第2話

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 小さな頃から小説や漫画が好きだった。物語に出てくる彼ら彼女らは私になにも求めず、必要な時に手をのばせばいつだって寄り添ってくれた。

 私にとって三澄理沙とはそんな小説のような存在で、中学生だった時の親友だ。

 私たちが知り合ったのは、小学四年生の夏休みだった。


 その日の私は少しばかり機嫌が悪かった。中学受験のために通うことになった、塾の初日だったからだ。

受験自体は頑張ろうと思っていた。言い出したのは母でも、やると決めたのは私だ。でも、そのためにせっかくの夏休みが塾で潰れると思うとすぐにいやな気持ちが押し寄せてきた。

まずは体験入塾から、と母は言っていたけど、こういう時はいつの間にか『体験』の二文字が消えているものだ。お年玉とおんなじで。

「頑張ってね」

 母の声には返事をせず、むすっとしたまま車を降りる。私の年齢がもう少し上だったら、この時の気持ちを諦観と表現したかもしれない。

 目の前にそびえ立つマンションを軽く睨み付ける。母の見つけてきた塾はこのマンションの二階フロアにあった。二階に住居スペースはなく、塾のような習い事に貸し出されている。例えば、火曜日の昼は主婦たちのヨガ教室として。この塾を母が知ったのも、そのヨガ教室に通っているからだ。

 階段を上り恐る恐るドアを開けると、事務机に座っていた女の人が手を止める。プリントに付けられた赤い丸が見えた。大学生ぐらいのお姉さんだけど、採点をしていたのならこの人も先生なのかもしれない。彼女が笑って私を迎え入れてくれた。

「福多(ふくた)幸恵ちゃんかな?」

「あ、はい」

 初めて会う大人の人に、少し緊張して思っていたほど声が出なかった。「はい」という返事は尻すぼみになり、そのことがなお恥ずかしくて俯いてしまう。

 お姉さんは小学生のそんな反応に慣れているのか、特に気にした様子もなく「こっちだよ」と席を立つ。私は慌てて彼女の後についていった。

 教室では男子三人、女子一人が席に着いていた。四人とも知らない顔で、おそらく別の小学校なのだろうと少しホッとする。母はこのことを知っていたのだろうか。

「隣、どうぞ」

 どの席に座ればいいんだろうと困っていた私に、女の子が声をかけてくれた。知らない人たちばかりで緊張していたけど「ありがとう」と声を絞り出して席へ向かう。

 銀縁メガネをかけた女の子はそれ以上の興味が私にないのか、テキストへと視線を落とす。せっかく隣に呼んでもらえたのに、なんだか気まずいなと思いながら腰を下ろそうとして、あっと気付いた。

 女の子の袖先に小さなフリルの付いた半袖のシャツも、チェックのスカートも、きっとキッズ用のブランド物だ。雑誌で見ていいなと思ったことがある。

「どうしたの?」

 見つめられていると気付いた彼女がテキストから私に向きなおった。

「あ、その……あなたの服が気になって」

誤魔化しながらも聞いてみると、やっぱり雑誌に載っていたものだった。

「正直母の趣味なんだけど、好きだと言ってもらえるのは悪くないね」

 かわいらしい服装からは想像し辛い大人びた口調に、改めて彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。メガネの奥に見える切れ長の目と、それに良く似合ったショートカットの黒髪が目に入る。そのファッションとは対照的に、かっこいい表情の女の子だった。

 これまで私の周りにあまり居たことのないタイプだと思った。

「あっ、自己紹介まだだったよね。私、福多幸恵。よろしくね」

「私は三澄理沙。よろしく」

 友達になれるかな、という期待が沈んでいた気分を少しだけ和らげた。


「医者になる」

 理沙からそう聞いたのは、塾に通うようになって四、五回目のことだった。理沙の志望校は県内トップの私立中学で「何か夢があって目指しているの?」と訊ねてみた。

 『なりたい』ではなく『なる』という断言から、彼女の強い決意が感じられた。

「あ、思い出した」

「どうしたの?」

「ひょっとしてさ、三澄さんのお父さんってお医者さんじゃない?」

 問われた理沙は不思議そうに首をひねった。

「そうだけど、私が医者になるって言っただけでそう思ったの?」

「そうじゃなくて、三澄さんのお父さん、市立病院の院長先生だよね。私あそこで生まれたらしくて小さい頃何度も通ったんだ。院長先生の写真とか名前とか、ロビーに書いてあるでしょ。なんだか気になって『この人はどうして名前が書かれているの?』ってお母さんに聞いたのを思い出したんだ。その時にミスミって読み方も教えてもらった気がする」

