《番外》君のためだけに覚えた魔法


 ザムドが初めて魔王城を訪れたのは、五歳になってすぐのことだ。


 魔王城に行ってみたいと父に何度もせがんでいたが、まだ駄目だと言われ続けていた。業を煮やした姉たちが勝手に行くと言い出したので、ザムドもそれに付いて行くことにしたのだ。


 朝、ザークシードが家を出てから、ザムドは姉二人と共にしばらく部屋で遊ぶと母に言って二階に上がる。それからしばらく様子を見て、窓から外に出た姉たちに続いて空に飛び上がった。


 魔王城は思っていたより近かった。町の上空を通り過ぎ、少し森の上を飛んだだけで着いたからだ。


「こんなに近いなら、もっと早く来ればよかった」


「ねー」


 不満げな顔を見合わせたリーナとレナを見て、ザムドも心の中で同意した。


「ねえねえ、どこかから中に入れないかな?」


「それいいね! お父さん、どこにいるのかな?」


「お父さんはいつも、まじゅうたいじに行くから、しろにはいないんじゃない?」


「でも今朝はしろのほうにとんでったよ」


 リーナとレナが頬を紅潮させながら城の二階の窓を覗いている。ザムドはキョロキョロと辺りを見回してみて、自分と年の近い少女が一人、城の裏側に佇んでいるのを見つけた。


 ザムドは姉二人から離れて少女の近くに降りる。少女はザムドに気付いて振り返り、わずかに首を傾げる。


「……だれだ?」


 少女の紅い髪がゆるやかにうねっている。無感動にザムドを見つめてくる、少女の髪と同じ色の瞳を見返しながら、ザムドは笑みを広げた。


「おれ、ザムド! おまえは?」


「……」


 少女はザムドを見つめてくるだけで名乗ってくれない。不思議に思っていたら、リーナとレナが降りてきた。


「ザムド、その子はだあれ?」


「お姉ちゃん、ディアドラさまじゃない?」


「ああ、お父さんが言ってたね」


「グリードさまの子どもでしょ?」


「そうそう。赤いかみの女の子だって言ってた」


 ザムドは姉二人を見てから少女に視線を戻す。ディアドラ、とレナの口にした名前をザムドは頭の中で反芻する。呼ぶには長く感じた。少女はしばらくザムドたちを眺めていたが、ふと思いついたように「ああ」と口を開いた。


「ザークシードの子か」


 リーナとレナがにっこり笑ってそれに返す。


「そうだよ」


「ディアドラさま、お父さんがどこにいるか知ってる?」


 ディアドラは「さあ」と短く答えると、にいと口元に笑みを広げた。そして片腕を軽く上げると、子供のこぶし大くらいの小さな火球を三つ空中に作り出す。


「それより、あそばないか? 三たい一でいいぞ?」


「やる!」


 ザムドはぱあっと顔を輝かせる。リーナとレナも「やる?」「やっちゃう?」とそれぞれ楽しそうに頷き合った。リーナが己の手の周りに風を起こし、レナが水を空中に作り出す。


「まとめてこい」


 ディアドラがそう言ったので、ザムドは右手を強く握ってから飛び出した。リーナの風魔法とレナの水魔法がザムドを追い抜いてディアドラに襲いかかる。


 ディアドラは人差し指をひょいと前に向けた。ディアドラの周りに浮いていた火球のうち二つが勢いよく飛んできて、リーナの風とレナの水にぶつかる。途端に風も水も弾け飛んで、二つの火球がザムドの横を通り過ぎていった。


 ザムドはディアドラに殴りかかる。しかしディアドラはザムドの手首を掴むと、ぐるんとザムドの体を振り回して、リーナやレナのいる方向に向かって投げた。


 わ、と思った次の瞬間にはもうザムドの体は背中から地面に打ち付けられていた。息をつく間もなく火球が降ってくる。咄嗟に体をかばうように前に出した両腕に火球が当たって、激痛が襲ってきた。


