046

 僕はコートに立っている。僕が所属したチームは、北のゴールに向かって攻めるノービブス組だった。


 南向きのゴール。すなわち先程、太一と雑談を交わした南東の隅の壁から遠いゴールに向かって攻めるということ。太一が指でギャラリーにいる椿を示したことから分かるように、椿の足元のにあるゴールに向かって攻める。


 正直嫌だ。


 椿から眺めの良い北向きのゴールへ攻めたかった。


 だけど別段、抗議するほどのこだわりも持っていないし、そもそも自分の都合の為にチーム全体を動かすことは恥ずかしい。


 審判の笛が鳴る。僕はセンターサークルのすぐ外側でボールが来るのを構える。


 サークル内では太一とたけやんさんが向き合う。僕のすぐ目の前には太一の背中があった。


 太一の向こう側には、たけやんさん。更にその奥には秀が構えている。


 審判がそっとボールを挙げて、ティップオフ。太一の反応の方が早かったが、たけやんさんの圧倒的身長が太一の指先を追い越す。微かに触れられたボールは、一度弾んで僕の方へと流れてきた。


 ここから先は、ハイライト。


 特に、秀について。


 僕は秀のことは二番手だと思っていた。確か誰かに言った記憶もある。


 その認識を改めることになった。


 秀は、村山秀はこのチームどころか、県下でもトップのポイントガードだと、そう認めた。


 スリーポイントラインの外側、アウトサイドでの秀とのマッチアップ。


 左利きの秀。左手でボールを一回、地面に突く。


 そして引き上げる。


 二回目、ボールを突く。


 そして引き上げ、いや……来る!


 秀はボールを地面すれすれに置いたまま、突っ込む。


 僕もすぐに対応する……が。


 おかしい。


 ドライブに対応するときには別に付いていく必要もないのだ。


 大事なことはゴールとボールの間で身体を壁にすること。ドリブルする相手にもコートの隅へ隅へと追いやればタイムアウトでほぼディフェンスの勝ちが確定する。


 ドライブで切り込んでくる相手に身体を入れる方法は、相手の一歩目の脚に付いていくこと。クロスステップで来ても、身体ごと持ってきても、どちらにしろ身体で押しやれば必然的にディフェンスが勝つ。


 けれど、この秀の場合は、その一歩目が無かった。


 まるで、小さな放物線を描くかのように、僕の真横を跳んでいく。


 押そうにも、普通ならば一歩目を踏み出した際にできる摩擦による一瞬の静止のタイミングが秀には無い。


 手を出せばファールだ。身体ごと持っていくにはもう遅い。


 しかし、身体を入れる以外に今の僕に選択肢は無い。


 僕が秀に目掛けて放った進路妨害のためのブロックは空に当たり、そのまま僕はバランスを崩す。


 バランスを崩しながら僕は秀を見る。


 ようやく地面に着地した秀は、地面すれすれを飛んでいたボールを、軽く叩き、ボールを弾ませ自分の胸元までボールを掬い上げる。


 まるでボールが自分から付いてくるかのようなハンドリングだった。


 僕は地面へと倒れ込んだ。


 秀のドライブに対して、すかさずカバーに入ったたけやんさんが、秀とマッチアップする前に。


 秀はボールを地面に叩きつけた。


「えっ……?」


 誰かが言った。誰の声なのかも分からない。


 なぜ秀がそんなプレーをしたのか分からない。


 ボールは高く高く跳ね上がり、それは三メートルを超える程の高さにまで到達して。


 その零コンマ数秒後。


 ぱしゅっと、ボールがネットに吸い込まれた。


 たけやんさんが遅すぎたブロックを空振りして、地面に着地した。


 一気に静まりかえる男子バスケ部の領域。体育館の東半分が一斉に静まりかえったことにより、西半分で練習していた女子バレー部も、ステージで練習していたダンス部も、何かが起きたのかと静まり返った。


