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 部室には、秀がいた。


 当たり前のように片付けをサボり、茫然ぼうぜんと部室の窓の外を眺めていた。


 体育館から部室へと通じる廊下へ降りる階段は一つしかない。ということは、僕と久美が客観的に見ると気持ち悪い行動をしているのを横目で見ながら秀は部室へと戻っていったのだろうか。


 僕に罪はない。階段を滑った久美が全て悪い。


 しかしそれにしても、秀が傍らを通る気配は全くしなかった。


 至上の運動神経といい、こいつは忍者か。大衆の密集に忍び込むのとか超巧うまそう。


 外は夕焼け。


 多種多様な部活動の生徒がグラウンドを整備していた。


 僕は無言で、僕のスポーツトートの中身を確認した。


 何も盗まれてはいなかった。


 僕は上から着がえる。練習着とアンダーを脱いで、上裸になった自分の胸に、二三回振ったスプレー式のシーブリーズを吹きかける。


 部室がたちまち、オレンジの匂いで包まれる。


「先輩、膝大丈夫ですか」


 窓の外を眺めたまま最強の後輩が心配してきた。


「膝を伸ばさざるを得ない状況に遭遇して、膝が元の位置に戻った」


「なんすかそれ」


 くっくと笑いながら後輩は窓から振り向いた。


「先輩、驚かないで聞いてくださいよ。ああ、着がえたままで結構です。俺、久美さんから頼まれてたんです。『絶対由人を抜かすなよ』って」


「へー……っていつ?」


「部室に入ってからだから四時半ごろです。なぜだか部室に男子は誰もいなくって。その人だけニヤニヤしながら座ってて。『やあ、秀君』って知ったかのように。俺は、その人の名前だって知らなかったんですけど。『私の名前は椿久美。二年生の白石由人の彼女さんだよ』って」


「……続けて」


「『君には二つ、頼みたいことがあるんだ。一つは、部室に由人がくるまで待っててほしい。由人が来たらそこでたまたま、音ゲーしているように振る舞ってほしい』って」


「……」


 言いたいこと、突っ込みたいことは沢山あったが黙って聞くことにした。


 前科ぜんか持ちの僕だ。


 迂闊な発言はまたことこじらせる。


「『二つ目は、部活の最後にある紅白戦で、白石由人に絶対に抜かせないでほしい。抜けなくてもいい。ただ、抜かせるのだけはダメ。中学校で名を馳せたスーパースターの秀君ならなんとかなるお仕事でしょう。ゴール前でoneワンorオアoneワンの状況で負けるなんてことがあってはいけない。ましてや、白石由人がダンクをする状況は絶対にあってはならない、しちゃいけないことだ』って」


「しちゃったよ」


「しちゃいましたね」


「一つ、訊くけどさ。ウィズさん」


 とっとと片付け終わった僕は、窓際の秀に質問する。


「何ですか」



「いや、初耳でした」


 僕と後輩の二人だけが佇む部室のなかで、探り合いのような会話。


「まあ、いいや。僕……、ああいや俺、久美にカフェオレ買わなきゃいけない用事があるんで先、失礼します……じゃなくて先失礼するわ」


「ええ、ごゆっくり」


 気の効く後輩はそれ以上訊いていてこなかった。


 やらなくてはいけない使命は山ほどあるだろうに。

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