「いたいー!」


「あついー!」


 リーナとレナが座り込んで泣き始める。ザムドは背中も腕も痛すぎて、逆に声が出なかった。


「ザークシードの子なら、もっとつよいとおもったのに。つまらん」


 ザムドがどうにか上体を起こすと、ディアドラは笑みを消してザムドたちを眺めていた。


 三対一だというのにまるで勝負にならなかった。ザムドは姉たちと喧嘩になれば一対一でも負けるというのに、ディアドラはリーナ、レナ、ザムドをまとめて倒し、つまらないとまで言った。ザムドとディアドラはそう年は違わないように見えるのに、歴然とした差がある。


 悠然と立つ少女を見上げながら、すっげ、とザムドは心の中で呟く。頬が熱くなってドキドキした。背中も腕もまだ痛かったけれど、ザムドはディアドラを見つめたまま立ち上がる。なあ、とザムドは口を開きかけたが、空からザークシードの「お前たち、何をしとるかッ!」という怒声が降ってきたせいで止まってしまった。


「城には来るなと言っただろう! ディアドラ様、子供たちが失礼をしたようでしたら申し訳ありません」


 ザークシードはザムドたちの傍に降りてきて、ディアドラに向けて頭を下げた。


「べつに。あそんでやっただけだ」


 ディアドラはぷいと顔を横に向ける。けれど「ディア」と落ち着いた声が聞こえてきたかと思うと、彼女はザムドたちの方に視線を戻してきた。ザムドが声のした方を向くと、ザークシードの横にグリードが立っていた。


「ディア。人に火球を当てるなと、あれほど――」


「うるさい」


 グリードの言葉が終わらぬうちに、ディアドラは眉を寄せながらふいと踵を返した。足早に立ち去ろうとする彼女の背に、ザムドは慌てて声をかける。


「なあ! もっかい! もっかいあそぼう!!」


 ディアドラが立ち止まり、目を丸くして振り返る。ザムドは走り出そうとしたが、ザークシードに腕をつかまれて止められてしまった。


「傷の手当が先だ!」


「やだー! おれ、まだあそびたいー!!」


 ザークシードから逃れようと暴れてみるが、ザムドの力では到底父には敵わない。ザムドがザークシードの手を押したり蹴ったりしているうちに、ディアドラはどこかに行ってしまった。


「リーナ、レナ。ディアがすまなかったな。大丈夫か? 傷の手当をするからおいで」


 グリードがリーナとレナに手を差し伸べる。二人は泣きながらその手を取った。


「ザムドもおいで」


 グリードがリーナとレナをそれぞれ片腕で抱き上げてから、ザムドを見る。ザムドは不満の声を上げたが、ザークシードに小脇に抱えられてしまった。


 ディアドラは見えなくなってしまったし、つまらない。確かにまだ背中も腕も痛かったけれど、ザムドはそんなことよりディアドラともっと遊びたかった。しかし父に抱えられては逃げ出すこともできず、ザムドは口を尖らせる。


 仕方がないから明日また遊びに来よう、と自分を納得させることにした。


 ディアドラという名前は長いから、さっきグリードが呼んでいたみたいに、ディアと呼んでみようか。そんなことを考えながら、ザムドはディアドラが向かった方角に再び視線を向けた。



   ◇



 翌日もまたディアドラと遊ぼうと思ったものの、彼女がいつ城から出てくるのかザムドにはわからなかった。城のどこにいるかも知らないから、もう会えそうな場所で待つしかない。


 ザムドは朝食を急いで食べたあと、魔王城まで飛んだ。そして城の屋根に腰を下ろして彼女をただ待った。ディアドラが魔王城の正面から出てきたのを目にし、ザムドは急いで屋根から降りる。


「なあディア! あそぼうぜ!」


「……は?」


 ザムドがディアドラの正面に降り立つと、ディアドラは眉をひそめながら目を瞬いた。


「あそばない」


 ディアドラが早足でザムドの横を通り過ぎていくので、ザムドは小走りになりながらディアドラを追いかける。


「なあなあ、ディアってばー。ディア、なあなあ、ディーアー」


 ザムドがいくら話しかけてもディアドラは返事をしてくれない。けれど森の中をしばらく進んだところで、ディアドラは眉を釣り上げて勢いよく振り返った。


「やかましい! なんなんだおまえは!」


「おれ、ザムド!」


「名をきいたわけではない!」


「なあなあディア、どこいくんだ?」


「……」


 ディアドラは無表情に戻ると、ザムドから視線を外してため息をつく。ザムドは首を傾げたが、ディアドラはもう何も言わなかった。


 ガサリとすぐ近くの茂みが鳴って、黒い毛に覆われた兎が姿を見せる。森には強い魔獣が出るから子供たちだけでは森に入るな、とザークシードが口酸っぱく言っていたことを、ザムドはようやく思い出した。あれ強いのかな、と考えながらザムドは黒兎を見つめる。


