051

 階段の前に久美はいなかった。


 先程、僕が抱きつかれた、階段のふもとの、水道栓の前の座標には彼女はいなかった。


 そこから、売店前のベンチで女子数人の中に紛れているのを視認した。


 正確に言えば、視認する前に久美を含めた女子数人の盛大な笑い声によって、久美の存在に気付かされたのだが。


 どうして女子の声はここまで通るのだろう。たまに拍手混じりの爆裂したような笑い声が聞こえてくる。とても交りがたい雰囲気だったが、久美と約束してしまった以上、不意にする訳にもいかない。


 それはね、流石に駄作ださい。


 調理室前の廊下を通り過ぎて、「やあ」と声を掛けた。


 売店前のベンチには、久美と道着姿の綾伽と……あと一人知らない女の子がけらけらと笑っていた。


「あ、ゆーくんおかえりー、あたしカフェオレね」


「あたしはバナナミルクでいいぞ」


「じゃあ私はいちごミルクで」


「へいへいわかったよ……ってお前誰やねん」


「わあ、典型的なノリ突っ込み巧いですね。さすが白石くんだ」


「いや、この程度の話術で巧いも何もないだろう。て言うかきみ誰?」


「あすちゃんだよ。縦絲たていとあすちゃん」


「あ、正確には縦絲たていと明日あしただ。みんなあすちゃんと呼んでいる。長いしな、あしたって名前」


 そんな長いかー? と僕が心の中で突っ込みを入れたところで。


「私、縦絲たていと明日あしたと言います。調理部です。久美ちゃんや綾伽とかとクラスは違うけど、まあ有体ありていに言えば仲良しなんです」


 仲良し。確かにあの笑い声は本物の仲良しなのかもしれない。


 僕は自販機の前へ。


「ええと、普通のバナナミルクといちごミルクでいいのか」


「ああ、できればらくのうマザーズのほうでお願いします」


 注文の多い女の子だった。


 カフェオレもコーヒー(僕が飲もうとした)も全部らくのうマザーズで買おうと思っていたから、らくのうマザーズの自販機に千円札を突っ込んだ。


 まず、カフェオレ。


 ゆっくりと円形の針金が回転しながらカフェオレが落ちてくる。


「ほい」と僕は久美の側のベンチにカフェオレを置いてやった。


「サンキュ」


 次にゲスト扱いの縦絲さんのいちごミルク。


 ゆっくりと円形の針金が回転しながらいちごミルクが落ちてくる。


「どうぞ」と縦絲さんのベンチの側に置いてやった。


「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀までしてくれた。


「綾伽、バナナ売りきれなんだけどどうする」


「はー? じゃあいいよコーヒーで。コーヒーなら死ぬほど余ってるんだろ」


 死ぬほどねえ……。


 表現がガサツに思えたが、こいつだから仕方がない。


「ああ、めっちゃ余ってる」


「じゃあそれで」ぶっきらぼうに綾伽は答えた。


 ゆっくりとした回転でコーヒーが落ちてくる。


 僕はこの際だから自分の分のコーヒーも買っておこうと思った。だから、始めに買ったコーヒーは僕の手の中に、ゆっくりと落ちていくもう一つのコーヒーを待つ間、ずっと握られる羽目になった。


 二つ目のコーヒーが落ちてきた。


 僕はお釣りを拾おうと屈んだ。


 ときに。


 がっちりと腕を掴む感触を受けた。


 筋肉がぴりっときた。どういう握力しているんだこの手は。


 びっくりして振り返ると、分かっちゃいたが、綾伽だった。


「多分、綾伽が想像している以上に力が加わってると思うんだ。お釣りの蓋を開けたまま手が固定してる」


 あ、えっと、すまん、と綾伽は握力を緩めた。


 握力を緩めるなんて女子に使う表現なのか否か。


「い、いや違うんだ。あたしはコーヒーを取りに来ただけで」


 そんくらい分かっとるわ。


 まさかお釣りを貰いに来るなんて、そこまで常識外れの人間なわけがないだろう。


 僕は二番目に買ったコーヒーを綾伽に渡した。


「い、いやそっちは由人のだ。ほら久美、あすと順番に買っていて、そこで私をとばすとなると、ほら、レディーに失礼ではないか」


 お前の口からレディー⁈


 とは口が裂けても言えなかった。


 多分、言った頃には僕の顔面はらくのうマザーズの自販機にめり込む羽目になるだろう。


「こっち、少しぬるくなってるけどいいのか? 今買ったほうが冷えてると思うけど」


「いや、い。むしろそっちの方じゃないと嫌だ」


 そこまで言うのなら。


 僕は、体温で少し温くなってしまったほうを綾伽に手渡した。


 いつかのバスケットボールのお返しだ。ぐりぐりと綾伽の手に押し付けてやった。


「……ありがとう」


 半拍はんぱくほど間があったような気もしたが、気にめるほどの誤差でもないだろう。


 やっと買い終わって、ベンチに戻っていった。


 縦絲ちゃんは、得意料理が目玉焼き(本当に調理部なのか?)とか。


 久美が次に演奏するベースが八本指が必要な話とか。


 僕の後輩が、見えないものが見える超能力的な力を持っていること(バラしてやった。イケメンかっこつけキャラへの当て付けだ)とか。


 他愛もない話が延々と続いた。


 一同笑い終える頃には、太陽さんは役目を終えようとしてた。


 午後六時から七時までの時間感覚は、一日のなかで最速だ。


 あっという間に校舎の中は薄暗くなっていた。


「そろそろ帰ろうか」僕がなんとはなしに言った。「そりゃそうだ」と綾伽が言って、女子会+1(ワン)はお開きとなった。


「久美ちゃんと由人くんは一緒に帰るんだよね」と縦絲ちゃんが訊いてきた。


「うん。今日はその予定」と久美が返す。


 このゆっくりとした雰囲気の中で。


 不意に。


由人ゆうと、由人、最後に……」


「いや、大丈夫だ」


 僕は綾伽の続きを遮った。


「その件なら、太一たいちからもう話は貰ってる」


 そう言って、僕は彼女の声を遮ったのに。


 それでも。彼女は続きを述べた。


「……そうだ。謝りたいんだ。謝りたいんだ私として。太一とは別で、いや、太一と同じだが」


「ありがとう。でももう大丈夫だ。心の整理もついてるし、どちらかと言うと感謝するべきことだと、本気で思ってるよ」


 嘘にならないように僕は早口で言った。


 それでも。


「ほんとうに、すまない」


 彼女は謝り続けた。


 頭を下げて。


 歯を震わせて。


 声を戦慄わななかせて。


「大丈夫だって」


 久美がそう答えた。


 久美に答える資格はあるのか……? と思ったが、その久美の声を聞いて綾伽は、やっと顔を上げた。


 目が潤んでいた。


 顔を上げたと同時に、一粒涙がこぼれた。


「ありがとう。由人も久美もありがとう」


「綾伽泣いてる。私びっくり」


 縦絲ちゃんがきょとんとして言った。


「そうだな、あたしらしくもなかったか」


 綾伽はまた笑った。


 にっこりとしたいい笑顔だった。


 笑ったときにもまた、ぽたぽたとすうてき涙が零れ落ちていった。


「じゃあ、またな」


「ああ、また会うときまで」


 僕はそう言って、久美と共に売店を出た。


 次、会えることを楽しみにしながら。

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