045
ボールを扱う前に、やはり少しは走るかという気分に、籠の前ボールを見てから不意に思い、僕はコートの端で直線ダッシュを繰り返した。
と、そこで集合がかかる。僕が来たときから始まっていたシュート練が終わったのだ。
メンバーは僕が来ていた事に気付いておらず、「お前来てたんかい」というドライな感想ばかりが僕に向かってきた。
「はい、じゃあ、紅白戦を始めます。じゃあ、一本目のメンバーから発表します──」神楽さんがジンさんから受け取ったであろう、メンバー表を見ながら発表しようとしたとき。
「……やあ」
体育館の開け放した扉の向こうに秀が現れた。
「あ、秀くん」何とはなしに神楽さんが言う。
「僕も参加できますかね。腕、テーピングでがちがちに固めたら大丈夫っぽいので」
「あー……、うん。じゃあ三本目かな」
「あざます」
秀はそう言って、神楽さんに頭を下げた。
三本目、ということは僕と必然的に当たることになる。秀はポイントガード。ちなみに僕のポジションもポイントガード。
昔というか昨日の夕方、序列なんてくだらないことを頭の中で論じていたけど、その序列に強いて当てはめるなら、武田さんが一番として、こいつが二番だと思ってる。ちなみに部活総員でもポイントガードが主体のメンバーは僕と武田さんと秀の三人しかいない。紅白戦は、たけやんさんや、駿河が代理として出ることになった。
メンバー発表して解散。輪がばらばらに散る中で秀が僕に話し掛けてきた。
「先輩、一緒にアップしませんか? 僕も身体が冷めちゃって冷めちゃって」日光で茶色く光る癖毛の奥、黒い瞳が僕を見つめる。
黒い黒い瞳。深く、光をまるで通していない圧のある瞳。
僕は承諾せざるを得なかった。
まず走った。体育館を横に三往復ぐらい。
その後隅に行って、ハンドリング。二つのボールを使って上と下とを交互にパスを通していく。
「ゆう先輩と、直接対決するって初めてかもしれませんね」
「ん? 何回かしたでしょ。流石に」
「今までは本気出してなかったですから」
先輩を前に平気でそういうことを言う秀。
「僕って、実は本気でやること諦めてたんですよ。中体連負けてから。ああ、もう勉強だって思って」
「へえ、負けたんだ」
「はい。県中準決勝で。それも実は大敗で」
苦笑しながら秀は言う。
「だから、もういいやって思ったんです。どんなに周りからちやほやされても、たかが全国すら到達できないなんて。結果が出ないんならって。それにほら、この身長ですし」
地区大会準決勝敗退だった僕の前で、平気でそういうことを言う秀。
「でも、そりゃ本気でやらない理由にはならないだろう」
「なるんですよ。僕、思ったことを実現できてしまう
ぼんぼんと、リズムよくボールがコートに音を立てる。
「僕は見えないものが見えるんですよ。昔から。だからバスケでも人よりも先にプレー状況が理解できてたんです。だけど見ようともしなければ、そんな能力あっても一緒です」
「そんなこと一度も聞いたこともなかったな」
「たかだか二カ月弱の付き合いですから。それに、本気でこんなこと言えば変人扱いされるのがオチですからね」
「じゃあ、何で今言ったん?」
「最期だからです」
普通に、今までどおりの口調で秀は言った。
「最期だから、僕は本気で先輩に立ち向かいますよ」
「……みんな知ってるんだよな」
「はい」
下を向き少し微笑んで秀はそう言った。
「秀は伝達役?」
「そういうことです。さて──」
秀は上の方のボールを下のボールに垂直に叩いて、どちらも宙に浮かせてそのまま両手に乗せる。
「先輩に
「……厳しいな、相変わらず」
僕も少し笑いながら、溜息混じりにそう言った。
そのとき、ブザーが鳴った。
「あ、たけやんさんに悪かったところ指摘してやろっと」
秀はそう言うと、ボールを一個ほったらかしてボトルへと向かう集団に走っていった。視界の隅で試合もちゃんと観察していたらしい。
見せつけてくるなあ。
僕は残されたボールを手に取ると、指でくるくる回し始めた。
しかし、すぐにそれもすぐに空中で止まる。後ろから手が伸びてきてボールをがっちりと片手で掴んだのだ。
「よお」掴んだその本人が僕の後ろから声を掛ける。
「デート楽しかったか? 熊大デート」
「……何で知ってんだよ」
「昇降口ですれ違ったから」
「理由になってねえよ。それじゃ熊大かどうか分かんねえだろ」
僕はまたも溜息混じりに、その声へ振り向く。渋いその声はもちろん
「あー俺も行きたかったなー熊大デート。俺もエスケープしたかったなー」
手を後ろに組みながら、あさっての方向を向きながら太一は呟いた。超寒い棒読みだった。
伝令役なんて、もう機能していないらしい。久美の我儘が無ければ実際誰でもよかったのだ。
そのことを現実として、受け入れた上で僕は太一に言う。
「海行っただろ」
「かかっ。言うね」歯を剥き出しにして笑う太一。「あいつも言ったと思うけど──」と続ける。
「俺も手抜くつもりは一切無いからな」
「あー、そういえば太一は三戦目敵だったか」
「覚えてなかったのかよ」
「まあ、バスケできればそれで良かったから」
僕はまたボールをくるくると回し始めた。
「つーか久美も来てんじゃん。おまえいつ誘ったんだよ? あの空白の三十分間か?」
「お前も隙あれば探りいれるなー。ほんま、そんなんだから人間から嫌われるんだろ」
「かかっ。言えてる」
そのとき、またブザーが鳴った。太一は次の試合は休みらしい。
太一は東側の壁に寄り掛かった。バスケ部はコートに地べたに座ることを禁止されている。汗で床が濡れてしまうからだ。
「……海、楽しくなかったか」