 ディアドラがにいと笑い、兎の方に体を向ける。彼女が片手の手の平を上に向けると、その上に大人のこぶし大くらいの火球が出現した。昨日ザムド達にぶつけてきた火球よりずっと大きい。


 大口を開けて飛びかかってきた兎に、ディアドラが手の平を向ける。すると火球が黒い兎に一直線に向かっていき、その身体を包み込んだ。


 火に包まれながら絶叫を上げた兎を、ディアドラが蹴り飛ばす。兎は木に叩きつけられてから地面を一度だけ跳ねて転がり、首を振りながら身を起こす。兎の体から火はほぼ消えていた。


 ディアドラが再び火球を作り出し、兎に当てる。その場でのたうち回った黒兎は、もう起き上がってはこなかった。


「すっげー! なあなあ、そのひのたま、どうすんの? おれにもできるかな!?」


 ザムドがぱあっと顔を輝かせてディアドラに駆け寄ると、ディアドラはきょとんと目を丸くした。けれど、ディアドラはすぐにまた森の奥に向けて歩き始めてしまって、もうザムドを見ていなかった。


 その後もディアドラは魔獣を見つけては攻撃し、どんどん倒していく。


 ディアドラを見ているうちにうずうずしてきたザムドは、次に黒兎が姿を見せるや否や、腕を振りかぶって飛びかかった。ザムドは兎の額に拳を当てたけれど、硬い石でも殴っているみたいな感触があった。黒兎を倒すどころか逆に跳ね返されて、ザムドは尻もちをつく。


 ばくっと兎が大口を開けたところに、ディアドラが火球を投げ込んだ。


「火でもたべてろ」


 尻もちをついたままザムドが振り返ると、ディアドラが兎を見ながら笑っていた。ディアドラはザムドの横を通り過ぎて黒兎に近付き、その顎を蹴り上げる。空中に浮いた兎にまた火球を当てて吹き飛ばすと、その兎は地面に落ちて動かなくなった。


 ザムドが殴ってもびくともしなかったのに、ディアドラはあっさりと倒している。ザムドは頬を紅潮させながら勢いよく立ち上がり、ディアドラの前に回って顔を近づけた。


「なあなあ、やっぱりもっかいやろうぜ!」


「!?」


 ディアドラが目をぱちくりさせながら一歩後ずさる。それからじろりとザムドを睨んだ。


「おまえ、よわすぎるからいやだ。つまんない」


「えー、じゃあ、つよくなったらいい?」


「……なったらな」


「わかった!」


 にこにこと笑っているザムドを見て、ディアドラは首を傾げながら眉をひそめる。けれどすぐに視線を森に向けると、周囲を見回しながら進み始めた。ザムドも魔獣を探しながら追いかける。


