第8話

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 私と藤村弘樹が付き合い始めたのは、夏休みが明けたすぐのことで、それは他でもない藤村遥がきっかけだった。


「それでさ、賢治(けんじ)くんってば夏休みもあと三日で終わりってタイミングになって、宿題手伝って! なんて言い出すの。もっと早く言えばいいと思わない? 確かに期待の一年生レギュラーでさ、忙しいのはわかるよ。毎日遅くまで練習していたの、あたしだって知ってる。でもさ、ほとんど手を付けてないとか舐め過ぎだよ。第一マネージャーのあたしだって同じだけ部活に通っててちゃんと終わらせてるんだから、部活で忙しかった、なんて言い訳にならないのにさ。お陰でようやくデートできるって思ってたのに結局三日間勉強漬けだったし」

 夏休みが空けて二日目の昼休み。まだその余韻から抜けきれない私は目をこすりながら「大変だったね」となぐさめてやる。昼食のトレーは既に下げ、学食の白いテーブルに突っ伏しながら不満をこぼしていた遥は顔だけを私に向けた。

「すごく心がこもってないなぐさめに遥はいたく傷つきました」

「だって他人事だし」

「ユキちゃんが酷いこと言う。しかもなんか笑ってるし。ねえ、なんで笑うのー?」

 門野(かどの)賢治(けんじ)は遥がマネージャーを努めるサッカー部に所属する同級生で、唯一の一年生レギュラーだ。とは言っても、人数の少ない公立高校の部活だ。全員にやる気が満ちているわけでもなく、漫画であるような手に汗握るレギュラーの奪い合いがあったわけでもない。

 その門野と、遥は夏休み前から交際している。元々彼が気になってマネージャーになったらしいけど、しっかりとその目的を果たしたというわけだ。

「愚痴が止まらない割には、楽しそうだなって思って」

「そんなことないよ。夏休みにはディズニーとか行きたいねって言ってたのに、結局二人きりでカフェすら行けてないんだよ。部活帰りだと汗臭いし泥まみれだし、他の部員たちにだって冷やかされちゃうし。やっと二人で会える予定を組めたと思ったら、宿題が終わってないって、冗談じゃない。あたしがどれだけ楽しみにしてたか、なんにもわかってないんだよ」

 むすっとした表情で「あーあ」とため息をつく。

「そりゃあボール蹴ってる姿はカッコいいんだけどさ、あたしとしてはもうちょっとしっかりして欲しいわけ。あたしがいなかったらどうするつもりだったんだろうってホント、呆れを越して心配だもん。だーかーら、何で笑うのよ」

 やるせなさそうに愚痴を並べていた遥が、ふと思い出したように目を細める。

「ねえ、ユキちゃんにはいないの? 好きな人」

「うーん、別に今のところいないかな」

「えー、つまんないなあ。部活とかどうなの?」

「うちの手芸部、男の子いないし。うん、別に私は遥と違って好きな人目的で部活に入ったわけじゃないからそんな憐れむような目を向けないで」

「いやいやいや、まるであたしが賢治くん目的でサッカー部のマネージャーやってるみたいに聞こえたんだけど」

「えっ、違ってたの?」

「いや、間違っちゃいないんだけど…… なんか不純な動機みたいじゃん」

「不純な動機でしょ?」

「もう!」

 遥はプイとそっぽを向いたが、すぐにその横顔が面白そうに歪んだ。

「あたしの兄さんさ、烏丸(からすま)くんに似ていると思わない?」

「え?」

この子は急になにを言い出すのだ。遥の視線を追った先では弘樹が友人たちと談笑している。私たちが見ていることに気付いたのか、彼はニコリと笑って軽く手を振った。

 戸惑う私に向き直ると「いいからいいから」と身を乗り出して急かしてくる。

 烏丸くんというのは六人組の男性アイドルグループの一人だ。以前、遥を含む女子グループでこの六人の中で誰が好き? という話題になった。それほど興味はなかったけど、答えないと話が終わりそうになかった。誰かと被るのも面倒で、誰にも選ばれていなかった烏丸くんの名前を出しただけだった。

