038

 久美の右手から闇が消えた。腕の中で、久美は静かに物質へと戻っていった。


 突然に、玄関の扉が開く音がした。


「あら……、由人帰ってたの」


 部屋の扉の向こうから、かすかにそんな独り言が聞こえてくる。きっと母親が玄関を見てそう思ったのだろう。何にしてもタイミングが良すぎる。勿論、はぐらかすつもりなどない。きっとウィズが迎えに来たのだろう。先程の久美の説明にもあったように、右手の不定形により、久美のスイッチを入れたときから、ウィズから観測されない状態になっていた。今、スイッチを切ったことで、ウィズからしたら突然に僕等、白石由人と椿久美が現れたと観測される。それは不自然だ。白石由人が不自然な行動をしたのなら、なるべく自然な方法で白石由人に接触し、自然と白石由人の自由を奪うように誘導していくだろう。


 かつて椿久美にそうさせようとしたように。


 結局は椿の我儘わがままも加わってかなり不自然な方法で、僕が月に移転することを告げるはめになったのだけれど。


「ゆうと! 帰ってるの?」


 今度は大きな、二階に向かって呼びかけるような声が響いてきた。考えろ、ウィズは何をしようとするだろう? 不自然が起こった原因は僕か? 僕かもしれない。だけどウィズは僕には何もできない。それは僕が人間であり、機械は人間に従うことが絶対法則なのだから。


 そもそも機械は人間のためだけに動いているのであり、僕に無理矢理危害を加えたり、承認なしに不意に別の衛星へと転移することなどできないのだ。たかが、地球上の一点で起こった、人間が起こしたほんの不自然で、人間の行動を無理矢理束縛することはしない。やるとするならば、僕が意識できないほど曖昧に、回りくどいやり方で行動を制限していくだろう。だが、それよりも、現時点の不自然が発生した明らかな原因が、人間以外にある。僕の腕のなかの椿久美。彼女が当たり前のアンドロイドで僕に直接、移転の説明をすれば、新たな不定形など生じることもなかったのだ。ウィズがどんなやり方を取るかは分からないが、存在を消すとしたら──この椿のほうだ。


 椿が消えるのは嫌だ。椿が生きていたら僕の行動は制限され、僕は生きていくことができなくなるけれど、椿が消えるのは嫌だ。椿は僕の母親だから、消えるのが嫌なのは当たり前なんだろうし、椿のことが好きだから、椿が死ぬのが嫌なのは当たり前だ。たとえウィズが、チップの不要な部分だけを入れ替え、椿と全く同じ人間を創りだしてもだ。椿の人間であるところが好きなのだ。


「ちょっと、ゆうと。居るんでしょ?」


 母親が、階段を上ってくる音がする。一歩ずつギシギシと軋むその音は、鼓動に相乗して決断を急かす。考える時間がないことと同時に、行動の選択肢もほぼないことに気付く。母親とバッチングしたらアウトだ。人間と人間が会話をしたら、どんな不自然なことでも自然になる。言葉は全て思いつきだからだ。何となく思いついたから、こんなことを言ってみた、行動してみた、指示してみた、で通用する。


 例えば、母さんが風呂掃除を指示し、僕が掃除をしている間の、見ていない隙に、椿を移転させ、「ああ、椿さんなら帰ったよ」と言えば、椿は帰ったことになる。この際、僕の所有権など、不定形が現れる危険度と比べればずっと重いと判断するだろう。


 危害は加えることはなくとも、支配を揺るがすことは許さない。ウィズは絶対だ。揺らぎがあることは許さない。


 僕は、決断する。上半身を抱きかかえたままの、椿の太ももを右手で救う。お姫様だっこの形になって部屋の窓へと近づいた。抱きかかえたまま、窓を指先だけで開ける。僕の部屋は二階だ。窓を開けると豊肥本線を電車の通る音がした。梅雨入り前の生温かい重い気流が窓から入ってくる。


 僕は、窓下に椿をひとまず置き、自分の身体だけを窓枠からまたぐ。雨どいから雨を下水へと降ろすポールに手が届くかを試す。届く。判断はそれだけでよかった。


 僕はまた、窓枠へと戻ると、椿を一気に引き上げる。重さで少ししか上がらず、椿のひざの裏を手ですくう。そのまま肩に椿を担ぎ、先程とは逆の、左手で一気にポールを掴む。二人分の体重が加わったポールは不安定にぶわぶわと揺れたが、僕は構わず裸足でポールから壁に伸びる金具を掴む。そのまま早く地面へ降りていく。


 降り立ったときに、「ゆうと、居るんでしょ?」と言いながらノックする音が窓の向こうから聞こえた。僕は何も考えずに、裸足のままで実家の庭を飛び出した。裸足で砂利の上を歩くのは痛かった。でもそれ以上に椿を失うのは怖かった。何も考えぬままコンクリートが敷き詰められた道路へと出た。自分の家を振り返らずに、道路をただ走っていった。


