036

 椿を抱き寄せ、泣いて、いくつかほろほろと涙を落して、椿からそっと離れた後。


 僕は思っていることを口に開いた。


「でもさ、僕は椿にこれから一生べったりくっ付いて生きていかなきゃいけない訳なのか?」


「?」


 椿はきょとんとした顔で首を傾げた。


「?」


 僕も椿が首を傾げた理由が一瞬分からなかったので、僕も首を傾げた。


 もちろん、僕が分からなかったのは一瞬だけのことで。


 椿の説明の途中から、全てを理解してしまったがために、自分の中だけで勝手に感極まってしまっていたと、自分が首を傾げた後に気が付いた。


 なんか勝手に冒険してしまっていたみたいだ。


「由人はどこまで気付いたの?」


 椿が、僕の発言から僕の心理を先読みして訊いてきた。


「多分全部。今までの椿の行動とか、吉良教授の発言とかの理由も、全部。椿は、ずっと、ウィズと戦っていたんだろう?」


「うん。なあんだ、そこまで考えが辿り着いたんだ。私がいちいち全て説明しなくても到達してくれたんだね」


 久美は感動したかのように、顔全体に微笑みを湛えた。


「突然由人が抱きついて、泣き出すから、何事かと思っちゃったよ」


「……」


 とても真面目な心情の後だったから、僕は自分で自分に突っ込みを入れることはしなかった。ここで自分でギャグパートに持っていったら、流石に数分前の自分が悲しすぎる。


 僕は自分には甘いんだ。


「なあ、久美。話戻すけどさ」


 僕は自分の勘違いを振り払うかのようにまたぞろ話を続けた。


「その右手の闇は、つまりは不定形ってことなんだろ? その不定形はウィズには観測されていない。すなわち僕が久美の側にずっといたら、僕は月に移転されずに延々と地球に居続けられる、という事なんだな?」


 自分が勝手に想像して、思い至ったことを素直に久美に訊いてみる。久美は「そうだね」と軽く首肯した。


「そのプライベート用の不定形って、勿論不定形にできる範囲決まってんだよな? だったら僕らってずっとくっ付いて暮らしていかなければいけなくなるんじゃないか?」


「そうだね。大体半径二十メートル以内位には居ないといけないね」


 それは……。


「それは、無理だろう。普通に考えて」


「無理? どうして?」


 久美は目を丸く、口を細めたきょとんとした顔で首を傾げた。


「私と由人が一緒に暮らせばいいだけじゃない?」


「いや、それだけじゃあ、無理だろ。ほら、学校とかどうするんだよ。僕に女子更衣室に入れ、なんて言うのかい?」


 僕は掌を少し上に向けて『冗談だろ?』のポーズを取る。


「高校なんて行く訳ないじゃん。由人以外の皆全員生活してる振りなんだし。これからはずっと私と一緒に暮らしていくの。二人で一緒に暮らして、一緒に買い物に行って、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒にテレビを見て、一緒にベッドで寝るの。そうだ、由人の子供をつくってくれる女の人を捜そうよ。私と一緒にドームの外に出て、由人の結婚相手を捜すの。結婚相手が見つかったら、子供をたくさんつくって、大家族を組み立てよう。家族が出来たら、その子供も子供をつくって部落を創ろう。部落を更に発展させて民族を創ろう、国を創ろう。その発展の始祖が由人になろう。そして私は由人の手助けをずっとしていく。由人のブレインとしてずっと役に立つ。由人が死ぬまで、ずっと働き続ける。由人が死ぬまで、私は由人の側にずっといる」


 矢継ぎ早に、次々と久美は僕に提案してきた。


 僕の返事は、考えるまでもなかった。


「いやいや、それは無理だろう。もし仮に、仮にだよ、僕と久美がそれを成し遂げる決意をしたところで、ウィズが黙ってないだろう? ほら、ウィズさんだって、異常を感じ取るにきまってるだろう? 僕ら二人だけ観測できないって」


「観測できないんじゃないよ。不定形の中の事物はないってことすら認識できないんだから。今のままでいれば、ウィズさんは私たちが自然に居るように観測するだけだよ。もしかしたら……」


 久美はほっぺたに少し考えるような仕草をする。


「もしかしたらウィズさんは、私たちが自然なように、私たちと同じ物質で出来たアンドロイドを新たに生成するかもね。そうなったら、もうこっちのものだね。というか、多分そうなるよ。ウィズさんは不自然な事象を徹底的に嫌うし」


