私は幸せに恵まれている
榊
一章 彼女が煙草を始めた理由
第1話
1
喫煙室のガラスを隔てた向こう側に見つけた三澄理沙(みすみりさ)の姿はとても様になっていた。かわいいでもなく、きれいでもない。記憶にあるのと同じようにかっこいいという印象だ。
ノースリーブの白いブラウスに紺色のフレアスカート、シンプルな装いはその身長の高さも相まって遠目からでもスタイルの良さがよくわかる。
長い指で挟まれていた煙草が唇から離れる。吐き出された白い煙が部屋の中に広がり、私が来たことを知らせるようにコンコンと窓ガラスを叩く。
理沙がこちらを向いた。私の視線に気付き、彼女が頬を緩める。煙草を灰皿に押し付けて、喫煙室の扉を開いた。
待ち合わせの時間にはまだ十分ほどあったはずだけど、いつからそこに居たのだろうか。近付いてくる彼女に、それほど煙草の臭いは染み付いていなかった。
隣に立った理沙を私は見上げる。靴の厚みを引いても180近くはありそうだ。男子を含めてもクラスで四、五番目だった中学生の頃よりもさらに伸びている。
そう、最後に会ったのは中学生の時だった。あれから何年も経っている。ただ、それだけの月日が経って、背が伸びて、化粧を覚えて、煙草を始めたとしても、私には彼女だと一目でわかったし、彼女もすぐに私だとわかってくれた。そのことがたまらなく、胸の内が熱くなる。
抑えきれない感情が目からあふれようとして、でもそれを堪えて彼女と向き合う。かけたい言葉は山ほどあったけど、久しぶりの再会にどのような言葉が相応しいのか、まるでわからなかった。
それはお互い様なのかもしれない。私たちは黙り込んだまま見つめ合っていたが、気まずくはなかった。テスト対策のため、二人で黙々と課題に向き合っていた時の感覚を思い出していた。
「幸恵(ゆきえ)、久しぶり」
心地よく感じていた沈黙を先に破ったのは理沙の方だった。
さっきまでの時間を名残惜しく思いながら「うん、久しぶり」と彼女に返す。良かった、と胸をなでおろす。
彼女の微笑みからも、声音からも、最後に会った時のような険悪さはなかった。
どうして私を呼び出したのか、理由はまだ聞かされていない。会話が始まれば、それをいやでも知ることになる。再会を喜ぶだけではすまないかもしれない。
ただ、好ましくない感情で呼び出されたわけじゃ無さそうだった。
「もしかして待った?」
「ううん。幸恵が来る前に一本吸っておこうかと思っただけ」
「そっか」と答えながら改札口に向かって並んで歩き出す。
待ち合わせ場所は、私たちの通っていた中学校の最寄り駅だった。卒業してから利用したことはなかったけど、駅というものは数年くらいじゃ印象は変わらないようだ。成長した理沙に感じたものとは違う懐かしさを背にしながら、私たちは改札を抜ける。
「煙草吸うんだ」
「うん」
理沙の答えはそれだけで、私もそれ以上聞くことができなかった。
私の知る理沙は煙草なんて吸っていなかった。当時は中学生なのだから当たり前だ。いつから吸い始めたのだろう。
ふと、昔一度だけデートに付き合ってやった男のことを思い出した。顔は悪くなかったが、煙草臭いのがどうにもいやでその後が続かなかった。あの男は自分の趣味に女を付き合わせたがるタイプで、当然のように私にも勧めてきた。すでに嫌気が差していて受け取らなかったけど、後に女性が煙草を始める理由の多くは男絡みだという話を聞いて妙に納得したのも覚えている。私には無理だったけど、ああいうのが好きだという気持ちもわからないではない。
その話がどれ程信頼できるのかわからないけど、理沙もひょっとしてそうなのだろうか。
私の知っている三澄理沙という女性は、誰よりも自分に厳しく、強い自己を持っていて、自分の道はどんな手段を使っても自分自身で選ぼうとする人だった。
そこに気高さのようなものを感じていて、煙草を吸っていてもそのイメージは変わらなかった。ニコチンを摂取するように吸っていたあの男とは違う。
けど、もし彼女が煙草を始めた理由に男が絡んでいるとしたら? そんな風に考えたらなんだかすごくいやだった。
どうして煙草なんて始めたの?
