第3話
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別れの季節は? と問いかければ多くの人は春と答えるだろう。けど私の場合のそれは、いつだってうだるような暑さを伴っていた。
中学二年生の時に経験したその別れも、未だ鮮明に覚えている。
「うーん。幸恵、ここは使う公式間違えているよ」
「え、どこ?」
七月の第二週。期末テストの真っ最中だった。初日のテストが終わったばかりの私たちはブレザーを着たまま喫茶店に腰を落ち着けて必死に問題集や過去問と対峙していた。
中学生になった理沙は大きく身長が伸びた。それは内面の気高さが外見にも及んだようで、私は彼女を見ているとよくドラマに出てくる女優を思い出す。
その女優が宝塚の男役出身ということを私は母に教えてもらった。関西出身の母は学生時代、彼女のファンだったらしく『何度も劇場に足を運んだの』と懐かしさに想いを馳せるような遠い目をして、娘の隣でかつて憧れた人をブラウン管越しに眺めていた。
男役と聞いて、理沙が男装するならきっと映えるだろうと思い浮かべた。やってみて欲しかったけど、この成績じゃちょっと言い辛い。
無理矢理志望校のランクを上げて、おそらくギリギリの点数で紫苑学園に滑り込めた私には遊んでいる暇なんてなかった。
けど、どの教科も平均点以下の赤点スレスレだって構うものか。理沙が例え学年トップを争う成績だとしてもそれを遠い世界だなんて思わない。私は彼女の隣で歩くのだと、気合を入れる。
「あー、そっか。そういうことか。うん、ありがと」
わかったならよろしいと、理沙は自分のノートに目を落とす。
「っていうか、私にばっかり構って理沙は大丈夫なの」
「君と一緒の方が私だって捗るんだよ」
その言葉の意味を十秒程考えた。
「待って、すごくひどいことを言われた気がする」
誰かに教えることが、最も効率のいい学習方法だと聞いた覚えがある。でも、それは私が理解していないっていう前提だ。
そんなことないよ、と理沙が笑ってはぐらかす。
「それは冗談だとして、これでも私、幸恵が憧れてくれているの嬉しいんだよ。小学校の時は、ほら、友達が少なかったから」
理沙が少しだけ頬を染め、ノートを覗き込むように俯いた。
「あー、もう! 今のは忘れて。ちゃんと勉強しよ。このままの成績じゃ内部進学できないよ」
「はーい」
理沙に友達が少ないというのは、昔も聞いた話だ。あの時はどうしてだろうと不思議に思ったけど、今なら何となく想像がついてしまう。
彼女は将来の目標に真摯に向き合っていた。進学するための普段の勉強に加え、父親の書斎から医療系の専門書を引っ張り出してきては読み耽っていた。縫合の練習になるから、と手芸の趣味があることを教えてもらった時には少し引いた。
そのストイックさを、彼女は他人に求めない。
事あるごとに不真面目な態度を注意し、自分の真面目さを他人にも求める子が私の同級生にはいた。意見があった時には頼もしいけど、少しでもズレてしまえば容赦なく責められる。特に男子には煙たがられていたように思う。真面目さという点では理沙と彼女は似ているかもしれないが、理沙の方が徹底して他人に無関心だ。
真面目で口うるさくない女の子。だから、最初は付き合いやすく感じる。でも時間が立てば立つほど無言のプレッシャーがのしかかる。彼女はこんなにも自分を律して努力しているのに、お前はどうだ? 彼女がなにも言わないことに甘えてだらけているのではないか? そんな自問自答に襲われ、やがて居心地が悪くなる。
本ばかり読んでいてつまらない、偉そうにしていて生意気だ。真面目だった同級生が叩かれていた陰口を私も聞いたことがある。理沙も似たようなことを言われた経験はあるはずだ。そんな子たちとは、理沙は最初からタイプが違う。けど、彼女と同じように真面目で、大人しくて、本が好きな同級生だっていただろう。似たようなタイプの子と、どうして友達になれなかったのか。
彼女のそばで勝手にきまりを悪くして、離れていったからではないか。
理沙と一緒の中学校に行きたいと私が望んだ時だって、勉強の手伝いをしてはくれるけど、私に努力を要求することはなかった。それは、勉強をしなさいと言われるよりも、よっぽど息がつまりそうだった。なにも言われないからこそいつでも逃げ出せる。向き合う相手はいつだって自分の弱さ。
だからこそ、今こうして気軽に勉強しなさいって言って貰えることがたまらなく誇らしい。理沙は自分を律することのできる人にしか、命令形を使ってはくれないのだから。
