《番外》ホワイトデー(1)



「今日が何の日か覚えていますか?」


 ニコルにそう問われたカルラは、はてと首を傾げた。馬車生活をしていると日付の感覚が狂いそうになるから、商品の納期を守るために馬車に積んだカレンダーを毎日確認するようにしている。だが今日の予定に移動以外の心当たりはない。


 カレンダーを引っ張り出して眺めてみる。しかしナターシアに商品を運び込む約束をしている日でもないし、商談の予定もないし、部下たちが買い集めた食料を受け取る日でもない。


「んー……それ、何かのクイズか?」


 カルラがそう返すと、ニコルはため息をつきながら視線をそらした。


「まあ、期待はしていませんでしたよ」


「あっ今、うちのこと馬鹿にしたやろ?」


「いえ別に。常識の違いなので」


 他の誰かに知っているかと尋ねようにも、今は馬車の中にいるのはカルラとニコルの二人だけ。さっきヤマトが、話があるとか言ってユラを連れて出ていったばかりだ。カルラは頭をかいてから、「で、何の日?」と尋ねた。


「ホワイトデーといいます。先日いただいたチョコのお礼をする日ですよ」


「……あっ、あー、あれな」


 一ヶ月前のやりとりを思い出してしまい、カルラの心臓がはねる。そして同時に、ヤマトがユラを連れ出した理由を察した。ヤマトが出ていく前に、ニコルと目配せしあっていたわけも。


 ニコルは己のポケットを探ると、中から青い石を取り出した。


「これを持っていていただけませんか」


「ペンダント?」


 青い石は一番上に小さな穴が空いており、長い革紐が通されている。綺麗なペンダントだが、指輪かと身構えたぶん、拍子抜けした気分だ。石の表面に彫られた女神の横顔を眺めてから、カルラはニコルに視線を戻した。


「首から下げとけばええ?」


「そうしていただけると嬉しいです。〝女神の涙〟というアイテムを聞いたことはありますか?」


「あー、女神の涙っていうたらあれやろ? 死人を蘇らせるとか、どんな病も治せる万能薬やとか、うさんくさい噂の――えっあれ実在すんの!?」


 ばっと青い石に目を向けたカルラは、改めてそれを眺めてみる。水というより空を思い浮かべるような鮮やかな青色。石の表面はきれいに磨き上げられ、光を反射している。だが見た目にはただ美しいだけの石だ。奇跡の石と噂されるような凄いものには見えない。


「あなたが先ほど口にした効果は全てデマですが、アイテムとしては実在します。稀に闇市に流れたり洞窟などから発見されたりしたものを、奪い合いになる前に教団が回収して、聖女が戦いに赴く際に授けています。それは昔のツテを使って手に入れました」


「闇市って、これめっちゃ高いんちゃう?」


 闇市で何かを売買したことはなくとも、商人をやっていれば存在は耳にする。正規の市場で取引できない盗品や規制品を売買する場。珍しいものが手に入るが、その代わりどの品にも法外な値がついていると聞く。そんな場で、眉唾ものの噂でしか聞いたことのないようなレアアイテムが安く手に入るわけがない。


「誰かに何か聞かれたら、レプリカだって答えてくださいね。面倒なことになると困るので」


「い、いや、こんな高そうなもん、受け取られへんのやけど……」


 カルラがニコルに渡したのはたった二粒のチョコレートだ。返礼として受け取るにはつり合いが取れない。


 ニコルは「渡す口実を探していただけで前々から準備していたものですし、値段差は気にしていただかなくていいですよ」と言ったけれど、カルラは何度も首を横に振った。しかしニコルはペンダントをカルラの足の上に乗せる。


「ヤマトとユラが戻ってくる前に話しきってしまいたいので、いるいらないの押し問答はあとでいいですか? このアイテムの効果は一つ。持ち主が致命傷を負った際に、一度だけ身代わりになってくれます」


「……それ聞いたら、余計受け取られへん」


 カルラが表情を曇らせる。身代わりになってくれるなんて、そんなアイテムを持っていたら、また一人だけ生き残りかねない。戦いの中で倒れて意識を取り戻したとき、安堵よりも〝また死に損なった〟という落胆を覚える死にたがりには必要ない。青い石をニコルに返そうと、カルラは足の上のペンダントに触れる。しかしニコルはそれを止めるように、カルラの手の上に己の手を重ねてきた。


「最後まで聞いていただけますか? いつか、あなたの大切な人が危険な地に赴くときに、これを渡していただいても構いません。このアイテムが身代わりになる対象があなたでも、あなたの大切な人でも、僕はどちらでもいいんです。あなたの身を守るのか心を守るのか、それだけの差なので」


「そういう使い方でええなら、これはニコルが持っててや」


 カルラはニコルの手を下からわずかに持ち上げる。押し返してくるニコルの力を感じて、カルラは重なった手に視線を落とした。力の差からすれば、カルラがニコルの手をどけることは難しくない。難しくないのに、カルラは手を動かせなかった。ニコルの視線に手を縫い止められたような気がして。


「普段僕が身につけている意味はありませんよ。だって僕が攻撃されそうになったら、あなたはきっと割り込んでくるんでしょう? あなたが双剣使いとどのように戦ってきたか、ヤマトから聞きました。他人を庇ってばかりだなんて、一番危なっかしいのはあなたです」