 体育館全体が静まる。その異常を察したのか体育館脇の廊下でパート練習していた江原太鼓部の演奏も止まった。


 体育館にはグラウンドからかすかに聞こえる運動部の掛け声と、校舎から響くブラスバンドの音と、


 秀が放ったボールの弾む音だけが残った。


 僕は地面に突っ伏したまま。秀の一部始終を見ていた。


 秀は僕の方を振り向いた。にやりと笑ったその顔。秀の具体的に見下みくだした視線が僕の全身をめ回す。


「さあ、ディフェンスです!」


 秀が手を叩いて、何事も無かったかのように周りを鼓舞した。


 再び鳴り始める江原太鼓。


 再び鳴りだすステージ上のジャスティン・ビーバー。


 再び叫び出す女子バレー部員。


 再び響きだすマエケンの咆哮ほうこう


 ……。


 マエケンは先程も言ったように女子バレー部監督である。体育館に居たのは知っていたが別段注意を向ける相手ではないと思って、特に気に欠けることは無かった。だが、秀が創りだした静寂のせいで、マエケンの唯でさえ大きい声が怒号に感じられてしまった。注意がマエケンへと向けられてしまった。


 そんなマエケンでも、先程は黙るほどの圧倒的な異質が秀の創りだした雰囲気だった。


 異質と言うより違和感か。


 先程からあちこちから視線を感じる。


「……みんなお前に注目してるみたいで」僕は秀に含みを持たせて問いかける。


がこのコートにいるからですよ」前線へとロングパスを送りながら言う秀。


「嫌なことを言う」


「先輩こそ」


 僕は守備時攻撃時構わず徹底的に秀とマッチアップした。


 ドリブルは抜かされ続けたし、あまり抜かせてはくれなかった。


 パスは通され続けたし、なかなか通させてはくれなかった。


 ある速攻時、秀はスリーポイントラインからパスを呼ぶ。手は遥か前方を指差しながら。ゴール下には誰も居ない。


 秀の味方は、訳もわからなそうにフリースローライン付近にボールを放る。すると、秀は跳ぶ。


 スリーポイントの半円から、一足跳び。


 フリースローラインに投げられたボールを、秀は追い越しそうになって、左手を後ろへと精一杯伸ばす。ボールを無理矢理に胸まで収めるとそのままゴール下へと着地。悠々とレイアップで得点する。


 僕はそんな華麗な秀の姿を見ながら思い出す。


 五十メートル走が六秒ジャストだったとか。


 立ち幅跳びが三メートルを超えたとか。


 そんな超人的な噂が秀の周りに蔓延はびこっていた事を。


 秀から直接聞いたことは無かった……はずなので僕はその噂は話半分に聞き流していた。


 自分より秀でている人の噂など関心する素振りを見せながら、どうせ噂だろうと思っていた。


 だが目の前で。見たことが無いものを見せつけられると、それは一つの冗談を感じる事となった。


 冗談。


 決して超えられない壁を見たとき、人は笑う。理解できない論理を前にしたとき己の非力は現実逃避の嘲笑ちょうしょうへと変わる。


 その笑いのベクトルはもちろん自分自身で、己の小ささを理解する。


 視覚の刺激って、単なる道聴塗説の噂話よりも嫉妬の刺激が強いのだなあと思っていると、


「どうしたんですか先輩? 先輩達ボールですよ」


 何て風に、何でもないように転がっているボールを指差しながら秀は僕に言う。


「お前本当に凄い奴だったんだな」


「何言ってんですか。僕が好きなようにやらせてもらっているだけですよ」


 そして秀は僕の肩に手を掛け僕の耳元で言う。


「周りの駒が動いてくれれば、僕は今の百倍は強いですよ」


 王様、ですらない。王様にならざるを得なくて王様になっているのか。


「さあ、残り五分ですよ。集中して頑張りましょう!」


 そんな風に秀は皆に声を掛ける。あくまで丁寧語で声を掛ける。


 余裕が違う。


 少しだけ寂しくなった。自分から部活に戻ってきたのに、既に帰りたくなっていた。


 体育館の外側へと転がっていくボールを追いながらそんなことを考えていた。


「……バーカ」


 不意に、額に粒々の感触がした。そこで、自分がいつの間にか下を向いていた事に気が付いた。

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