一話「限界」

もう限界だ。


その日、些細な連絡の行き違いであの女が激怒した。

私がとある事情で仕事を休んだことを知った彼女は、

どうして自分に直接一言がなかったのかということで怒り狂ったのだという。

私は上司に休みのことは伝えていたし、

自分の仕事で必要なことは別の同僚に伝え、お願いもしていた。

だから、私がいないことで業務が滞ることはないはずだし、

そもそも彼女に対して頼むことは特になかったので、

少なくとも仕事には支障が出ないことであったはずなのだ。

しかし翌日出社した私に、ものすごい剣幕で寄ってきた彼女は、

不機嫌な態度を隠そうともせず、自分に直接言わないのはおかしいだとか、

社会人の常識がどうだとか、終いには日ごろから私のこういうところがダメだの、

ああいうところがダメだの、前々からこういうところが気に入らないかっただの、

因縁に近いようなことまでつつき出し、延々とわめき散らかした。

ただ、一緒に仕事をしているというだけの相手に、

私はどうしてそこまで言われなければいけないのだろう?

普通に「休むなら言ってくれれば良かったのに」と言ってくれたなら、

こっちだって「ごめんなさい」と言えただろう。申し訳ないと思うことも出来た。

けれど、「自分に一言がないから気に入らなかった」と言う意思表示をされてしまったらもうだめだった。

私は彼女の下僕でも手下でもないし、所有物でもない。

どうして顔色を当然のように伺わなければならないのだろう?

理不尽であるという怒りや悲しみと共に、

惨めでやるせない気持ちで胸がいっぱいになってしまった。


もうただただこの人と一緒に居たくないという思いだけで、

「すみません」「ごめんなさい」とロボットのように繰り返して、

彼女が去っていくのを待つことしか出来なかった。


機嫌はいいときはニコニコと寄ってきて

自分の好きなものの話を一方的に話してくる。

自分の価値観と違うことを話す相手には、

平然とその価値観を否定して、陰口を言い、馬鹿にする。

誰かがミスをすれば、それを苛烈に責め立てて

「迷惑してるって皆が言ってたよ」とみんなの代表みたいに人を傷つける。



いくら仕事が出来たって

いくら美人で社交的だって

いくら正論であったって

人を殴って良いなんてことはないはずだろう。

正論ならば殴っていいと思ってるのだろう。

自分は正しいのだから、何を言ってもいいと思っているのだろう。

だから、彼女にとって"間違った"私は叩いてもいいものになったということだ。




全部馬鹿らしくなってしまった。

頑張って好きでも無い相手に愛想を良くお喋りして、

頑張って彼女が主張してくる彼女の凄いところを、

凄いね~ さすがだね~と褒めてあげて

あれのやり方はああだとか、これのやりかたはこうだとか、

別にそんなのどっちでも良いだろうと思うような細かい点に拘って、

それに従わないと怒り狂う彼女の機嫌を損なわないように

毎日細かな部分にも気を使って、

彼女に叱られることを恐れ、自分で考えて判断するより、

あの人が怒らないかな?という基準で考えるようになってしまった後輩を宥めて安心させて


わかっているんだ。

何もいえない私が悪いって。

ちゃんと戦えない私が悪いんだ。

だから、誰にも相談できない。

だから、誰にも助けて貰えない。


でも怖くて とにかく怖くて

戦うことなんて出来やしない。

ただ一人で泣くことしか出来ない。



夜も眠れなくて

食欲もわかなくて

仕事の時間が近づくと手が震えて



もう嫌になってしまった。

全部全部嫌になってしまった。




その日、仕事を終えた後、

私は気がつけば忙しく車が行き交う道路を、歩道橋の上から見下ろしていた。

飛び降りたら楽になれるかな?とか、

怪我をしたら仕事に行かなくて済む と考えたら、

何だかそれはとてもとても魅力的な選択肢に思えた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る