「高校かぁ。少なくともそこまでは理沙と一緒に頑張りたいよね」
「大学とか、将来どうしたいか、とかはまだ考えていない?」
「考えないこともないけど、なにも思いつかないって感じかな。理沙はどうせ東京の医学部でしょ。うーん、私も東京には行きたいかなぁ」
「まぁ、その先はゆっくり考えればいいんじゃない。君はまず内部進学ができるかどうかってところだから」
「うぅ、痛いところを付くなぁ。あ、そう言えばちょっと気になっていたんだけど……」
「なに?」
「医者を目指すって言った時、反対はされなかったの?」
「どういうこと?」
「理沙のお父さんってさ、男の子だから後を継いでもらわないといけないって、弟くんの教育に熱心なんだよね。じゃあ女の子に学歴は必要ないとか、結婚して家を守るのが幸せだって考えてそうだなって」
「うーん、多分そう考えていると思う。実際、父と母の関係はそんな感じだし。基本的に職場に籠りっぱなしでほとんど帰って来ないから家のことは全部母任せ。そのくせ、家庭としての決断は全部父がするって感じかな。母も受け入れているみたいだけど、私だったら絶対に耐えられない。ただ、押し付けはしないんだ。理人のことも同じで僕の後を継いでくれると嬉しいとは言うけれど、医者になれって言っているところは見たことがない」
「あ、そうなんだ」
少しびっくりして口を挟むと理沙が「うん」と頷いた。
「でもね、医者になって後を継ぐことが理人の幸せだ。そんな風に考えているのはそばで見ているとすごくよくわかる。あの人は怒ったりもしないんだ。理人がちょっと悪い成績だった時『今習っているところは難しかったのかな』って気遣うように言っていたの。理人はビビっていたよ」
想像して、理人くんには申し訳ないけど笑ってしまう。確かにそれはちょっと怖い。
だから、と理沙は寂しげな表情を覗かせる。
「私のことだって、そうしたいなら勝手にすればいい。それで幸せになれるとは思わないけれど。そんな風に考えていると思うんだ」
なにか言葉をかけたいと思って、でも思いつかなくて頭を悩ませているうちに「あ、ちょっと待って」と理沙が携帯電話を取り出していた。
「家からだ。母か、理人かな」
ごめんねと断って、携帯電話を開く。どうやら相手は弟くんのようだ。電話口から漏れ聞こえる理人くんの声は、どこか慌ただしかった。それを聞きながら、理沙が少しずつ眉をひそめていく。なにかあったのだろうか。
電話を終えた時には、彼女の表情にはハッキリと焦りの色が浮かんでいた。
「ごめん、幸恵。今日は帰ってもいいかな」
「そりゃもちろん構わないけど、なにかあったの?」
理沙は少し逡巡する様子を見せた。ほとんど空になったカップに視線を落とす。
言いたくないなら構わないよ、と声をかけようとしたところで「母が」と理沙は呟いた。
「母が……出て行ったって」
「それで、大丈夫なの。こんな寄り道をしていて」
テスト二日目の放課後。昨日と同じように私たちは喫茶店でノートを広げていた。
昨日の電話直後に見せた深刻そうな表情こそ今は浮かんでいないけど、私にはそれがから元気のように思えていた。
「まぁ、私が家に帰ったところでなにができるわけでもないからね」
「そっか」
理沙がそう判断するなら、私が口を出すべき問題じゃない。そんなことはわかった上で、どうしてもテスト勉強に身が入り辛かった。
理沙が、長いため息をつく。
「もう! 気になるなら聞けばいいよ。明らかに集中できてないし」
「え、でも……」
「幸恵なら気にしないから。そうやって微妙に遠慮されている方が気持ち悪い」
逆に気を遣わせてしまったのかもしれない。心が落ち着かないのは理沙の方であるはずなのに。そう思うと自分が情けなくなった。
その代わり、と理沙が俯いた私の顔を覗き込む。
「聞きたいことを聞いたなら、ちゃんと集中すること。いい?」
「……うん、わかった」
頷いて、私は気になっていたことを口にする。
「理沙は、大丈夫?」
訊ねられた理沙は、ハッとしたように小さく息を吸い込んだ。
「……理沙?」
「いや、ごめん。私が邪推し過ぎてたみたいだ。てっきり母が出て行った理由の方が気になっているかと思ってた」
「そりゃあ気にならないって言えば嘘になるけど、お母さんが出て行っちゃった理沙のことが一番気になる」
「私は、大丈夫だよ」
声が、震えていた。そのことに理沙自身が驚いているようだった。黙って見つめていると、理沙は観念したように首を振った。