 それに、と付け加える。

「ミスミって何だか蓮実(はすみ)市(し)と似ていると思わない?」

 私たちの暮らす街の名前が蓮実市だ。ミスミとハスミ、漢字は全く違うのに音が似ていると幼い頃の私は結び付けて覚えていた。そのことも同時に思い出す。

 へぇ、と理沙が呟いた。面白そうに唇を緩ませている。

「案外間違っていないんじゃないかな。私の家は昔からこの土地で医者の家系だったみたいだし。苗字を作った時に土地の名前をもじったのかもしれないよ」

 今度は私が首をひねる番だった。

「苗字を作る?」

 江戸時代の頃は侍以外には苗字がなかったんだよ、と理沙が胸を張って答えた。歴史の授業は六年生からだったから、私は素直に感心して頷く。

 そう言えば、と理沙はなにかを考えるように私を見つめ直す。

「うちの病院で生まれたって言っていたよね。でも福多さんの家の近所には他にも産婦人科があったんじゃない? わざわざうちの病院にまで来たの?」

「なんだか、ものすごく難産だったらしくて。小さい頃通っていたのもそういう理由」

 答えて、それから「でも、そっかぁ。三澄さんはお医者さんになりたいのかぁ」と言ったら「違うからね」と釘を刺すように理沙が口を尖らせた。

「え、なにが?」

「やっぱり、お父さんに憧れたの? とか言いそうだったもの」

 胸の前で握っていた両手を、思わず背中に隠す。理沙にはばっちりと見られていた。

「まぁ、言おうとしてたかもだけど、違うの?」

「目指す理由ではあるんだけど、憧れてるわけじゃない」

 どういう意味だろうって考えていたら「弟がいるんだけどね」と理沙が切り出した。

 理沙の志望校は小中高の一貫校であり、彼女の一つ下の弟はその小学校に通っているそうだ。公立小学校の姉と、私立小学校の弟。それだけを聞いた時、どんな関係の姉弟を思い浮かべるだろう。

「どうして私たちは同じ学校じゃないのって、聞いたことがあるの。父はなんて答えたと思う?」

「えっと、女の子だから?」

 答えたものの、小学生の私にはあまりよくわからない感覚だった。上の世代になればなるほど、そういった考えの人が多いのは何となく理解している。けど、教室を見回してみればふざけて授業を妨害するのはいつだって男子たちだ。大人の仕事というものが勉強を頑張った先にあるのなら、彼らが真面目な社会人になれるとは思えない。

「うーん、ちょっと違うかな。理人(りひと)は――あ、弟の名前ね――理人は男の子だから、できるならお医者さんになって僕の後を継いでもらいたいんだ。だから、お受験させたんだって」

 理沙がギュッと拳を握り締める。

「父は仕事一筋で、祖父から受け継いだ病院を守ることが大切だって思ってる。そのことは全く構わないし、私も後継ぎになりたいとか、そこまでは考えていないんだ。でも、その流れに最初から無視されているのって腹が立たない? 女の子に生まれたってだけで。そんなの、悔しいじゃない」

 もし彼女の立場なら、私はそれを悔しいと感じるだろうか。弟がいて、弟だけが受験をさせてもらっていたとしたら。確かに、私には関心がないのかなって、悲しい気持ちになるかもしれない。

「……あれ、待って? じゃあひょっとして、受験をするって言い出したのは三澄さんからなの?」

 医者を目指すなら中学受験した方が良いと勧められたわけじゃなく?

