第4話

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――あの日の私に言い返して。

 理沙の言葉を胸の中で反芻する。

 あの場をどうやって後にしたのか、まるで記憶がない。夏休みの補習が散々だったから、テストも結局すべてサボったのかもしれない。

 その次に思い出せるのは翌日の授業が始まったところからで、その時既に教室から理沙の姿は居なくなっていた。結局夏休みに入るまで一度も登校することなく、夏休みが明ければ三澄姉弟は公立中学に転校した後だった。どんな判断があったのかはわからない。山下の親族が三澄の娘を引き離せと学校に申し出たのか、理沙の父か親族が気まずいだろうからと理沙に転校を勧めたのか。争い事を嫌った学校側が理沙たちに退学を勧告したのか。そのいずれかであることは間違いないだろうし、もしかするとその全てが要因であるかもしれない。

 ただ、私にとっての動かない真実は、知らないところで私と理沙がもう一度話し合う機会を永久に奪われたということだった。あくまでもこの騒ぎは三澄と山下の問題であって、私はどこまでも当事者ではなかった。

「いいよ。あの日の続きをしよう。理沙の言葉に言い返せばいいんだね」

 理沙は安心した様子で小さく息をついた。

「そんなホッとしなくても。別に私、あなたが許せなかったわけでも、会いたくなかったわけでもないんだし。むしろ、理沙の方が私に会いたくないと思ってた」

「うん。そう思っちゃうのも仕方がないことを言ったと思う」

理沙が表情を曇らせたので「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」と慌てて言った。

「え?」

 訝しげに見つめられて、小さくため息をつく。

「だって理沙、成人式に来ていなかったじゃない。私、あなたと再会できるならあのタイミングしかないと思ってすごく探していたのに」

 仲直りをしたいのなら、連絡を取ればいい。携帯電話に連絡先は残っているのだから。そう思うのは簡単だった。けど、どんな言葉を尽くせば和解に至るのかまるでわからなくて、そもそも理沙はもう私の顔なんて見たくないのかもしれないと想像すると足がすくんでしまって、とても一歩を踏み出す勇気は湧いてこなかった。

 自ら機会を作れないのなら、偶然の出会いに頼るしかない。自分で連絡を取る必要もなく、自然に再会できる機会、それが成人式のはずだった。

 理沙はあっと言葉をもらすと額を抑えて俯いた。その首が小さく揺れる。

「そうだよね。そりゃそう考えるよね。ごめん、成人式は行かなかったんじゃないの。行けなかったんだ」

 だから別に、君に会いたくなかったわけじゃない、と理沙は申し訳なさそうに笑った。

「どういうこと?」

「幸恵もさ、成人しているんだから自分の住んでいる町の市長ぐらいは覚えておいた方がいいよ」

 そう言われても、なんのことだかわからない。

 ため息をついた理沙が「あの後ね」と続ける。

「父が死なせてしまった山下くんの父親の弟、彼にとっての叔父さんがその地盤を引き継いで市長になったんだよ。私の父自身は政治家ではないけど、いろんなところに影響力は持っていたからね。それが上手く流れ込んだみたい。同情票って声もあったみたいだけど、まぁそこから先に興味はないかな。ともかく、成人式には市長挨拶があるでしょ。どんな顔をして聞けばいいかわからないし、山下くんに鉢合わせるのもいやだった。さすがの私も気まずくて行けなかった、というわけ」