「嘘をついたつもりはなかったんだ。なんというか、言葉にした途端に自分の感情がわからなくなって」
いつもは遠い目標を見据え、その場にいるだけで周りの雰囲気さえ引き締めてしまう彼女の、そんな弱弱しい表情は見たことがなかった。
既に冷め切っているコーヒーへと手を伸ばし、まだなにか言葉を探している理沙を待つ。
私の動きを視線で追っていた理沙が「もしかしたら幸恵は聞きたくないかもしれないんだけど」と重い口を開いた。
「男を作って出て行った。それだけのよくある話なんだ」
絞り出された言葉についさっきの会話を思い出す。
『気になるなら、聞けばいいよ』
いつもと同じ、勝ち気なひとことに聞こえた。けど、ひょっとすると彼女は吐き出したかったのかもしれない。聞いてもらいたかったのかもしれない。
子供を置いて男と出て行くなんてありえないよね。
辛いことがあるなら、私で良ければ吐き出してね。
パッと頭に浮かんだ二つの返答は、どちらも納得がいかなかった。もし私たちの立場が逆だったなら、彼女はどんな言葉をかけてくれるだろう。
考えたら自然と唇が動いていた。
「理沙は、お母さんが出て行ったことに対して、どう感じているの?」
彼女のまとう空気がふっと和らいだように思えた。
「そうだね。やっぱり、腹は立つ。でも、同情もしていると思う」
「同情?」
「多分、原因は父なんだ。お金に困ることもなく、院長婦人っていう地位もあって、家事だって大変な時には家政婦さんを呼べばいい。母の生活はそんな感じで、誰が聞いても憧れると思う。けど、私はいやだって思ってた。だってそんなの、自分が必要とされていないみたいじゃない。でもきっと、それが父の考える幸せなんだ。母はよく耐えれるなって思っていたんだけど、本当はいやだったんじゃないかな」
ゆっくりと言葉を確かめるように、頷きながら紡いでいく。
「……うん。ありがとう。頭の中がぐちゃぐちゃだったんだけど、お陰で整理できた」
「そう。なら良かった」
「もう少しだけ、付き合ってくれる?」
「もちろん」
「私、どうしたいのかな」
「お母さんに戻ってきて欲しい?」
「……どうだろ。正直、恨み言の一つでも言いたい気分だけど、父からの扱いに耐えかねて家を出たのなら、私に戻ってきてほしいなんて言う権利はないと思う」
「こんな時ぐらい子供らしく駄々を捏ねればいいのに。損していると思うよ」
「仕方ない。こういう性格なんだ」
「逆に、戻ってきたらどうする?」
「……なんだか幸恵、私に似てきたんじゃない?」
それは私にとって誉め言葉だ。つい、顔がにやけてしまうのを止められなかった。
そんな私に苦笑まじりの視線を送りつつ「戻ってきたら、か」と声を落とした。
「そうだね、受け入れられるかどうか。私たちを捨ててまで逃げ出すことを選んだのなら、それを貫いて好きに生きればってのが正直なところかな」
「そっか。うん、お父さんはなんて言っているの?」
すると、理沙はいい気味だと言わんばかりに少しだけ白い歯を覗かせた。
「ちょっと意外なんだけど、落ち込んでいるんだ。もっと怒り狂って二度とあの女の顔を見せるな、ぐらいは言い出すかなって思っていたんだけど」
「確かにちょっと意外」
「多分なんだけど、母が自分に逆らうという状況を父は考えたことがなかったんだ。自分が妻を幸せにできていると思っていたんだよ。理想的な女の幸せを与えてやれていたはずなのに、なにがいけなかったんだって考えているんだと思う」
「弟くんは?」
「理人? ちょっと荒れているね。思春期の男の子だし、母親が男と駆け落ちだなんて複雑な気持ちだと思う」
自分も思春期の女の子なのに、それを棚に上げてそんなことを言う。
「私には、理沙だって割り切れていないように見えるけど」
理沙が苦々しげに口をつぐんだ。けどそれも束の間で、呆れたように鼻を鳴らすとすぐに乾いた笑い声を力なく上げた。
「いや、ちょっと……私自身もこれは気付いていなかったかもしれない。そっか、私……」
「ねぇ理沙、あなたはどうして欲しかったの?」
続けてきた質問を、少しだけ言い直す。
「私は……きっと相談して欲しかったんだ。父からの扱いに耐えられなかったのなら、まず私に相談して欲しかった。私は今も父に反抗しているし、そのことは母だってわかっているはずなのに。女の幸せを勝手に決め付けられて悔しい思いをしているのは私も母も同じなのに、よりにもよって男を選んで出て行くなんて。そんなに私は頼りなかった? どうして私を味方として選んでくれなかったの。それが、そう、私は悔しいんだ」