「そうだよ。この塾だって自分で探してきたんだから」

 あっさりとした理沙の頷きが信じられなかった。親に勧められるまま受験を決めて、惰性で塾に通っている自分がとても子供じみているように思えた。三澄理沙という同い年の女の子がとても大人っぽく見えた。かっこよかった。

 将来どのようになりたいかなんてまだなにも考えられないけど、彼女のようになってみたいと、そう思い始めていた。


 理沙の家に案内されたのは、八月の中頃だった。ちょっとわかりにくいところがあると相談すると、じゃあ塾のない日に一緒に勉強をしようと、理沙に誘われたのだ。

 彼女に聞いた道順を助手席で伝えながら、母に送ってもらう。途中で蓮実第一小学校の横を通り過ぎた。確か理沙と、同じく塾に通っている男子三人が第一小学校だと言っていた。

 蓮実市は人口の集中している中央部に四つの小学校があり、蓮実第一から第四に別れている。そのうち第二から第四までの生徒は蓮実中央中学校へと進学し、私が通っているのもその内の第三小学校だ。第一小学校だけは蓮実市内北部の小学校と合流し、蓮実北中学校へと進学する。

 塾に通っていなければ理沙とは出会っていなかったし、二人とも受験をしていなかったとしても進学する中学は別だった。

 そう考えると、なんだか不思議な縁を感じる。私が彼女と知り合えたのは運命なのかもしれない。

 理沙が教えてくれた道順の最後の角を曲がると、正面に大きな家が見えた。あの家だろうか。車から降り、三澄と書かれた表札を確認してから、門の脇にあるインターホンを鳴らした。

 コンクリートの一軒家は想像とは少し違ったけど、こんなにも大きな家を見るのは初めてで目が離せなかった。ここに住むというのはどんな気分なのだろう。

 玄関が開き、門の外に私を見つけた理沙がかけよってくる。

「福多さん、待っていたよ。ごめんね、本当は私が行きたかったんだけど。友達の家に行きたいって言ったら母が驚いちゃって。それなら一度うちに呼びなさいって」

「驚くって?」

「あー、まぁすぐわかると思うよ」

 理沙にしては珍しく歯切れの悪い返事だった。

 さっき理沙の走ってきた庭を、今度は二人で歩いて向かう。玄関と門の間には十メートルぐらいの距離があり、ゆっくりと見渡せる時間があった。

 庭に目を向けるとよく手入れされた植物がいくつも植えられていた。コンクリートの家とは対照的で、こういうのを味わい深いと言うのだろうか。

「無駄に大きいよね。目立つからちょっと恥ずかしいんだ」

 再び家へと視線を戻した私に理沙が言う。振り向くとはにかんだような笑顔があって少し新鮮だった。塾では見られない彼女の一面に私の口も軽くなる。

「確かに大きいんだけど、なんていうか、三澄さんの家っていいところのお家なんだよね」

「自分でそうだって言うのはちょっと抵抗があるけど、そう言われているみたいだね」

「だから私、日本家屋のようなものを思い浮かべていて」

 理沙がポカーンと口を開けていた。どうやらなにを言われたのかわからなかったらしい。「えっと、つまりね」と、取り繕うとしたところで、理沙が口元を隠して俯いた。

 笑われた、ということに気付いてムッとする。

「名家って日本家屋ってことじゃないの?」

抗議のつもりで口にしたが、自分でもおかしいことに気付いた。理沙も「そんなことないんじゃないかな」と可笑しそうに言った。

「少なくとも、この家は私が生まれる前からこんな感じだよ。昔の話なら、日本家屋だった時代もあるかもしれないけどね」

「そっか。……うん、なんだか、変な思い込みがあったのかも」

 だよね、と理沙がまた笑う。

「お邪魔します」と言って家に上がると、理沙の母親らしき人が奥からかけてきた。

「いらっしゃい。えっと飲み物はなにがいいかしら? 紅茶でいい? おやつはお菓子があるけれど」

 ソワソワと落ち着きのない様子で言う姿は、いつでもツンと澄ました様子で冷静沈着を装っている理沙とはあまり似ていないように思えた。

 うんざりした様子で理沙が言う。

「母さん、適当でいいよ。私は福多さんと部屋に行っているから」

 はあいと気の抜けた生返事を寄越す理沙の母を横目に、私は理沙についていく。会話だけを聞いているとどちらが大人であるかもよくわからない。

 階段を上り、理沙の部屋に案内される。女の子っぽい部屋ではないだろうと想像していたけど、犬やクマのぬいぐるみがベッドの上に転がっていて少し意外に思う。

 でもそれ以外は飾りっ気がなく、水色の絨毯に青いレースのカーテンを通じて太陽光を取り入れた彼女の部屋はとても落ち着いた雰囲気だった。

「つまりはまぁ、そういうことなんだよ」

 小さな丸テーブルの前に座りながら言い訳をするように理沙が言う。彼女の前に座って「なにが?」と聞き返した。

「私が友達の家に行くって言ったら驚かれた理由。さっきも慌てていたでしょ。本当に来るとは思っていなかったんじゃないかな」

 思い返してみると、確かに少し慌てていたようにも思える。

「でも、どうして?」

「母は私に友達がいないと思っているんだ」

 その言い方は彼女らしくないと思った。まだ一ヶ月弱の付き合いだけど、それぐらいならわかるようになっている。黙って見つめ返すと「君にはかなわないな」と観念したように苦笑いを浮かべた。