「なあ、ディアってレベルいくつ?」


「五十二」


「すっげーな! おれ七!」


「きいてない」


「なあなあディア、そんでさ」


「うるさい……」


 ディアドラが帰ると言い出すまで彼女について回り、魔王城に戻る頃には、ザムドのお腹はうるさく鳴りわめいていた。



   ◇



「遅い! どこ行ってたの!? お昼ごはんの時間はとっくに過ぎてるわよ!」


 ザムドが家に帰ると、家の前でミュリアナが腕を組んで仁王立ちになっていた。怒り心頭の様子の母を見て、ザムドは顔を引きつらせながら後ずさる。


 逃げ出したいが昼食も食べたい。家にも入れず逃げることもできず、母の前でオロオロしていたら、家の扉が開いた。リーナとレナが家の中から覗いている。


「お母さん、お父さんにれんらくしたよ」


「すぐかえるってー」


「そう、ありがと」


 ミュリアナは一度振り返ってリーナとレナを見てから、ザムドの方に大股で近付いてくる。怒った表情のまま「早く家に入りなさい!」と告げた。


 ザムドは慌てて駆け足で家に入り、手を洗う。キッチンの食卓には三人分の食事が置かれていた。もう湯気は出ていない。リーナとレナの食器はシンクに片付けられている。


「ザムド! お前どこに行っとった!」


 ザムドが自席に座ってからほどなくして、ザークシードがキッチンに入ってくるなり怒鳴った。ザムドはビクッと肩を跳ね上げてから父を見る。


 ザークシードはいったん手を洗ってくると言って引っ込んだ。けれどすぐ戻ってきて、どかどかと足音を立てながらザムドの向かいの席に近付き、やはり大きな音を立てて座る。


 ミュリアナもザークシードの隣に座ると、眉を釣り上げたままザムドを見た。


「部屋にもいないし、お姉ちゃんたちも知らないって言うし、町にもいないし……。勝手に出かけちゃ駄目っていつも言ってるでしょう。お父さんに探しに行ってもらったのよ」


「ご、ごめん……」


 ザムドはしゅんと肩を落としたが、視線を落とした先には冷えた昼食があって、腹からまたぐうという音が鳴った。ミュリアナがため息混じりに「食べなさい」と言ったので、ザムドは急いでパンにかぶりついた。


「で、どこに行っていた」


「ひあほほりひひっへた」


「ごっくんしてから喋りなさい。もう……私たちも食べましょ。いただきます」


「うむ」


 ミュリアナとザークシードも食事を始める。ザムドは口に含んでいたパンを粒の大きいまま飲み込むと、笑顔を広げて言った。


「ディアともりにいってた!」


「ディア……ドラ様とか?」


「うん!」


 ザムドは芋の沈んだスープに手を伸ばす。いつもなら熱くて息を吹きかけながら飲むしかないスープももう冷たい。器を両手で持って一気に飲み干した。それから残った芋をスプーンですくって口に運ぶ。食事は冷えていても、限界を越えた空腹のせいかまだ冷めやらぬ興奮のせいか、いつもより美味しく感じた。


 ミュリアナとザークシードはそれぞれ困惑した表情を浮かべながら顔を見合わせている。


「それで……ディアドラ様とは何をしたの?」


 ミュリアナがザムドに視線を戻してきたので、ザムドは芋を飲み込んでから笑顔で答える。


「くろいウサギがでてきて、ディアがひのたまでばーってたおして、そんで――」


 ザムドのパンチではびくともしなかった黒兎や土モグラ、大きな鳥などの魔獣を次々と倒していくディアドラは、思い返してみても格好良かった。いつの間にかザムドは食べるのも忘れて話し続けていた。


 ミュリアナに「わかったから、ご飯を食べなさい。お皿をピカピカにして」と言われ、ザムドは再び食事に目を向ける。残っていた肉にかじりつくと冷たくて固かった。


「どう思う? ザック」


「む……。ディアドラ様と喧嘩にならぬなら良いが、かといってザムドに森は早すぎるしな……」


「そうよねえ。でも、ディアドラ様には年の近い友達もいないみたいだし、ザムドもすっかり夢中だし……もし仲良くなれるんだったらいいことよねえ。うーん」


 ザムドは無言で肉を頬張りながら、何やら悩んでいる様子の両親をちらちらと見た。理由はわからないが、もう怒ってはいないらしい。でも自分とディアドラのことで二人が相談していることはわかる。


 もう遊びに行くなと言われたらどうしよう、と考えながら口と手を動かしていたら、「少し様子を見ましょう」とミュリアナが片手を頬に当てながら息を吐いた。ザークシードが一度頷いてからザムドを見る。


「いいかザムド。できるだけ森には降りないこと。もし降りるなら、ディアドラ様から絶対に離れるな。危ない遊びもするんじゃないぞ」


「うん! わかった!」


 ディアドラと遊ぶことは禁止されなかった。やったと顔を輝かせ、ザムドは勢いよく椅子から降りた。雑に食器をまとめると、早足で流しに運ぶ。もう一度ディアドラのところに遊びに行こうとキッチンを飛び出しかけたら、「口を拭きなさい!」とミュリアナに捕まった。