 僕は歯を食いしばった。考えたからだ。何をしているのかが自分でもわからなかった。その場をしのいだところで、何になるというのだろう。僕は椿に何を期待しているのだろう。僕は何をするべきなのだろう? わからない。わからないから、動き続けるしかなかった。とどまるにも覚悟が必要だった。


 と、そのとき。


「そんなに逃げなくても大丈夫よ」


 右後ろから女の人の穏やかな声が遠くからした。僕は振り返る。道路の向こうの庭で、女の人が電話をしていた。電話と言ってもエアフォン。右手を電話の形にすると、腕時計が勝手に電話機能を開始する、僕らの世界では当たり前の電話通信方法──すなわち無形エア電話フォンで電話をしていた。


 大声で、電話に向かってしゃべる。


 まるで僕に届かせるように。


「せっかくもう少ししかないんだからさ」


「どうせなら楽しんじゃえばいいのにね」


 今度は子供の声がした。子供の声が二つ。男の子と女の子。エアフォンを見ていた僕の背後からその声が聞こえた。


 子供たちの顔は見えない。二人揃って、僕に背中を見せながら勢い任せに走っていった。


「前を見て生きなさいよ!」


 また後ろから声がした。振り返ると、それは民家の窓から、その女の人の声は聞こえた。くぐもった音声から察するに、夕方の再放送枠のドラマを放映するテレビの音が、窓を通じて僕に届けられているようだった。


「振り返ってみれば、幸せはそこにあるから。さあ、振り返りなさい」


 聞こえてくる。ドラマの中ではどういう状況か分からないが、声が聞こえてくる。


「振り返りなさいよ!」


 女の人が叫んだ。僕は振り返った。


 民家の塀の前に、あふれんばかりの札束が置かれていた。


 肩に乗せていた、椿は、いつの間にか消えていた。


「……いらねえよ。使いきれないだろ」


 僕は札束の山に向かってぼやく。


 僕にとって重要なのは、椿が消えたことだった。あちこちから散らばる声に惑わされて、ぐるぐると振り返り続けている間に、椿が消えていた。椿を抑えていたはずの右手が、抑えていたのは僕の左肩だった。


「なあ、ウィズ。ウィズさん。僕が欲しいのは椿なんだ。物じゃないんだ。人間なんだ」


「整理しましょう」


 無形電話を掛けているであろう女性が僕の側を、僕のすぐ背後を通り過ぎる。僕は振り返ることはしなかった。


「椿久美はもう動かないのですよ」


 また、違う女の人の声が背後でした。色々な人が僕の背後にいるようだった。僕の見えないところから、次々と人が湧いて出ているようだった。


「返してくれないか?」


 僕は前を──札束の山を向いたまま、訊いた。


「なぜ?」女の人の声が聞こえる。


「連れていく」


「何処へ?」男の人の声が聞こえた。


「僕が消えるそのときまで」


「……どうせなら楽しみませんか。椿久美さんとの最後の思い出を。一回だけなら整合性のとれた天国を創ってあげられますから」


 子供の女の子の声が聞こえた。


「返してくれないか?」


 そのまま返してくれ、と僕は付け加えた。


「眼をつむってください」女の子が言う。


「返してくれ」


「……眼を瞑ったら返します」女の子が言う。


「目の前で返してくれ」


「見苦しいんですよ!」


 女の子が激昂する声が聞こえた。


 僕は、はっと我に返る。そういえば、さっきから同じ女の子の声しかしない。

 一人に言わせた? 一人? それはウィズ本人?


 僕は振り返る。誰もいない。


「さっきから何なんですか、あなた? 研究室で激昂したときはまだ筋が通ってましたよ。後付けの論理で理解できましたよ。でも、今は、全然分かんないですよ! わけわかんないですよ!」


 声は、後ろから聞こえる、のか? 後ろというより、真後ろ。視界が届かない、耳のすぐそばで誰かがささやいているような。


「あなたが、椿久美の稼動を止めたんでしょ? なんで動かない椿を手元に保ちつづけようとするんですか? まさかその年でネクロフィリアでもあるまいし。ほら、椿さん返しますよ。あなたがそう望むんなら返しますよ。ほら、振り返ってみんさい」


 振り返ったら、椿が札束の山に寄り添うように存在していた。眼を瞑ったまま。口は少し開いて、閉じた歯が覗いていた。


「ほら、あげました。もう知っているでしょう? 私が物質を全てつかさどってるって」


 女の子の声が、聞こえる。全てを確認するように。


 僕は、そんな声など無視して、椿に寄り添い、を確認する。


 存在する。全く同じ配列で物質を創っている。


 ウィズは、に気が付いていない。


「さ、白石くん。あなたに幸福を


 久美を、僕は更に抱き寄せた。顔をうずめ、眼を瞑った。


「さあ、青春を始めよう!」


 後ろから、女の子の声がする。


 瞬間、身体の感覚がなくなった。

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