「せやけど、いつも間に合うわけとちゃう」


 リドーやカリュディヒトスとの戦いにおいては、幸いにもカルラは誰も失わずにすんだ。だがそんなのは幸運だっただけだ。里にいた頃は、まだレベルが足りなかった頃は、何人も守りきれなかった。


 百年も二百年も前のことも、今でも色濃く覚えている。里の者たちを死なせてしまったときの後悔を、痛みを、今でも時々夢に見る。人一倍丈夫なせいか体の傷はすぐ癒えるのに、心に刺さった杭のようなものたちはいつまでも抜けない。いつも痛いわけではない。だがふとした時に過去の光景が脳裏に浮かんでは、心の傷口が開く。


 重ねていた手を不意に握られ、びくりとカルラは身を引いた。


「あなたの性格からして、過去のことを吐き出せもせず、かといって忘れられもせず、ずっと引きずっているのではありませんか? そんな生き方をしていては、いつか心を壊しますよ」


 ――そんなん、言われんでもわかっとる。


 カルラは口にしかけた言葉を飲み込んだ。いつからか痛みだしていた胸に、空いていた手を添える。次に誰かに置いていかれるより前に消えてしまいたい。そんな願いが時折浮かんでくる心はまだ壊れていないと言えるのか、よくわからなかったから。


「……うちに、どうせえって言うの」


 ニコルの視線から逃げるように顔を下に向け、眉を寄せながらかすれた声で言う。返ってきた声はあたたかかった。


「時々でいいので、聞かせてもらえませんか。あなたが生きてきた日々のこと。嬉しかったことや楽しかったこと、悲しかったことや辛かったこと、全部聞きたいです」


 聞いてどうするのかと返そうとして、思い出した。以前にも同じ問いを彼に向けたことに。聖都を出てトロノチア王国に向かっている途中、サフィリアについて問われ、


 ――今更どうにもならんことや。そんな話聞いてどうすんの。


 そう尋ねたカルラに、ニコルが強い声で答えた。


 ――話すという行為に意味はあります。誰かに話すだけでも、それは前を向く力になる。僕はそう信じています。


 あの時は、何をどう話したものか迷いながら、ただ思いつくまま喋った。でも初めて胸の内を他人に話して、サフィリアを救う方法など探したところで見つかるはずもなかったのだとニコルに告げられて――長く心に刺さっていたものが、一つだけ抜けたような気がした。他の後悔も同じように話してほしいと、ニコルはそう言っているのだろう。


「二百五十年分?」


「はい。あなたがもういい、話すことがないと言うまで、三十年でも四十年でも聞きますよ」


 は、とカルラは短く息を吐き出した。どれだけ話を聞き続ける気なのだろうと思って。四十年も経ったら、カルラはともかくニコルは老人と呼ばれる年になる。


 でも〝ずっとそばにいる〟と、そう言われたような気がして。


 大切な人たちをうしない続けてすり減った心に、優しく触れられたような気もして。


 さすが慈愛の聖者くんやと言えば怒るのだろうなと考えながら、カルラは言葉を飲み込んだ。手の下にあるアイテムを軽く握る。ひんやりした固い感触を確かめて、カルラはそれを少し前に押し出した。


「これをうちの自由にしてええなら、やっぱりニコルが預かっててくれへん?」


「今は身に着けられないと言うなら、今日のところは引き下がりますけど……ユラかヤマトに預けてもいいんですよ? 双剣使いとの戦いで傷ついたあなたを引き戻したのは、僕ではありませんし」


「ん? 根に持っとる?」


「すみませんね、小さい男で」


 いじけたような声が聞こえてきて、カルラは小さくふきだした。ニコルの回復魔法がなければカルラは今この場にいないのに、何を言っているのだろうと思って。どうして死なせてくれないのかと恨めしく思いもしたけれど、あの時ニコルが助けてくれなければ、重ねられた手の温かさは知らないままだった。


「そないかんでもええやん。あの子らのことは大切やけど、うちが好きなのはあんたやのに」


「…………、今の、もう一回言ってもらっていいですか?」


「は?」


 カルラが顔を上げると、ニコルがずいと前に出てきた。


「僕は何度かあなたに想いを伝えていますが、あなたからそうはっきり言ってもらえたのは初めてです」


「そ、そうやっけ?」


「はい。なのでぜひもう一度」


 ニコルの迫力に負けて座った体勢のまま後ずさる。けれどニコルも追ってきて、そのうち壁際まで追い詰められてしまった。


「もう一回」


「……えぇー……」


 さっきはふと口をついて出たが、改めて言うとなると恥ずかしい。ニコルから顔を背けていたら名を呼ばれ、カルラはしぶしぶニコルに視線を戻した。


「カルラ。僕はあなたが好きですよ」


 ニコルに真っ直ぐな笑顔を向けられると、いつも鼓動が速くなる。顔も耳も首も熱くて落ち着かない。あちこち視線をうろうろさせてから、カルラはどうにか声を絞り出す。


「うち……も、好き……」


 言い終わった途端に唇を重ねられ、驚いてのけぞった拍子にカルラは後頭部を馬車の壁にぶつけた。痛い。


「な、何すんのっ!」


「照れるあなたがあまりに可愛らしかったので、つい。……で、もう一回いいですか?」


「もう一回!? どこから!?」


「さて、どこからがいいですか?」


 ニコルが浮かべたいたずらっ子のような笑みに、心臓をつかまれたような気持ちになる。言葉に詰まったカルラは、


「もうどこからでも好きにせえや……」


 としか返せなかった。




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