吐き出すだけ吐き出した理沙はそこでようやく憑き物が落ちたように、けど寂しそうに微笑んだ。
珍しく落ち込んだ様子を見せた理沙に、なにかできることはないだろうか。帰り道、最寄り駅が二駅手前の理沙を見送って、沈みゆく夕日を窓越しに眺めながら考える。
太陽が山に遮られ欠けていた。それを見た時、旅行に誘おうと唐突に思い浮かんだ。来週を乗り越えれば夏休みだ。海に誘おう。蓮実市は山ならいくらでもあるけど、海に行こうと思えば県外に出る必要がある。それぐらい遠くへ行って、一度なにもかも忘れてしまえるといい。
その日のうちに両親に相談すると、理沙の父親が許可を出すのであればと快諾してくれた。両親の理沙に対する評価はすこぶる高い。私が勉学にやる気を出すきっかけを作ったのだから当然とも言える。そんな彼女が心を痛めていて、私がなにかしてあげたいというのなら、反対するはずもなかった。
理沙の父親に関しては問題ないはずだ。彼女から聞いた話を総合すれば、自分の思想や考えを正しいとは信じているけど、押し付けたりはしない人物。支配的な価値観でいて、支配的な行動はとらない。理沙が行くと言ってくれれば、きっと強引に止めたりはしない。
彼女の父親について考える時、どうしても思い出されるエピソードがあった。
紫苑学園中等部での、入学式のことだ。平日に行われる入学式に出席してくれる父親はそれほど多くない。その中で私の父は出席してくれるタイプの父親だった。
式が終わり母と、彼女に寄り添うように立っている父の二人と少しだけ話をしていると理沙がやってきた。母は会ったことがあるけど、父は写真でしか見たことがないはずで、理沙のことを紹介する。ああ君が、と声をもらした父は「娘が世話になっているようでありがとう」と大袈裟に頭を下げた。そんな父が恥ずかしくて、理沙の手を取ってその場を離れる。
「いい両親だね」
「人前であんなこと、やめて欲しいんだけど」
口を尖らせた私に理沙が笑う。晴れやかな日なのに、元気のない笑い方だった。
「……理沙?」
そこでようやく彼女の父親が来ていないことに気付いた。
「あ、ほら。私のお父さんが大袈裟なだけだよ。普通父親なんて来ないって」
「そうかな。来年もそうだといいんだけど」
私の励ましにも理沙は自嘲するだけだった。来年? と口の中で繰り返し、あっと声が出そうになる。来年には理人くんの入学式がある。
それから一年が経った入学式で、高級そうなスーツを嫌らしくなく着こなした長身の男性が理人くんと話しているのを見つけて、私はなんとも言えない気持ちになった。
男性の切れ長の目が、悲しいほどに理沙によく似ていた。
いつの間にか理沙が隣に立っていることに気付いたけど、私は彼女の目を見ることができなかった。
理沙は一年前の会話を続けるように「ほらね」と皮肉まじりに呟いた。
あの時のことを思い返せば、父は私に興味がないと語る理沙の言葉は単なる思い込みとは思えない。だからきっと、旅行ぐらいないなら気にしないに決まってる。
それに、もし許可が降りなかったら。それはそれで構わない。あのはねっ返り娘ならこれまでなかった父親からの干渉を励みとするに違いない。
どうせなら理沙と一緒に海へ行きたいけども。
自室で過去問を解きながら、何度も旅行のことを考えていた。どちらに転んでも理沙を励ますことができると、自分の提案に自信があった。すぐにでも理沙に伝えたくって、リビングにある携帯電話を思い浮かべてしまう。紫苑学園に入学して電車通学が始まるから緊急事態の連絡用で買ってもらったものだ。よっぽどのことがない限り家の中では使わないというルールを決めている。
一応理沙の電話番号やメアドも入っているから、どうにか使わせてもらえないか、少しだけ悩んでみたけどやっぱりやめた。旅行のお願いをした手前あまりルールを破るのは良くないし、旅行の話をしていたからテストの点数が悪くなったと思われるのもいやだった。それに、やっぱりこういうのは直接会って提案したいものだ。
翌日は朝から心が弾んでいた。でも、まずは期末テスト最終日を乗り切らないと。悲惨な点数だとせっかくの旅行がお通夜になってしまう。
「おっはよー」
それでも高揚を抑えきれず、明るい挨拶と共に勢いよく教室のドアを開いた。「この人殺し」という怒鳴り声が私の耳に飛び込んできた。
「――え?」
ドアを開けたままの手が固まってしまって動かない。「ヒトゴロシ」という音が「人殺し」という言葉に変換される。その非日常な言葉に動揺し、思考がストップしてしまう。
一体、どういうこと……?