「友達があんまりいないのは事実だし、誰かの家に遊びに行ったことも来てもらったことも少ないからね。低学年の頃はともかく、今ではめっきりだよ」

 子供っぽくない言葉遣いで、他人にあまり興味を見せないから冷たく見えるかもしれない。けど私は彼女といるのが心地よかったから、遊びに来るような友達が誰もいないというのはよくわからなかった。

「嫌われてるわけじゃないんだよね」

「そう思っているけどね」と理沙は力なく笑った。

しばらく話していると、理沙の母親がやってきてテーブルの上に飲み物とお菓子を乗せたトレーを置いてくれた。

「福多さん、でしたよね。良かったら理沙ちゃんと仲良くしてあげてね。この子、友達も少ないし、私にもなにを考えているかよくわからなくて」

 もういいから、と理沙が母親を追い出す。こういった親子の関係は理沙も普通の子と変わらないのだな、と微笑ましくなった。

 理沙の母親が運んできてくれた物は確かに紅茶とお菓子だった。でも、私が想像していたようなスナック菓子じゃなかった。

 スーパーじゃ売っていなさそうな和菓子で、一口食べてみると、あまり覚えのない新鮮な味で美味しかった。デパートになら置いてあるのかもしれない。今度母にねだってみようと心に決める。

 一緒に出してくれた紅茶は和菓子によくあった。和菓子でかわいたのどに、心地よく沁み込んでいく。

「ペットボトルの紅茶とは全然違うね」

「母が好きなんだよ。ティーバッグならたくさんあるからもらってあげようか? 正直、私は好きでも嫌いでもないんだ」

 いいの? と声が弾む。理沙が笑って頷いた。

 それからしばらく課題とにらめっこして、少し休憩している時に「ねぇ」と彼女に呼びかけた。

「私、紫苑(しおん)学園(がくえん)を受けたい。難しいかな?」

 理沙はびっくりしたように目を丸くして、それから微笑んだ。

「どうして難しいなんて考えるの? 私たちの受験にはまだ二年もあるんだよ」

「そうだよね。今から頑張れば、可能性あるかな」

「そもそも、三澄さんはどうして紫苑学園に行きたいと思ったの?」

 そんなの決まってる。理沙ならわかっているはずだ。それでも訊ねてくるのは、私の口から答えを聞きたいと思ってくれているからだろうか。

 紫苑学園は三澄理沙の志望校だ。彼女の目を真っ直ぐに見つめ返して、私は答える。

「あなたと同じ中学に行きたいと思ったの」

「どうして私と同じ中学に行きたいと思ったの?」

 どうして? どうしてだろう。友達だから、なんて理由じゃきっと理沙は納得してくれない。

「私……三澄さんのことをかっこいいって思ったの。同い年なのに将来の目標がしっかりとあって、そのために全力で頑張れるあなたに憧れちゃったんだ。三澄さんの隣で歩いていけるようになりたいって」

 答えながら私はなにを言っているんだろうと頬が熱くなり、俯いて、声が尻すぼみになっていく。でも、理沙は表情を崩さずに最後まで聞いていてくれた。

「そっか。憧れちゃったのか。なら仕方ないよね。頑張って」

 頑張って。『一緒に頑張ろう』でも『じゃあ頑張らないと』でもない。その突き放したような物言いは聞きようによってはとても冷たく聞こえるかもしれない。けど、そうじゃないことを私は知っている。

 私に言われたからじゃなくて、君自身が決めたんだから、頑張りなさいよ。これはきっとそういう意味だ。私が裏切る対象があるとすれば、それは理沙ではなく自分自身の言葉に対してだ。

 そうなったら私は彼女の友達じゃいられない気がした。

 私は、強く頷いて答える。

「うん、頑張る」

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