彼氏に誘われて、なんて答えを想像すると、その簡単な質問がどうしてもできなかった。
私の中の勝手な理想であることはわかっている。でも、それがまた壊れる姿を見たくはなかった。
「どうかした?」
悩んでいるように見えたのかもしれない。理沙の気遣ったような声に「ううん、何でもない」と慌てて答え、心を落ち着かせた。
改札を出た私たちの足は自然と同じ方向へと向かう。事前に相談はしていないけど、中学時代の最寄り駅で待ち合わせたなら行き先は決まっている。
駅前の商店街に入り、角を曲がる。見えてきたのは個人経営の小さな喫茶店。中学生だった頃、私と理沙が勉強をするためによく入り浸っていた店だ。中学生の小遣いでは何度も注文をすることはできず、いつもコーヒー一杯で粘っていた。今から考えれば迷惑な客だったに違いないが、そんな二人を店主はなにも言わず見守ってくれていた。
思い出の店の前に立つ。外観こそ少し古びたような気もするけど、無くなっているわけでもなく、何処かのチェーン店に乗っ取られているわけでもない。相変わらずの店名でそこにあることに胸が少し暖かくなった。
あの頃のようにドアを開くと、懐かしい内装が視界に飛び込んでくる。
いらっしゃいませ、と紳士的な声をかけてきたのは四十代から五十代くらいの男性だった。カウンターには彼一人。私たちが入り浸っていた当時の店主は初老を過ぎていたような気がするし、髪にも白いものが目立っていたはずだ。あの親切な店主は既に引退したのだろうか。カウンターの中にいる彼はひょっとするとあの店主の息子かもしれない。そう考えてみると、どことなく面影があるようにも思えた。
空いている席を探そうとして、置かれていたプレートに目が止まった。理沙が「どうしたの」と覗き込んでくる。
『禁煙席』『喫煙席』と書かれていた。それぞれのエリアを分けるように逆向きの矢印が一緒に描かれている。
「昔はなかったよね」
「そうだね」
些細な変化から時代の流れを感じていた。いつかはこのプレートもなくなって、完全に吸えなくなるのだろうか。
吸わない人間として歓迎していた風潮だったが、友人が吸っていると知って急に気になってしまうのだから身勝手な話だ。
「どうする?」
訊ねながら喫煙席へ視線を向けると、スーツ姿の男性が二人くつろいでいた。外回りの営業マンが休憩でもしているのか。灰皿はまだきれいな様子だから、これから吸い始めるのかもしれない。
私の視線を追った理沙が「幸恵は吸ったりする?」と聞いてきた。
「吸わない」
「じゃああっちの席でいいよ」
禁煙席を指差した理沙に「いいの?」と聞き返す。
「正直、私も人の煙は苦手なんだ。それにさっき吸ってきたからね」
歩き始めていた理沙が小声で答える。喫煙者の勝手な理屈に笑いそうになった。私だって喫煙席に座りたいわけじゃなかったから、その言葉に甘えることにする。
今は九月で、まだまだ暑さの残る季節だけど、私たちはあの頃と同じようにホットコーヒーを注文する。缶コーヒーならともかく、喫茶店で飲むならホットの方が通っぽいと信じていたあの頃が懐かしい。
けど、そうやってコーヒーをちびちびと飲みながら勉強をしている時間が私は好きだった。自分が少し大人びたようで――その考え方こそ子供じみていると今では理解できるが――同級生なのに自分より遥かに大人びている理沙に近付けるようで、好きだったのだ。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ理沙が、カップを皿の上に置いて口元を手で隠した。どうやら笑っているようだ。
「理沙?」
「いや、あの頃は子供だったなぁって」
「理沙も?」
不思議に思っていると、理沙がゆっくりと店内に目を向けた。
「こうして喫茶店に入って、苦いコーヒーを飲んでいれば、少しでも大人に近づける気がしていたんだよね。それを思い出したらさ、ちょっと笑えてきて」
少しでも早く大人になりたいと背伸びしていた女の子と、そんな彼女が大人びて見えて憧れていた私と。なるほど、これは確かにマヌケな話だ。私はつられて頬が緩み、二人してひとしきり笑い合った。
もうこんな日は来ないと思っていなかったから、この時間が奇跡のように嬉しい。
ただ……
不意に自分の表情から笑みが遠のくのを感じる。
「ただ、理沙が昔を懐かしむためだけにわざわざ私を呼び出したとは思えない。なにかきっと理由があるはずだ、かな」
理沙はまるで私の考えを読んだかのように言った。私は驚き、それから呆れた。そうだ、理沙はそういう子だった。