そこで、ようやく私が一切注目されていないらしいと気が付いた。どうやらあの怒鳴り声は私に向けられたものではないらしい。思考が追い付き、ホッとしたのも束の間だった。
険悪な空気の教室で理沙が視線を集めていた。後ろ姿から彼女の表情は伺えない。その理沙に対し、顔をグシャグシャにした男子生徒が向かい合っていた。理沙と同じ蓮実第一小学校出身の山下(やました)くん。理沙や私と同じ塾に通っていた一人だから、私も彼のことはよく知っている。
今にも飛びかかりそうな山下を、他の男子生徒がハラハラと見つめている。実際に飛びかかれば取り押さえると思うけど、あんな暴言を吐いているのに注意一つしない態度に腹が立った。
二人の間でなにがあったのかわからないけど、それでも言っていいことと悪いことがある。
「ちょっと山下くん。今のは――」
「父さんを返せよ!」
詰め寄ろうとした私には目もくれず、山下は怒鳴り散らす。
「理沙がなにしたって言うのよ」
二人の間に割り込んで山下と睨み合う。散々泣き倒したようにまぶたは腫れていて、その奥に覗く目が血走っていた。
「福多には関係ないだろ。引っ込んでろ」
「関係あるよ。友達だもん」
山下に負けないように叫び返す。彼の表情が苛立ったように歪んだ。
「三澄の腰巾着が生意気なんだよ」
「は?」
思わず胸倉を掴んだ私の肩を山下が逃れるように強く突き飛ばす。尻もちをついてしまった私の姿に「ちょっと山下落ち着けよ」とようやく声が上がり始める。
引き離された山下の姿に胸を撫で下ろし、理沙の様子を伺うために顔を上げて振り返ると彼女が教室を飛び出したところだった。
慌てて立ち上がり彼女を追いかける。クラスメイトの女子が「福多さん、あのね」と声をかけてくれたが、気にかけている余裕はなかった。
廊下に出ると既に理沙の姿が見当たらなかった。狼狽えそうになる心を抑え付けて、彼女が走り出した方向へと急ぐ。足音が聞こえて視線を向けると、三階への踊り場で身を翻している彼女を見つけた。その後を追う。運動はそんなに得意じゃないけど、この時ばかりは必死だった。階段を一段飛ばしで駆け上がり、視界に出たり入ったりする理沙を見失わないように懸命に足を動かした。
階段を登りきった理沙が飛び出したのは屋上だった。彼女を追って、七月の直射日光に肌をさらす。全力疾走してきたせいで息が上がっている。理沙に声をかけたくても、背中が丸くなるのを止められない。膝を抑えて呼吸を整える。吹き出した汗が雫となって額から地面に吸い込まれていった。
喉がカラカラに乾いたけど、水筒なんて持ち合わせていないことに気付く。早く教室に戻ろうよ、そう口に出そうとして視線を上げる。
転落防止用の二メートルはありそうな金網を両手でつかんだ理沙がただ真っ直ぐに「あーーー」と大きく叫んでいた。
なにを吐き出せばいいのかわからない。けど、叫ばずにはいられない。まさに絶叫といった様子だった。
そのまま力が抜けたように金網に背を向けて座り込む。
理沙があんな風に感情をむき出しにするところを初めて見た。あっけに取られながら彼女に近付いた。
「理沙、テスト、始まっちゃうよ」
私の言葉にも理沙は無反応だった。
ため息をついて彼女の隣に腰を下ろす。一限目は音楽のペーパーテストだ。主要五教科ではないし、最悪サボっても構わないか。私にとってはなによりも理沙が最優先だ。
「ねぇ理沙、なにがあったの?」
理沙がしばらく迷いを見せてから、私の方へと顔を向けた。その眼鏡の奥にはいつだって力強い光が宿っていたはずで、私はそれを当たり前だと思っていた。彼女もこんなに弱弱しい目をすることがあるのだと、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚える。