   ◇



「ディア、あそぼうぜ!」


 昼食後にもう一度魔王城に行くと、ディアドラは城の裏庭にいた。彼女の隣には小柄な白髪混じりの男が立っている。


 ザムドがディアドラの前に降り立つと、ディアドラはげんなりした目をザムドに向けた。

 

「……またおまえか」


「うん! あそぼう!」


 ディアドラは何も答えずにザムドから視線を外した。ザムドはディアドラの横にいた人物が自分を見つめていることに気がついて、彼に顔を向けてみる。


「おっちゃん、だれ?」


 ザムドが首を傾げると、その男は「ほっほっほ」と笑いながら顎ひげをさすった。


「儂は五天魔将の一人、カリュディヒトスじゃ。お前さんはザークシードのところの小僧か?」


「うん! なあなあ、ってことはおっちゃんもつよいのか?」


「さて、どうじゃろうな。ではディアドラ様、儂は失礼します」


 カリュディヒトスはディアドラに一礼すると、踵を返して立ち去っていく。ザムドは少しだけそれを眺めてから、ディアドラに向き直った。


「で、なにする?」


「……」


 ディアドラはしばらく無表情でザムドを見つめていたが、突然口元を笑みの形に歪める。


「まとあて。いくぞ」


 ディアドラの周囲にいくつもの小さな火球が出現する。その一つがザムドに向かってきたので、「わ」と声を上げながら慌てて避けた。火球は地面に当たって小さく爆ぜる。


 二つ目の火球はザムドの左手に当たった。熱くて動きを止めてしまったせいで、三発目は腹にまともに浴びた。地面に転がったザムドを見下ろしながら、ディアドラはやはり口だけに笑みを広げていた。


「へたくそ」


 他の火球をふいと消すと、ディアドラは森の方に歩き始める。置いて行かれると思ったザムドは慌てて立ち上がってそれを追った。腕も腹も痛かったが、それより置いて行かれたくないという気持ちが勝った。


「もうおわり? つぎはなにするっ?」


 ディアドラに追いつくと、彼女は足を止めて振り返った。ディアドラはもう笑っておらず、紅い目を丸くしてザムドの顔を見つめている。


「みんな、おこるかにげるかなのに……」


「?」


「おまえ、よわいのに、わたしがこわくないのか?」


「なんで? おれ、つよいやつ、だいすきだ!」


 ザムドは満面の笑みを浮かべてディアドラを見上げた。ディアドラはしばらくぽかんとザムドを見下ろしていたが、ふ、と息を吐くと同時に少しだけ目尻を下げる。


「……へんなやつ」


 その表情はさっきまでの口元だけの笑みとは全然違って、ザムドはその時初めて、彼女の笑顔を見た気がした。


 ディアドラはまた森に向き直ると、すたすたと歩き始める。ザムドは彼女の背中を小走りで追いかけた。ディアドラは一度ちらりとザムドを振り返ったが、特に何も言わなかった。


 森で何をするのだろうと思っていたら、ディアドラは朝と同じように魔獣を狩り始めた。彼女が小さな火球を自在に操っているのを見て、ザムドも手の平に魔力を集めてみる。


 最初は何も出てこなかったが、戦っているディアドラをちらちら見ながら試行錯誤しているうちに、ぽっとロウソクの火みたいな小さな小さな光がザムドの手の平の上に生まれた。


「ディア! みてみて!!」


 ザムドが小さな火をディアドラに向けると、彼女はザムドの手の平をぺちんと叩いて火を消してしまった。


「小さい。もっと大きくしろ」


「うん!」


 周囲に魔獣がいなくなってしまい、ディアドラが移動を始める。次に出てきた鳥をディアドラが倒したところで、ピロン、と小さな音がザムドの脳内に響いた。レベルが上がった音だ。


 ザムドが自分のステータス画面を出すと、レベルが八に上がっていた。


「ディア、おれレベルあがった!」


 ザムドは飛び跳ねながらディアドラを見たが、彼女は「ふうん」と言うだけで一瞥をくれることもしなかった。自身のステータスウインドウを消してから、ザムドは周囲を見回してみる。レベルが上がったなら、午前中と違って何か倒せないかなと思ったのだ。


 ガサリとザムドの側の茂みが鳴って、また黒兎が姿を見せた。ザムドは午前中と同じように殴りかかってみる。けれどやっぱり同じように兎の頭は硬い石みたいで、殴ったザムドの方が跳ね返されて尻もちをついた。


