岸のおっとりとした笑顔を思い出す。まだまだ恋愛ごとはよくわかりませんって顔で、彼女持ちの男子に手作りチョコを渡すなんて。意外だし、なんだかいやな感じだ。
「あの女、男子からは清楚で可愛いなんて言われてるけど、絶対腹黒よ」
「手作りチョコはさすがに引くよね」
「賢治くんも賢治くんでさ、他の子たちには適当なお菓子をホワイトデーに配ってたんだけど、岸にはハンカチあげたってあたし知ってるんだから」
「あれ、確か遥のもらったお返しって……」
「……ハンカチ」
「うわ。それはちょっと……ううん、かなりいやだよね」
「ホントあたし、もうどうしていいかわかんなくてさ、ユキちゃんに聞いてもらいたくて。ごめんね、宿題しようって約束だったのに」
「いいよいいよ。だってどう考えてもひどい話だもん」
「だよね。あたしの言ってることおかしくないよね? あたしが面倒くさいだけなのかな、だから岸さんに乗り換えようとしているのかなって不安になっちゃって。ユキちゃんにそう言って貰えるとすごくホッとする」
「まあ、面倒くさいかそうじゃないかって話なら、正直若干面倒だと思うけど、でもそれ以上に今回は周りがひどいと思うから」
「ユキちゃんってホント、そういうところ憎いくらいに正直よね。多少は気を使わないと喧嘩売ってるって思われるよ。ま、だから信頼してるし、好きなんだけど」
憧れだった人の真似を続けているうちに、いつの間にか私自身の癖になっていたらしい。もう会えることはないかもしれないけど、私の中に彼女を感じてもらえるのは嬉しかった。唇が緩み「ありがとう」と自然に言葉が口をついて出た。
「褒めたわけじゃなくて、忠告したつもりなんだけど」と、遥が眉をひそめる。
「で、聞きたいんだけど、遥はなにに一番怒ってるの?」
テーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せた遥が「なにに一番……か」と呟いた。
「遥を蔑ろにする門野くんか、それとも彼女持ちだとわかっていてちょっかいをかけてくる岸さん?」
そのまま目を瞑った遥は、しばらく考え込んでから「賢治くんが、好きなの」と絞り出した。
「うん」
「それは今でもそうだと思う。好きだから腹も立つし、悲しいし。でも、そう。賢治くんはそれをわかってくれないの。あたしが怒っていることを、そんなことで拗ねるなんておかしいって思ってる。それが、多分、いやなんだ」
遥と門野が喧嘩した時に、どうしたら彼女をなだめられるか、と門野から相談を受けたことがある。そういうところなのだろうと思った。怒らせてしまったから埋め合わせをしようという方向へと意識が向いて、肝心のどうして彼女が腹を立てているかを考えるのが疎かになる。
門野にはきっと、遥の怒りが理解できないだろう。
別にさ、と遥が口をすぼめる。
「賢治くんにあたしの気持ちを事細かにわかってほしいなんて、そんなの期待してないんだけど、でも、あたしが怒ってるんだってことは尊重して欲しい」
「怒っている気持ちをおかしいって言われたら、しんどいよね」
「ホントに。わかりあえてるわけじゃないって気付いちゃった感じ」
「岸さんについてはどうなの?」
「岸……ね」とその名前を口にするのもいやそうにため息をつく。
彼女たちが言葉を交わしている様子は四月の頃からほとんど見たことがないように思う。最初は岸の方が遥を見て『なにアレ』と顔をしかめていたはずだ。遥は遥で容姿を理由に不良っぽいとレッテルを貼る相手には心を開かないから仲良くなれるわけがない。
「あんなのいい子ぶってるだけでしょ。あたしは気に食わない。向こうだってあたしのこと嫌いでしょ」
「男好きアピールが痛々しいって言ってたらしいよ」
「はあ? あいつの方こそ恋愛とかよくわかんないですうとか猫被った初々しい振りしてるでしょうが。男はそういうの好きでしょってわかってやってるタイプだわ。痛々しいのはどっちの方よ」
思わずといった様子で叫んでから、我に返ったように軽く睨み付けられる。
「っていうか、どうしてユキちゃんがそんなの知ってんのよ」
「そういうことを教えてくれる親切な人がいるの」
「ああ、余計なお世話を焼くやつね。確かにどこにでもいるか。ユキちゃんはあたしみたいに目も合わせないってわけじゃないからそういう話も入ってくるんだね」
「そうみたい」
「あんなのに惑わされてる賢治くんにまたイライラしちゃうんだけど、岸の話だよね」
カップに残っていた紅茶を一気に飲み干すと、遥は大きく息をつく。
「……うん、ちょっと落ち着いて考えてみると、あいつがどうして賢治くんに言い寄ったのかって話だと思うの」