 さすがアイドルグループだけあって全員顔は良かったが、烏丸くんがどんなポジションなのか今でもよくわかってない。

 そんなこと覚えていたんだと、楽しげに顔を覗き込む遥を見つめ返す。どんな答えを期待しているか、簡単に想像がついた。

「いや、全然似てなくない?」

「えー?」

 私の連れない答えに遥がむすっと唇を尖らせる。

「友達の恋バナ聞きたいからって自分の兄を出汁にするかな」

「ばれてるかー」

「わかりやすい」

「でもでも恋人いたら楽しいよ?」

「順序が逆じゃない? 楽しいから恋人を作るんじゃなくて好きな人がいるから恋人になるんでしょ」

「うっわ、出た。理想論。そんなの言ってたら一生恋人出来ないよ? そんなしかめっ面してなきゃ可愛いのに」

「誰のせいだと思ってんの。第一、あれだけ愚痴られた後で楽しいよ、なんて言われてもねえ」

「とか言って、ユキちゃんめっちゃ笑ってたじゃん。どうせあたしの切実な愚痴をのろけだと思ってたんでしょ」

「まぁ、それはそうなんだけど」

「どう? あたしの兄さん。あたしが言うのもなんだけど、成績も悪くないし真面目だし、顔だってマシじゃない? それに、絶対ユキちゃんに気があると思うの」

「遥の言うことだしなぁ。まあ、この妹の兄にしちゃあ真面目だと思うけど」

「ユキちゃんのあたりがきつい」

 なおも遥が兄を持ち上げるので、渋々、道往く弘樹の隣を歩いている自分の姿を思い浮かべてみた。私の目の位置が彼の顎ぐらいだから少し見上げる必要があるだろう。視線を向けた先には遥によく似た横顔が待っている。男子にしては色白で細い顔立ちは、決して嫌いなタイプじゃない。日が沈みゆく頃に川沿いの道でも歩いていれば、きっとさぞ映えるに違いない。

 映画のワンシーンでそんな光景を見せられたなら、きっと幸せそうな二人に見えるはずだ。でも、そこに自分を当てはめてみた時に何故だか腑に落ちなかった。

「うーん、あんまりしっくりこないかな」

「そっかあ。ねえ、ユキちゃんって恋愛に興味ないの?」

「そんなことないけど」

 私だって男の子をかっこいいと思うことはあるし、恋愛ドラマや少女マンガで心を動かされることだってある。興味がないなんて言われてしまうのは心外だ。

「それにしたらさ、どこか一線引いているように感じるの。あたしらは花の女子高生だよ。十五才の夏も秋も一度切りなの。もっと明るくハッピーにいかなくちゃ」

 胸を張る遥は、確かに幸せに満ちあふれているように見えた。

「なら、遥は幸せ?」

「幸せだよ。賢治くんには言いたいこともたくさんあるけど、楽しいことだってたくさんあるからね」


「遥が余計なことを言ったと思うんだけど」

 私と目を合わせようともせずに、少しだけ頬を赤らめながら恐る恐るといった様子で弘樹が切り出したのは遥によるプレゼンが行われた翌日の帰り道だった。

この日は遥が一緒に帰ろうと言っていたので時間を合わせていたら、部活が長引いて遅くなるという謝罪のメールが届いた。先に帰っていてと書かれており一人で自転車置き場に向かうと、はかったように弘樹と鉢合わせた。いや、実際はかられたのだろう。勝手な気を利かされたらしい。

 一応弘樹に訊ねてみると、彼も同じように遥と待ち合わせていたようだ。あからさまなダブルブッキングだが、お互いに追及するのは気まずかった。

弘樹が自転車にまたがる気配がないので、私も仕方なく隣で自転車を押して歩く。遥と登下校をしていると弘樹が一緒になることも多く、家も近いので遥と一緒に勉強を見てもらったこともある。でも、このように完全な二人きりというのは余りなかったはずだ。

しばらく続いていた沈黙を彼は妹の話題で破ろうとした。彼の言う『余計なこと』とは昨日遥が口にした弘樹の秘めた想いのことだろう。

ただ、計算高いのにその場のノリで思ったことをすぐ口にする遥のことだ。彼女の『気がある』という発言をどのくらい信じていいかわからなかった。

弘樹の顔が上気しているように見えるのは、女子と――特に恋バナのような話を余りしたことがないことによる照れなのか、それとも別の理由からなのか。

「あー。うん。言ってたよ」

 私も、視線は正面に向けて何でもないように返す。

「あいつのことはよくわかってるだろ? 今回だっていつもの脳内お花畑なだけなんだ」

「うん、よく知ってる」

「そっか」

 お互い、大変だよね。そう言って、軽く微笑もうと思った。この話はこれでおしまい。恋愛脳な遥の気ままな暴走、それでいい。

 そのはずだったのに、脳裏で遥の様子がちらついた。彼氏との出来事を楽しそうに語る姿が、思考から出て行ってくれない。

 そこでようやく気付いた。私は、遥を羨ましく思っているんだ。

「ただね」と、言葉を続けていた。

 こんなつもりじゃなかったのに。

 弘樹のことは、友人の兄としか思っていなかった。上級生として勉強を教えてもらえたのはありがたいし、頼れる人だったけど、ドキリと胸が動いたことは、これまで一度もなかったはずだ。

 だから、なにもためらわず平常心で聞けると思っていたのに、言葉にしようとすると心臓が早鐘を打ち、彼の様子をうかがうことができなかった。

「先輩は、どうなのかなって。遥にそんな風に囃し立てられるのは、いやだったりしたのかなって」

「そんなことは――」

 ないんだけど、と続けられた言葉が尻すぼみに消えていく。とても弘樹の方を振り向けなくて、彼が今どんな表情をしているのかがわからない。それは、私を憎からず思っているからこそ出た言葉なのか、それともただ単に気遣われただけなのか。

 気まずい沈黙が降りてしまった二人の間を、残暑の風が吹き抜けていく。日は沈みつつあるけど、とても涼しいとは思えない。一つわかるのは、この頬の熱さはきっと気温のせいだけじゃない。

「嫌じゃ、なかったよ」

 今度はハッキリとした、力強い言葉だった。

「だったら、うん、嬉しいかな」

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