二章 その恋は腑に落ちない
第5話
1
学食に入ってすぐに視線を感じた。話の内容までは聞こえてこないけど、室内の一角からもれている甘ったるい囁き声は、目を向けなくたって楠木(くすのき)和美(かずみ)たちのグループだと想像がついた。
午後からは講義も、急ぐような課題もなくて気楽だったのに水をさされたようだった。
いい迷惑だったけど、仕方がない。ここで出て行っても余計に彼女たちを刺激するだけなのはわかっていた。
『あの子はあたしらを見て避けるように出て行った。きっと後ろ暗いことがあるからだ』
楠木はそんな話をするだろうと、思わずため息がこぼれる。私は諦めてカウンター前の列へと並んだ。
「ユーキちゃん」
後ろから肩を強めに叩かれて振り向くと、藤村(ふじむら)はるか遥のにこやかな顔があった。
明るく染めた茶色い髪に際どいミニスカート。化粧の為に剃っている眉はパッと見ただけではそうとわからない。煌びやかなネイルが窓から入り込む太陽の光を受けてキラリと反射した。
知り合いでなければ思わず物怖じしてしまいそうな派手な装いは、正直に言えば大学に相応しいとは思えない。けど、受講態度だけは良いから注意がし辛いと講師たちがこぼしているのを知っている。
『福多さんからも、もうちょっとだけ大人しくしてくれるよう頼んでもらえない?』
そんな風に頼まれたことも一度や二度じゃない。その度に私は「わかりました。でも期待はしないでくださいね」と笑ってやり過ごす。
彼らは勘違いをしている。
なにか一つでいいから大人たちが気に入るようなことを真面目に取り組んでいればいいの。そうすればちょっと羽目を外したって、注意するのを勝手に後ろめたく思ってくれるんだ。大切な秘密を明かすように、遥が昔こっそりと教えてくれた。あたしが楽しく生きるコツ、と笑いながら。藤村遥は強かだ。
もっとも、私にとっては周りになにを言われようが気にしない、自由気ままな彼女こそが遥なので、その話を聞いていなくても諫めようなんて思わなかっただろう。
高校生の頃は化粧をすれば子供がするものじゃないと叱られ、大学生になれば化粧ぐらいはちゃんとやりなさいとたしなめられる。その手のひら返しにため息をつくのは多くの女子が辿ってきた道だろうけど、高校生の頃から化粧を咎められ、大学生になってからも派手過ぎると言われている遥は、ある意味で一貫している。もちろん彼女が素直に従ったことは一度もない。
だから仕方がない、なんて話ではないけど、まともな就職ができないだとか、水商売でもやるつもりかと陰口を叩かれていたのを知っている。でも遥は就活が解禁されてすぐにアパレル店の内定を取ってきて周囲を黙らせた。彼女流の意趣返しであり、さすがと思う気持ちと呆れる気持ちが半々だった。
計算高くて派手好きな私の親友。
彼女のカラコンで大きく見せている瞳が私の顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? 難しい顔しちゃってさ」
言いながら周囲を見回した遥が口をへの字に曲げた。楠木たちの姿が目に留まったのだろう。
「あんなのはさ、気にしちゃ駄目なんだよ」
気遣わしげな視線を向ける遥に「うん、大丈夫」と曖昧に頷く。
陰口で比べるなら遥の方がよほどエグイことを言われてきたはずだ。そう考えると楠木とのトラブルはそれほど大したものじゃない。
「じゃあいいんだけど……」と遥は少しだけ目を伏せた。
私はコロッケ定食、遥はカレーライスを注文して窓際の空いているテーブルに向かう。私より後に注文したはずなのに、遥はさっさと歩いて行って先に座る。きっと、楠木たちが視界に入らないように配慮してくれたんだ。
席に着く前にチラリと様子を伺うと、楠木たちの食器は既にカラになっていた。だけど、しばらく居座りそうな雰囲気だった。
食べ終わったのなら早く出て行けばいいのに。そう思ったけど、わざわざ喧嘩を売りに行くわけにもいかない。遥にこぼしても、迷惑なだけで意味はない。
私たちが食べ終わるまでに出て行ってくれるといいな、そんな風に思いながら昼食に手を付けた。
他愛のない話を交わしながら箸を進めて、後数口といったところだった。遥の皿を突くカチャカチャという音が止まった。
視線を上げるとなにやら言いたげな様子で神妙な面持ちをしている。
「遥? どうしたの?」
普段なら思ったことをすぐに口にする彼女が、どうやら言葉を探している。珍しいことだった。
言いたいことがまとまったのか、彼女は小さく頷くと、ライスを乗せたままのスプーンを皿の上に置いて手を離す。カタンと音が鳴った。
「ユキちゃんにね、一つ話しておかなくちゃって思ってたの」
真っ直ぐに見つめてくる遥の視線を受け止めて「なに?」と答える。
「うん。こんなの聞かされたって迷惑かもしれないんだけど……」
遥はなおもためらったように言葉を引き延ばしたが、意を決したように今度は大きく頷いた。
「今度、兄さんが結婚するの」
考えてもいなかった告白に、思わず息を呑んだ。それから、ゆっくり「そう」と吐き出す。その動揺は予想外の話を聞かされたからなのか、それ以外の理由からだろうか。
「ごめんね。ユキちゃんにしてみたら、だからどうしたって話よね」
「いや……うん、別に。そっか、弘樹くんが。それは、うん、おめでとう」
どのように返せばいいのかわからなかった。動揺を悟られたくなくて努めて平坦な声を出したつもりだったけど、きっと大して隠せていなかったはずだ。
「ありがとう」
そう言ってから、遥はハッとしたように薄く笑った。
「違う違う。こんなやり取りがしたいんじゃないの。あたしはさ、今のうちにユキちゃんに聞いておきたいことがあったのよ」
「……聞いておきたいこと?」
「兄さんはなにも言わないけど、きっと引っ掛かってるはずなんだ。あたしだってそう。だから、理由を知りたいの。もし原因が兄さんにあるんだったら、結婚する前に知っておいた方がいいでしょ」
学食のテーブルに遥がぐいと身を乗り出した。
「ねえ、昔の話をほじくり返して悪いと思ってる。でも、教えてくれない? どうして兄さんはあんたに振られたの?」
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