037

 母親の呪縛を抜け出ると言うのは、こうも苦しいものなのか。


 正直、死んでしまいたいと思った。


 初めてかもしれない。自分から自分の死を望むなんて。午前中は自分が死ぬと聞いて激怒した僕だったが、夕方になるとまさか自分から死を渇望するなんて全く想定外だった。


 彼女は泣き、力が脱していき、完全に静寂になった。彼女が静寂に包まれ、微動だに動かなくなった後も僕は沈黙を貫いた。沈黙を貫きながらも、心の中では逃避感情が渦巻いていた。自分から行動することが許されない、この板挟みの現実から早く逃げ出したいと思った。久美をどうにか拘束して、僕一人だけ逃げだそうかとも考えた。しかしそれは、自分の目の前から最大の問題を隠しただけであって、椿久美を僕の目の前から消す行動は、全くもってジレンマを解決する手段ではないと思い至った。今ここで最も簡単な逃避の手段を使ったところで何の解決にもならないし、誰も救われることはなかった。いや、それどころか、今、僕がどんな行動をしたところで、誰も幸せにならない状態であると気が付く。どんな行動を取ったところで、誰かは必ず傷つく。その誰かとは、大半が椿久美で、たった一回だけ、僕が椿久美に一生着いて行くと、心変わりし宣言したところで、恐らくそう長くはたない。一緒に居ると宣言した後も、二人は物理的に別れる以前に、精神的に別れざるを得ない結末に至るのは簡単に予想できる。すなわち、遅かれ早かれ、僕は椿久美を傷つける運命にあったと、自分自身に納得させようとした。しかし納得できるはずはない。『人は人を傷つけてはいけません』の言葉を不意に思い出した。その言葉は生まれたての赤子ですら知っている普遍的な道徳のテーマであり、しかし、誰でも分かっているが故に、それを実現するにはあまりにも人間は無力すぎると、心の底から痛感した。無力だから僕は何もできない、そして何もしないことですら、やってはいけない行動だと、何もせず茫然と久美の叫びを聞きながら感じていた。何もしないことすら許されないのなら、自分の存在を消すのが最も良い選択ではないのかと、自分の心の中に初めて自殺願望に気が付いた。そして、この僕の自殺願望もまた、『すぐに穴があったら入りたい』の方式で簡単に、逃げの手段としての自殺だと感じた。僕はやはりまだまだ子供であり、一人の女性を傍に置いておくほどの責任感は僕には大き過ぎた。そしてまたそれは自分の器の小ささを表しているだけで、器の大きさが『大人』か『子供』かを表す基準ではないと、また自己否定に陥って。


「……すーすー」


 呼吸のかすれた音がした。


 頭を下げてみると、久美が僕にしっかりと抱きついたままスヤスヤと眠りに着いていた。


 閉じたまぶたから頬に架けて、涙の跡をしっかりと残し、小さく唇を開いて、お休みになっていた。


 その久美の寝顔は、僕がずっと何もできないジレンマから、よく分からない思考を展開していたが、僕の自殺思考を完全に打ち破った。


 ジレンマなんかに陥っている場合じゃない。彼女は今、目の前で寝ている。


 今なら彼女を抑えられるのでは……?


 僕は素早くポケットから鍵を取りだして、鍵山をじっと見つめた。


 (今なら……今なら……)


 この鍵を久美に突き刺して、人間としての久美が止まるのかは分からない。もしかしたら何も変わらないのかもしれない。それでも、何かは変わるかもしれない。


 彼女は僕を拘束しようと画策し、僕に願い出て、否定され、狂って、狂い疲れて、眠った。それだけだ。彼女は一貫して自分を通そうとした。一度も自分の信条を曲げる方向へと進んではいない。結局、今彼女が目覚めたならば、僕を自分の側に置いておこうとするだろう。


 彼女は勇ましかった。彼女は絶対に曲がらない。


 もし、僕が彼女を信じるのならば、彼女の信念を信じるのならば、それは裏切らなければならないだろう。


 彼女を知っているから、僕は彼女を否定することができる。彼女は間違っている。


 僕に向かって頭を寄せている椿の上から、ゆっくりと気付かれないように、ブラウスとキャミソールをまくり上げていく。


 彼女の腰に、小さな穴が現れる。僕は右手で制服のズボンをまさぐって鍵を取り出した。


 吉良教授の部屋で見つけた鍵。


 鍵から目を離し、久美の緑がかった髪をもう一度見る。


「僕の為にありがとう。ゆっくり、お休みなさい」


 口には出さず、心の中で呟いた。


 僕は鍵を差し込み、椿の稼働をオフにした。

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