「全然気にしてなかった……」

 理沙は居ないだろうかと探すのに夢中で、市長が挨拶をしていたのかどうかもよく覚えていない。

 でもそっか、と理沙が微笑む。

「私を探してくれていたんだね。ありがとう、嬉しいよ」

「でもそれってさ、私に再会できる可能性よりも、山下くんに会いたくないって方を選んだわけでしょ。そこはちょっと悔しいって思ってもいいよね」

 少し拗ねた風に言うと「その点に関しては弁解のしようがない」と理沙は困ったように苦笑いをした。

「私、成人式で理沙に会えたなら一緒にお酒とか飲めたりするのかなって、ちょっとだけ期待していたんだから」

「それは悪いことをしたかな。……うん、今日は真面目に話したいし、まだ昼間だから難しいけど、また今度飲めるといいね」

 また今度。理沙の言った言葉が胸の奥に沈んでいく。私たちにまた今度があるのだろうか。あの日の理沙に言い返して、私たちはまた本音で殴り合えるようになるだろうか。

 理沙が煙草を始めた理由を聞ける日が来るだろうか。

 あの日の彼女に、私はなにも言い返せなかった。

 今の私は、どんな言葉を見つけられるだろうか。

 今の私は、あの頃目標としていた人間になれているのだろうか。

「あれ?」

 そう言って首を傾げた理沙に私は我に返る。怪しむような表情に「どうしたの?」と声をかけた。

「幸恵って確か早生まれだったよね。誕生日も成人式の一週間後ぐらいじゃなかった? 飲む気だったの?」

 咎めるような視線から目を逸らす。

「理沙がいなかったから飲んでないよ」

 なにも誤魔化せていない返答に、案の定「論点がおかしい」と言葉が飛んでくる。

「だよね。私もそう思った」

 正直に答えると理沙が目を丸くしてクスッと吹き出した。それを見て、私もなんだか笑いが込み上げてくる。

 こんな時間が、また何度でも訪れればいいのに。

 その願いが叶うかどうかは、きっと私の回答にかかっているのだろう。彼女はきっと遠慮の混じった答えなんて求めてない。それがどんな内容だったとしても、思ったことを真摯にぶつけることが正解のはずだ。

 ひとしきり笑って覚悟を決める。無駄話で時間を稼ごうとしていることは既に見抜かれているに違いなかった。

私は理沙の目を真っ直ぐに見つめて「今の私の言葉で構わないのよね」と最後の確認を取った。

「うん、お願い」

 そう言うと理沙も真剣な表情を作って私の視線を受け止めた。

「まず一つ、確認したいことがあるの。山下くんに憤ったことってある?」

「どういう意味かな」

「山下くんが理沙を責めたのは、理不尽だけど仕方がないと思う。私が同じ立場だったなら、責めずにいられると断言する自信はない。けど、理沙は違うと思うの。あなたなら、手術を失敗した医師と、その子供とは絶対にわけて考えるはず。あなたの理屈で言えば、山下くんの言動は絶対に間違っている。だから八つ当たりは仕方がないとしても、そうやって感情をぶつけられることには腹が立ったんじゃない?」

 あえてそんな聞き方をしてみたが、私は彼女が首を横に振ることを予想していた。

 あの時のことは、何度も何度も思い出し、考え直した。

 どうしてあんな別れ方をしなければならなかったのだろうと。

 そして、何年も前に私の中で一つの結論ができあがっていた。

「そんなことないよ」

 思った通り、理沙は否定した。

「それはどうして?」

 だって、と彼女は一度言葉を切った。胸に手を当てて私の疑問に答える。

「私の正義は私を律するためのものであって、誰かを否定する道具じゃないから」

 そうだよね、と私は頷き、コーヒーに口を付ける。

「初めて会った時から中学二年生のあの日まで、私はずっとあなたの隣を歩こうって努力してきたから、よくわかっているつもり。正義感が強くて、自分には厳しいけど、他人に強制はしない人。自分の意見や、なにを選択するかについて、自分自身で決めるんだって強い意志を持っているから、他の人もそうあるべきだと思っているんでしょ。誰かの意見に選択を委ねるんじゃなくて、自分で考えるべきだって」