父がさ……と、彼女は小さく呟く。
「手術を失敗したんだ」
「――え?」
「難しい手術ではあったんだ。でもそれは父の専門分野の手術で、父なら成功させられるはずだった。母のことで動揺さえしていなければ」
「えっ、もしかして、それが……」
理沙が頷く。
「山下くんの父親だよ」
さっきの山下の表情を思い出す。
「……でも、そうだとしても、理沙が責められるのはおかしいじゃない」
「そうだね。私もそう思う。けど、じゃあ君は私に八つ当たりした山下くんに、それはいけないことだって言える?」
「それは……」
成功するはずの手術が失敗して父親が亡くなったのなら。
その執刀医の娘が同級生なら。
恨み言の一つでもぶつけたくなるかもしれない。
「なんだかさ、どうでもよくなっちゃったんだ。ねぇ、山下くんの父親さ、何の仕事をしているか覚えている?」
「確か、蓮実市の市議会議員じゃなかったっけ」
政治家である父親の権力を笠に着るという程ではないけど、父親の職業は彼の自慢だった。理沙とは違う目的で、彼は父親と同じ職業を目指していた。
「うん。多分父はこれで終わりだと思う。ほとんど一族経営みたいな病院だったけど、それでも一応市立病院だからね。院長なら安心だと任された手術で市議会議員の先生を死なせてしまえば、院内政治を生き残れっこない」
「理沙……」
「あの人、これからどうするのかな。母に逃げられて、生き甲斐だった一族の病院を失って。父の価値観は、きっともうボロボロだ。いやだな。それは私が壊したかったのに」
無関心な父に認めさせてやりたいという理沙は、確かに父の失脚なんて望んでいなかったはずだ。長く支えにしてきた目標を失って、彼女は今心が折れかけている。
けど、今は少し落ち込んでいたとしても理沙はきっとめげたりしないはずだ。だって、私は知っている。理沙は歩みたい道を、自分で見つけられるんだから。
「理沙だったらすぐに新しい目標も見つけられるよ。私じゃ頼りないかもしれないけど、力になれることがあるなら手伝うから」
だって理沙は、私の憧れだから。続けようとしたその言葉に「幸恵には……」と理沙が声を被せる。
「ん?」
「幸恵には、わからないよ」
「……え?」
なにを言われているのか理解が追い付かなかった。こわばらせた表情で理沙が私を睨みつけている。
「私が、どれだけあの人に認めて欲しかったか、幸恵にはわからない。私の気持ちなんて幸せな君にはわからない」
今度こそ彼女の言葉が胸に届き、耳を塞ぎたくなった。なにか、とても大切なものが、心の中で割れたような音がした。
一限目を示すチャイムの音がまるで違う世界から鳴り響いてくるように遠くに聞こえた。
「どうして……」
そんなことを言うの? 口にしようとした言葉が掠れて消える。
「私、君が羨ましいんだ。妬ましいんだ」
理沙の叫びがナイフのように私の心に突き立てられる。
「私は父に関心を持って欲しかった。女の子だからって私を軽んじたことを後悔させたかった。母にはそんな父に対抗するための仲間として頼られたかった。でも、私にはなにも残らなかった」
頭の中が真っ白になる。なにか言い返すだなんて、この時の私には考えられなかった。
「入学式に夫婦揃って来てくれる両親がいて羨ましい。君のことを考えて中学受験を勧めてくれることが妬ましい。愛されていて幸せそうな君が、恨めしい。それは、私には絶対に手に入れられないから。ねぇ幸恵。私、君が羨ましいよ」
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