 兎がぴょんと跳び上がり、ばくっと大口を開けた。鋭い歯がギラッと光りながら近付いてくる。

 

「つっ――」


 肩に激痛が走ると同時に、ザムドの意識はふつっと途切れた。



   ◇



 ディアドラが相手をしていた土モグラが動かなくなったので、次を探すために振り返る。


 黒い兎がザムドの上に乗っているのが目に入り、ディアドラは兎の頭に火球を当てた。悲鳴を上げながら飛び退いた黒兎が、今度はディアドラに向かって跳ねてくる。ディアドラは兎が己にたどり着く前に、また火球を三つ連続でぶつけて弾き飛ばした。木に叩きつけられた黒兎は、ぷすぷすと黒煙を上げながら落ちて動かなくなった。


「おい、おきろ」


 地面に転がったままのザムドに近付いて、ディアドラは声をかける。けれどザムドは動かなかった。


 ザムドの首の付根から脇の下あたりにかけて、弧を描くように歯型が並んでいる。そこから血が脈打つようにどくどくと流れ出ていた。


 深く噛まれたらしいことはわかる。これだから弱い奴は、とディアドラは眉をわずかに寄せた。放っておけば死ぬのだろうが、昨日会ったばかりの子供がどうなろうとディアドラの知ったことではない。


 ふいと踵を返して立ち去ろうとして、けれどなかなか動く気になれなくて、ディアドラは横たわるザムドを振り返った。

 

「……」


 弱いくせになんで付いて来た、とディアドラはザムドを睨む。


 彼は他の子供と三人がかりでも手も足も出ないほど弱いし、限りなく加減して放った火球すら避けられないで地面に転がる。弱いなら、他の弱い奴らみたいに、怯えるなり逃げるなりすればいいのに、なぜか笑顔で寄ってくる。その理由がディアドラには理解できない。


 普段のディアドラなら迷うまでもなくとっくに立ち去っていた。けれど今日はどうしてもその場から動けなかった。


 ――おれ、つよいやつ、だいすきだ!


 迷いなくそう言った時のザムドの笑顔が頭から離れなかったからだ。


 初めてだったのだ。ディアドラより弱い者がディアドラの攻撃をくらってなお笑顔で寄ってきたのも、面と向かって大好きだと言われたのも。


 戦う以外の遊び方をディアドラは知らない。だがどれだけ加減しても、たいていの者はディアドラの攻撃を受けると熱いだの痛いだの言って、怯えて逃げる。そのたびグリードには叱られる。


 ディアドラより強いのはグリードか、今は三人しかいない五天魔将くらいだ。しかしグリードは、食事の時間以外は朝から夜まで執務室にこもっているかナターシアのどこかに出かけているかで、話すことすらあまりない。


 ザークシードやカルラもあまり見かけないが、そもそもザークシードもカルラもうるさいから話しかけたくない。カリュディヒトスはうるさくはないが、時折話しかけてくるだけだ。戦ってはくれない。


 ザムドもだいぶうるさかったのだが、作り笑いではないキラキラした笑顔でずっと話しかけ続けてきた彼に、苛立ち以外の感情を覚えたのも確かで。


 己の内に初めてわいた感情の意味を理解できず、ディアドラは舌打ちをした。


「よわいやつは、きらいだ」


 ディアドラは眉を強く寄せながらザムドの前にしゃがむと、彼の傷ついていない方の肩を引く。自分の肩の上にザムドの胸から上を乗せ、彼のお尻の下に両腕を回して前に抱えた。それから背中の羽を広げると、魔力を込めて飛び立った。