「そんな風に言葉にされるのはちょっと気恥ずかしいんだけど」

 苦笑を浮かべた理沙に対して、私は表情を崩さず「けど」と彼女に突き付ける。

「そんなあなたに憧れていたから、私はきっと目を曇らせていたんだと思う」

すっと無表情になった理沙が「それで」と続きを促した。

「あなたが悪く言うから、私はその通りなんだろうって思ってた。だけどさ、自分自身の正義を妄信して、でも他人に強制しない。それってさ、理沙のお父さんも同じだよね」

 理沙は黙ったまま、私を見つめ返す。彼女に口を挟む様子がないことを確認して、その先を口にする。

「理沙と理沙のお父さんは、主張は全く違うかもしれない。でも、二人の考え方そのものはあまりにもそっくりで――」

 ここからは、憶測の域だ。けど、考えてしまったことならば、言わなければならない。テーブルの上に置いた手のひらを握り締め、意を決する。

「だから、理沙のお母さんは出て行ったんじゃない?」

 言葉を切って、そっと様子を伺う私に、理沙は少しだけ微笑んだ。

「遠慮しないでいいよ」

 ホッと胸を撫で下ろし、握り締めていた拳から力を抜く。この短い間に汗が滲んでいたのか、手のひらがべっとりとしていて気持ち悪かった。

「理沙は頼ってもらえなかったことが悔しいって言ったけど、あなたのお母さんにとっては違ったんじゃないかな。父親から軽んじられることを悔しいと言い、いつか認めさせてやると自分を律して努力を続けるあなたは、小さな頃はきっと頼もしい女の子に見えていたと思う。でも、その考え方の根本が父親に似ていると気付いてしまった時、あなたは頼もしい娘から得体の知れない娘になってしまったんだ」

 これは証拠なんてないただの推測だ。

 けど、私には覚えていることがある。初めて会った時の、彼女の言葉。

――私にもなにを考えているかよくわからなくて。 

 よくある親子間の無理解だと思っていた。でも、それはどこまで本気の一言だったのだろう。

初対面の、娘が連れてきた友達にこぼしてしまうほどだったのか。

 ただ、私の推測が的を射ていたのだとしても、子供を捨てて男と出て行くのはどうかと思う。

「この可能性に理沙も気付いていたんでしょう。多分だけど、あの日私に言葉を投げ付けた時には既に。もしお母さんの出て行っちゃった原因が理沙にあるのなら、手術が失敗した原因も、そのせいで父親が折れてしまったことも、全部理沙のせいだよね。だったら、あなたの壊したかった父親の価値観が、知らないところで壊れてしまったとしても、仕方がないって諦めるしかないじゃない。その八つ当たりを私にぶつけるなんて、いい迷惑だ」

 絞り出すように吐き捨てた言葉に不安がなかったわけじゃない。怒らせるかもしれないとも思ったし、なにより言っていて心が痛かった。けど、彼女の友人でいたいなら、言わないという選択肢はなかった。

 聞き終えた理沙はゆっくりと眼鏡を外し、目頭を押さえる。「ごめんね」と潤んだ声がもれた。

 自分の中に強固な正義感のある理沙は、自分が原因かもしれない事柄で友人に当たってしまったことが許せなかったに違いない。それがしこりとなって、新しい目標を見つけようと、前を向こうとする彼女の時を止めてしまっていた。取り除くには、私に直接責め立ててもらうしかなかったんだ。

 私は理沙にハンカチを手渡しながら「古い話だから、気にしなくていいよ。それよりも私は、こうして理沙とお茶してられることが、とても嬉しい」となぐさめる。

「……うん。ありがとう」

「それに……理沙の言ったこと、そんなに間違っているとも思っていないの」

「――え?」

 理沙が目を丸くした。ハンカチがテーブルの上に落ちる。

「私はやっぱり幸せなんだろうし、それは羨ましいって思われる。いい迷惑だけど、仕方がないんだ。それとは逆に、幸せな私は誰かを羨んだり、妬んだりしてはいけないんだよ」

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