 ふふっと久美は笑った。


「これからずっと一緒に居られるね」


 それはそれは、本当に、外連味けれんみのない、極上の笑顔だった。


 何も恐れることもなく彼女は笑うのだった。


 だけど。


 笑顔なんだけど。


 彼女の目は笑い、口元は緩んだ、屈託のない笑顔なんだけれども。


 彼女は顔に汗を浮かべている。


 それは、もう、人間二人がずっと半径二十メートル以内で暮らし続けることが不可能であると、久美だって分かっている何よりもの証拠だと感じた。


 だから。


「僕は嫌だよ。そんなの生きてることにはならない」


 僕は久美の提案を突き返した。


「久美が提案した中での僕は、全く生きてないよ。久美の通りに従うのなら、僕は何も選択することなく、ただ呼吸を続けるだけの存在になる。そんなのは、僕は嫌だね」


「……私だって勿論わかってるよ。私と由人がずっと半径二十メートル以内で過ごし続けるなんて、とてもじゃないけど無理だと思う。けれど、もう、由人を救うにはこの方法しかない。今こうして、二人並んで存在している状態を維持し続けるしか、由人が生き続ける方法は他にはないの」


「生きるってなんだよ」


 僕はぶっきらぼうな口調になった。


「生きるってなんだよ。久美が今言ってる生きる、って僕が久美の前で生き続けるってことだけだろ? それは久美の我儘わがままに過ぎないんじゃないのか?」


「由人を護るには、そうするしか、ないでしょう」


 知らず知らずの内にか、久美の声が震えている。


「それは、僕の為じゃない。僕の為に見せかけた、久美自身の我儘だ。それは、多分、人として一番性質たちが悪い考え方だ」


 僕は久美に問い詰める。非道ひどいと分かっていながらも問い続ける。


「他の人を偽善で縛るのは、もう止めてくれ」


 ダンッ。


 久美は僕の言葉を、最後まで聞いた瞬間にベッドから跳ね降りた。久美はそのまま僕の机へと向かい、机の上のペン立てからカッターナイフを掴み取った。


 ぢぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっ、と一回の動作でカッターの刃を全て出し切った。出し切って、すぐにカッターナイフを逆手に持ちかえて、久美が今、思いっきり刃を引き抜けば、血が噴き出すだろうと思われる位置まで、カッターナイフの刃を自分の頸動脈へと押しつけた。


「は、は、は、は、はは、」静かに、しかしはっきり聞こえる程度に久美の息が上がっている。


「は、は、は、は、はは、ははあは、は、あはは」上がる息の中、久美は静かに笑っている。自分の興奮を抑えるかのように、自分の熱を下げるかのように声を漏らしている。


「由人が、私から離れる選択をするのなら、私は任務を達成できない。私の生きる意味はありません。よって私はここで首を切って死にます」


 ガタガタ震えて、刃を見せつけるように、顔を思いっきりに背け、僕を見下すような目線で、僕にすがるような瞳で僕を見ていた。


 僕は答えられない。


「は、は、は、は、は、は、は、はあ、は、は」部屋の中で、久美の荒い息使いだけが響いている。


 目の前の久美の行動は最早狂気じみている。久美も恐らくは自分自身で自分の行動の馬鹿らしさ気付いている。自分を担保にしたところで、果たして相手が必ずに乗ってくれるわけじゃないのに。


 自分の行動が無意味だと、気が付きながらも久美は首に刃を当てている。


 そうすることしかできない。


 大切な僕を護るため。


 大切な僕を愛するため。


 これが、愛か。人が人を護るときには、自分の命すらも、無意味と分かっていながらも、簡単に捨てることができるのか。


 全く。全く。全く。


「……たぎるなあ」


 僕は空中にほうるように小さい声で呟いた。あまりに小さい声だったので、多分久美には聞こえてはないのかもしれない。


 僕はうつむいた。まるで船を漕ぐように頭を垂れる。


「ふ」僕の息が思わず漏れた。


「は、は、は、は、は、は、」久美の緊張している息遣いが聞こえてくる。


「ふはは」僕の声が思わず漏れる。


「……⁉」久美の荒い息遣いが止まった音がした。


「はははははははははははは、あははははははははははは」


 僕は天井を向き盛大に笑ってしまった。


 僕は幸せ者だ。今、この瞬間、世界で一番の幸せ者だと断言できる。


 『あなたのために私は死ぬ』などと、果たして世界中のどれだけの人が告げられる愛の証だろうか。


 ここで笑わずいつ笑う?


「ははははは。あははははあー。あは。あははははは。あー。あー。あー。あははは。あは。はああああはあはあはあはあ」


 僕は笑うのも疲れ、天井を見上げ続けることにも疲れ、ゆっくりと久美を見る。


 久美はさっきまで押し当てていた刃も首から若干離れ、宙に浮き、しかしそれも気がついていないかのような驚いた眼をして僕の方を見ていた。


 久美はまるで得体の知れないものを見て、恐怖に取り憑かれたかのような顔をしていた。


「はああ、久美」僕は一つため息を入れてこう告げた。


「死ねよ。僕の眼の目で今すぐ死んで見せてよ」


「えっ」久美は信じられない、といった声音だった。


「そうだよ。いますぐ死んで見せてよ。愛する僕の前で。首を切って見せてよ。なんなら眼球からでもいいぜ。眼球掘り出して、鼻をいで、口を割いて、最後に首を掻っ切って死んで見せてよ」