「どういうこと?」
「岸がホントに賢治くんを好きなのか、そうじゃなくてあたしに嫌がらせをしたいのかってこと。ホントに好きなら、彼女がいてようが奪い取りたくもなるだろうし」
「遥ならやりそうだよね」
「あたしを後ろから斬り付けるのが趣味なの?」
「正直良い趣味だと思ってる」
「もう好きにしていいよ」と、遥がげんなりとした表情を覗かせた。
「逆に嫌がらせだったなら?」
「馬鹿じゃないのって思う。自分を出汁にするほど価値があるとか思わないし。そんなのにデレデレしちゃう賢治くんも馬鹿だし、イライラしているあたしも馬鹿みたい。馬鹿ばっかりじゃない」
「そうだね」
「もう、そんな風に笑うからホントに馬鹿らしくなってきたでしょ。でもまぁ、ユキちゃんが聞いてくれたからちょっとは落ち着いたかも。ありがとう」
「そう言って貰えるなら嬉しい」
「あーあ」と遥が大きくため息をつく。
「これからどうしようかな」
「遥はどうしたいの?」
口をつぐみ、少しの間迷った様子を見せた遥は「それでも」と自分の気持ちを確かめるようにゆっくりと呟いた。
「賢治くんのことは好きなの。だから、もうちょっとだけ頑張って、あたしの気持ちを伝えてみる。それでわかってくれないなら、もう駄目かもしれない。岸は、今はどうでもいいかな。賢治くんと付き合い続けるなら、喧嘩しなきゃいけないかもだけど」
「わかった。遥が決めたのなら、それでいいと思う」
じゃあ宿題を始めようかと筆記用具を鞄から取り出すも、遥はニコニコとこちらを見つめたままだった。
「遥?」
「いや、いつもあたしばっか聞いてもらってるでしょ。ユキちゃんもなんかないの? 兄さんの愚痴とかさ。いくらでも出てきそうなんだけど」
「遥が勧めたんでしょうが」
「それはそれだよー。ね、どう?」
「そんな風に言われても。弘樹くんは遥のお兄さんとは思えないぐらい真面目でいい人だし、あんまりこぼすような愚痴はないかな」
「ホント、ちょっとでも隙を見せたらディスってくるよね」
「いやならやめるけど」
「遠慮してくるユキちゃんとかそれこそなんかヤダ。それよりホントないの? なんかつまないなー」
「つまんないってどういうことよ」
遥に笑って突っかかりながら、弘樹のことを考える。遥の言っていることは正しい。私だって彼に不満がないわけじゃない。
例えば、私は弘樹の箸の持ち方が気に入らない。握り込むような持ち方が幼稚に見えるから食事に行った時はなるべく弘樹の利き手を見ないようにしている。その癖は遥も同じで、きっと小さい頃から指摘されなかったのだろう。
けど、その欠点は些細なもので、トータルで言えば弘樹は私にはもったいないような優しい人だ。誰にでもあるような欠点一つを取り上げて貶めて、同情して欲しいなんてとても思えない。
恋人が浮気をしようとしているかもしれない。自分のことをわかってくれようとしてくれない。ひょっとすると別れるかもしれない。そんな悩みを抱えている遥に、こんな軽い不満をこぼせるわけがなかった。
「まぁ、ないならいいんだけど。でもなにかあったら言ってよね。あたしの兄さんだとか、そんなのは関係ないから」
「うん。なんだか、すごく気にしてくれてありがとね」
遥は少しだけ俯き、ためらいがちに口を開く。
「怒らないで欲しいんだけど、兄さんのことを話すユキちゃんってそんなに楽しそうじゃないなって、それがちょっと気になってて」
「――え」
言葉に詰まってしまった私をうかがうように遥が視線を向ける。
「あたしが無理矢理くっつけようとしたから、それでもし、いやいや付き合ってるなら、あたし――」
「違う、違うよ遥。遥がお膳立てしたからなのは間違いないけど、でも弘樹くんと付き合うって決めたのは私だもの。遥に遠慮して付き合い始めるなんて、私がそんなことすると思う?」
遥はホッとした様子で「だよね、ユキちゃんはそんなことしないよね」と小さく頷いた。
「だけど、一つだけ教えてもらっていい? 私、そんな心配をされるほど楽しそうに見えなかった?」
「……うん。二人きりの時は知らないよ。当然だけど。でも、あたしに兄さんのことを話している時は、あんまり楽しそうじゃなかった。なんだか――」
そこで言葉を切った遥は視線を宙に漂わせる。言いたいことは決まっているけど、肝心の言葉が出て来ないといった様子だ。少しの間、目を細めて空中を睨みつけていたが、やがてスッキリしたように「ああ、そうだ」と呟いた。
「腑に落ちないって感じの表情だった」
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