「俺、ボトル採ってくるわ」太一の話を遮って僕は水を飲みに行った。ちなみに練習中はコートで飲水も禁止されている。理由は同じ、床が濡れて滑ってしまうから。僕が先程座ったスクイズボトルが数十本用意されている。
「その話は……」と言おうとしたとき、僕は続きを述べることはできなかった。
射刺すような太一の視線。
有無を言わせない強力な目。
出そうとしていた言葉を忘れてしまった。水はとりあえず我慢することにした。
「……海は楽しかったよ」
「そうか」太一は腕を組み、僕から視線を外して言う。
「でも、それだけだった。楽しいだけだった」
「それじゃ駄目だったか? 楽しければ良かったんじゃなかったのか?」
「……」僕は太一の言葉に一旦詰まる。
「久美がお前にそれまでの過去を思い出させたとき、お前にはあの世界に居座り続ける選択もできたはずだ。むしろ、久美の行動の九割九分はそのままの世界で居続けさせようとしたはずだ」
「……俺に言いたいことってそれだけか。なら水、取ってくりゃよかった」
「せっかちだなお前も。俺が言ってることは、ただの確認とそれに伴う
「あの世界の三時間も、こちらの世界の三時間に引き継がれる。あの瞬間も、白石由人は刻々と終りに近づいていた」視線を、僕の方へと移動させる。
「つまりは──白石由人の移転時間が三時間繰り上げになった」太一が、僕の方に視線をしっかりと向けて言った。
「正確に言えば二時間と五十七分、三十二秒」
深刻そうに話をする太一を前に、少し苦笑してしまった。
「……何となく予想は付いていたよ。というか、そうしないとおかしいよな。いつまで経っても地球に居続けることが可能になってしまうし」
「余裕だな」
「つまり、時間なんて無いんだな」
「ああ。ん? ダブルミーニングか? やるなお前」
自分にとっても残された時間はもうほとんど無いし、この世界には元々から時間なんて存在しなかったという意味でのダブルミーニング。太一が気付いてくれてよかった。寒くなるところだった。
「そもそも時間なんてこの世にねーんだよな。太陽の南中高度を上げれば夏になるし、雪でも降らしてカレンダーを書き換えればそこは冬だ」
「そうなると、今が本当はいつなのかも分からないな」僕は笑ってしまう。とんでもない理論で笑わずにはいられない。
「二〇八〇年五月二十四日ってことにしとけ。基準がねえと
「説明はそれだけか? 久美のときもそうだったけど説明が長すぎるんだよな。なんか、俺の人生最終日、説明だけで終わりそうだ」
「ああ、そうだな。ええと。お前、白石由人の時間がある意味三時間短縮したってこと以外に伝えなきゃいけないこと……あるんかな?」
「ないの?」
「ん……、いや待て。あるな。ああ、そうか。そうだな」太一は誰かに呼応した。多分、ウィズから伝達が来たのだろう。
「あれだ」太一が壁に凭れたまま右手を捻って人差し指でギャラリーを指した。
そこには久美がいた。
「不定形についてだ」
「今、俺が指を久美を指差したということは、俺にとって久美は見えている。久美が今、千秋先輩達と喋ってる笑い声もちゃんと聞こえている。つまり、俺本人からすると当たり前に椿久美は観測できているんだ」
「だけど、ウィズには届いていないと?」
「そう。半径二十メートル……だったけか。その不定形が及ぼす範囲をウィズは観測できていない。ウィズにとって不定形の中は形も声も何もないんだ」
そこまで言われて、そういえば僕のウィズへの願いが聞き入れられるのに数十秒という、物質を司るにしては随分と長い時間がかかったことを思い出す。
突然に物質が観測できない状態に陥って、ウィズはその場所に注意は向けていたのだろうけれど、注意を向けているだけであって、何が起こるかの予測は全く不可能だったということか。
時間を短縮する最も現実的な方法は見込みを立てること。見込みを立てて終着点を予想してあらかじめ数ある解決策のパターンを用意しておくこと。
なのに、不定形の奥から突然に要望の声が飛んで来たって、内容を予測することなどできるはずもなく対応するにも悪戦苦闘するのも充分頷けた。
なんかウィズには申し訳ないことをしてしまったみたいだ。僕が想定していた以上にウィズは混乱していたらしい。ごめんなさいウィズさん。僕は心の中で謝っておいた。
「……つーかあいつらバスケを見る気もさらさら無えな」ギャラリーの方を見やりながら太一は言った。
久美は、バスケ部マネージャーの千秋先輩と陸上部マネージャーのサラさんと三人で話しこんでいた。久美は腹抱えて笑ってるし、千秋先輩はげらげら笑ってるしサラさんは口に手を当てくすくす震えている。
三人の前には、ビデオカメラ。紅白戦を録画しようとしているのかもしれない。総体前で実践のデータが欲しいのだろう。でも、カメラは動いている気配はない。誰もカメラに触ろうともしていない。
大丈夫なのかな千秋先輩。多分気が付いていない。久美の影響なのかも知れなかった。
「まあ、お前には全てどうでもいいことなんだろうけどよ」
太一はハーフパンツに両手の親指を掛けて、よっ、と壁を背中で推して反動で壁から離れた。
「水飲みに行こうぜ。俺も喋りすぎて喉がからからになったわ」
太一が腕を僕の首に回し、肩を組みながら僕をボトルへと向かわせた。
ボトルが置いてあるベンチには数人の部活の仲間が試合を見ていた。声出しに僕らも加わった。
声を出していると、そのうちに試合終了のブザーが鳴った。
記憶に残るようなことは、特に無かった。
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