「だって。あんな気まずい別れ方をしたのに、こうして連絡を取ってくるというのは、つまりそういうことでしょ」
「まぁ、そうだね。うん、はっきりさせておこうか。私が幸恵に会えて懐かしいと思っているのは本当だし、できれば仲直りしたいとも思っている。けれど、今回君に連絡を取ったのは全く別の理由。これでいい?」
「うん」
理沙は曖昧な言葉で物事を濁さない。建前のために嘘をつかない。それが例え相手を傷付ける言葉だったとしても、いつだって本音で話してくれる。
だから私は、彼女を信頼できる。
「なら、その別の理由ってなに?」
理沙は視線を私から外すと「少し、悩んでいるんだ」と小さくこぼす。
「私の夢って覚えている?」
「もちろん。医者になることでしょ」
理沙の実家は私たちの地元では資産家であり、中でも彼女の父親は市立総合病院の院長だった。市立と名称に入っているものの、遡れば戦前から関りがあるらしく事実上の一族経営に近い。
けど、理沙が医者を志す理由は、そんな父の背中に憧れてといった微笑ましい話ではなかった。
「悩みって、それに関する話? もしかして、お父さんのことが関係しているの?」
「間接的には、って感じかな」
「確か、院長から降ろされて病院も辞めちゃったよね」
「うん。その後は特になにもしていないかな」
「働いてないの?」
理沙は頷く。「資産があるから困ることはないし」と語る彼女の瞳からは、怒りも呆れも、軽蔑も感じられなかった。
「理沙はどうして欲しかったの?」
少し考えた理沙は窓の外に視線を向けて「わからない」と小さく呟いた。
「私、今のあの人になにを望んでいるのかな」
理沙の父親が立ち直っていないのだとすれば……
私には少しだけ話が見えてきた。
「ひょっとして、どうして医者になりたいのかわからなくなっちゃった?」
理沙の父親を一言で言い表すなら古い人間だ。医者として、経営者としては優秀だったかもしれないが、家長主義的で男尊女卑、それを正しいと思って生きてきた男性だ。
そんな父親への意趣返しのために、理沙は医者になることを決めた。
来年の話になるんだけど、と理沙が話し始める。
「医学部は五年生になると実際の病院での臨床実習が始まるんだ」
「あ、聞いたことある」
医療系のドラマで観たか、あるいは小説で読んだか。確か、医者としての進路を決めるために様々な科をめぐる実習だったはずだ。
聞いてみると「それであってる」と理沙が言った。
「どういう医者になりたいか、考えないといけないんだ。でも、私は誰かを助けたいと思ったわけじゃないから。もちろん、いろんな人がいるから同じような人もいるけどね。持て囃されたいって人もいるし、稼ぎたいって人もいる。誰かの期待に応えたいという人も。だけど、そんな目標さえ今の私にはなくて。ただ父に認められたかった。考え方を変えてもらいたかった。なのに……
うん、だから君の言う通り、医者になるための理由を私は見つけられていない」
「…………」
言葉を探そうとした私に「違うよ」と理沙が苦笑いを浮かべる。
「私は幸恵になぐさめて欲しいわけじゃないんだ」
大丈夫、なんとかなるよ、そんな言葉を拾って来てはなにかが違うと捨てていた。考え方が間違っていたのだとようやく気付く。
「そもそもね、父のことは関係ない。理由や目標を見失ってしまったのは確かに父が原因だけど、私にとっての問題点はそこじゃない。昔君が言ってくれたように、失くしてしまったのなら、新しく見つければいいのだから。けれど、なかなか見つけられなくて。それで、じっくり自分の気持ちを見つめ直して気付いたんだ。見つけられないんじゃなくて、そもそも見つける気がない。私の時間はあの時から止まっていたんだって」
「あの時って……」
「幸恵と最後に会った時のこと。あれをどうにか清算しない限り、きっと私はこれ以上進めない。だから、なに勝手なことを言っているんだって思われるかもしれないし、軽蔑されたって仕方ないんだけど、思い出して欲しいんだ。私がこの世界のなにもかもがいやになって君にまで当たってしまった日のことを。あの時、私が君に投げ付けた言葉を」
思い出して欲しいなんて言われるまでもなかった。忘れたことなんて一度もない。
「考えて欲しいの。あの日、君は私の言葉になにも言い返さなかった。けど、きっと私は反論を求めていたんだ。勝手だよね。でも、幸恵が許してくれるなら、お願い。あの日の続きがしたい。今の君の言葉で構わない。あの日の私に、言い返して欲しいんだ」
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