 カンッ、タタンっとカッターナイフが久美の手から滑り、床へと落ちた。


 久美の手はカッターナイフを離した後も震えていた。


 おそらくは、恐怖で震えていた。


「久美。お前は僕を残して死ねるわけがない。それじゃ、僕を護ることにはならないからだ」


 久美は、しなっと腰を床へと落とした。もしくは力尽きたと言ってもよかったかもしれない。


「久美、お前は死ねないんだよ。もしも、久美が、どうしても僕を護りたいと言うのならば、久美が本当に取れる選択はただ一つだ」


 僕はベッドから降りた。降りて、床に落ちていたカッターナイフを拾った。久美の両脇に僕の両手を差し込み、茫然としている久美を無理矢理に立たせ、久美の両手にカッターナイフを無理矢理に握らせた。


「選択肢はただ一つ。僕が二度と行動できないように、久美の手で僕を半殺しにすることだ」


 僕は両手を左右に広げ、無抵抗の姿勢を見せた。


「殺せよ。僕を。今すぐに」


 久美はカッターナイフと震える指の爪々つめづめとの間でカチカチ鳴る音を鳴らしながら、僕を見ていた。


 僕は半笑いで久美の行動を待つことにした。


「……」


「……」


「……なんてな」


 折れたのは僕の方だった。


 久美はカッターを両手で握ったまま震えていた。だが、それは自然に起こる震えで、彼女の意思に沿うならば、久美は正しく固まった状態だった。


「ふ、ふえ……、え、え、」


 久美は、それまではナイフを握っていた手を中心に細かく震えていたのに、その震えが大きくなって、腕に伝わり、肩を経由して、口に到達して。


「え、え、ええ、ふ、え、え」 


 久美がやっとのことで絞り出した、その声は大きく震えていた。


「え、え、っぐ、っえ、え」


 ぎちっ、ぎちっ、ぎちっ……、と久美は持っていたカッターナイフの刃を少しずつ、少しずつ柄の方に戻していく。


「え、え、ぐふん、は、え、えええええええええええん」


 戻しながら久美は口を大きく開いて、涙をぼろぼろこぼして大声で泣き始めた。


「だって……、だって由人護りたかったんだもん……。由人がいなくなるなんて、おかしいんだもん……。なんで由人が居なくならなくちゃいけないの……? ねえ何で教えてよねえ。ねえ。えええええええええええええ」


 泣きながら椿は自分の思いの丈を吐き出している。


 自分の思い通りには何事もいかない。


 自分の咄嗟に取った苦肉の策も、本人の前で否定され、自分の愛も否定され、自分のエゴを通せずに、自分の無力を痛感して。


 子供のように泣いていた。


 泣いている久美を前に、僕は何もできなかった。いや、違う、何もしてはいけなかった。


 久美が泣いている、その根本の原因は僕が久美に従わなかったことで、ここで久美に、優しい言葉など掛けたとしたら、それはもう、最低な偽善者としか言いようがなくて。


 究極的なまでに嗜虐的に久美を否定したのも、久美に、久美の思考判断それ自身に桎梏しっこくの態度の恐ろしさを、久美の心に焼き付けてしまうほどに深く理解してもらうためで、仕方のないことで、確かに言いすぎた、やりすぎた追い込み方だったのかもしれないけれど、僕が、完全に悪い訳ではなく、やはり久美が墓穴を掘ったとしか考えられない結論に至ったはずなのだけれど。


 何故だ? 何故こんなに脱力感が僕を襲う?


 慰めてもいけない、抱いてもいけない、頭を撫でてもいけない。僕は何もしてはいけない。


 脱力感で、僕は膝の力が抜けた。手を床に付き、跪座きざになり、久美が泣いている姿を見上げた。


 こういうとき、どうすればいい?


 今ここで、僕が自ら行動を取ったところで、全てが嘘になる。


 思えば僕は、自分の我儘で久美への愛情を示していたのかもしれない。


 自分でキスし、自分で彼女を慰めて、自分で彼女を抱き寄せて。


 自分。自分。自分。自分。本当に僕がやることは『自分』ばっかりだ。


 僕は無力だ。目の前で泣いている大切な人の前でも、本当にその人の力にはなれない。


 僕が久美を見上げていると、久美は泣きながら膝を下してきた。


「死んじゃいやだよ……、由人お」


 久美が僕の腹部の辺りに跳び付いて来た。僕は払うことも受け止めることもせずにそのままただただじっとしていた。


「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 由人と離れたくない! 私はずっと由人と一緒に居たい! 私もできれば月に転送もされたい! でも出来ない!」


 僕は何も言わない。


「一緒に居たい! 一緒に居たい! 一緒に居たい!」


 僕は何も言わない。


「……一緒に……居たい」


 久美の僕を抱く力が徐々に徐々に弱くなってきた。


 今、僕が、久美にしてあげられることはただ一つ、何もせず、何も言わず、久美が現実を受け入れられるまでの時間を作ることだけだった。

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