 ディアドラには傷を癒やすような魔法は使えなかった。だから抱えて帰るしかなかったのだ。ザムドの荒い息づかいを聞いていると、どうしてだかとても不快だった。


 出せる限りの速度で魔王城に戻り、ディアドラは二階のある窓に向かう。ザムドをどこに連れていけばいいか、その場所以外に思いつかなかったからだ。


 そこはグリードの執務室の窓だった。カーテンはかかっていないが窓は閉まっている。窓ガラスの向こうにグリードの後頭部が見えて、ディアドラはその窓を蹴破った。


「ディア!?」


 グリードが弾かれたように立ち上がって振り返る。ディアドラは空中に浮かんだまま、グリードに向かって叫んだ。


「こいつ、どうにかしろ!」


「!」


 グリードが部屋の扉に駆け寄ってそれを開け、「誰か、急いでジュリアスを呼んできてくれ!」と声を上げる。誰かの足音がバタバタと遠ざかっていくのが聞こえた。


 振り返ったグリードと目が合い、ディアドラは少しだけ身を引いた。


「ディア、おいで。ザムドを客間に寝かせよう」


「……いかない」


 ディアドラはザムドをグリードに投げ渡すと、ふいと身を翻して壊れた窓から外に出た。グリードが自分を呼ぶ声を黙殺し、別の窓から自室に戻る。肩の周りにべったりとついた血が気持ち悪かった。



   ◇



 ザムドが目を開けると、ザークシードとジュリアスが自分を覗き込んでいた。


「?」


 ザムドが目をぱちぱちと瞬くと、ザークシードもジュリアスもほっとしたように息を吐いた。ここどこだっけ。ザムドは周囲を見回してみる。知らない部屋だ。なぜかふかふかのベッドに寝かされていた。寝起きのせいか、少し頭がぼんやりする。


「ザムド、大丈夫か?」


 ザークシードに問われ、ザムドは「ん? なにが?」と首を傾げる。「あっ、おれ、のどかわいた」と言いながらザムドが身を起こすと、ザークシードは苦笑した。


 ジュリアスがザークシードを見上げる。


「ザークシード様。大丈夫そうなので、私は失礼します」


「助かった。ありがとうジュリアス。ザムド、お前も礼を言いなさい」


「なんで?」


 ザムドはジュリアスを見上げて首を傾げた。母親同士がよく互いの家を行き来しているから、ザムドはジュリアスにはたまに会う。


 けれど帰宅時間を忘れて話し続ける母親を呼びに行ったり、母に頼まれて何かを届けたりするときに顔を見るという程度だ。七つも歳の離れたザムドとジュリアスの間に交流はあまりない。


 そもそも歳が近くても、暇さえあれば魔王城の書庫に通って本を読んでいるというジュリアスに、ザムドが話しかけることはまずない。ザムドは本は苦手だ。


「ザムド、ジュリアスがお前の怪我を治してくれたのだ」


「そうなの? ありがとな!」


 笑顔でそう言ってから、ザムドは自分の体を見下ろしてみる。体の右側は服に穴が空いているし、血が部分的に乾いてべたっとしていた。ベッドを見下ろしたらシーツも血で汚れている。


 黒兎と戦っていたはずだった。黒兎が飛びかかってきたところまでしか思い出せなかった。そういえば一緒にいたはずのディアドラがいない。ザムドがキョロキョロと部屋を見回していたら、扉が開いてグリードが入ってきた。


「ザムド、怪我はもう治ったのか?」


「うん。おれ、げんきだよ!」


「そうか、良かった」


 グリードはザムドの体を眺めてから、ザークシードの方に向き直る。


「昨日といい今日といい、娘が怪我をさせてしまったようですまない」


「何をおっしゃいますか。ザムドを連れ帰ってくださったのはディアドラ様なのでしょう」


「しかし……少なくとも腕と腹の火傷はディアだろう」


「まあ、事情を聞いてみないことには何とも言えませんな。昨日も双方合意の上でやりあったようですし。ところでディアドラ様は?」


「部屋にはいなかった。脱いだ服は部屋にあったから、着替えてからまたどこかに行ってしまったようだ」


 大人たちはまだ話しているが、ザムドとしては喉が渇いたし、またディアドラと遊びに行きたい。もう行っちゃおっかな、とベッドから足を下ろそうとしたら、ザークシードとグリードがザムドを見た。


「待てザムド。何があった?」


 ザークシードにそう問われ、今日ディアドラと何をして遊んだかを言えばいいのだろうかとザムドは考える。


「えーっと、まとあてして、もりでディアがまじゅうをたおして、……あっ、おれ、レベルあがった!」


 ザムドは自身のステータス画面を出して、ザークシードに見せる。ザークシードがザムドのステータス画面を覗き込んだ。


「確かに上がっている、が……ディアドラ様が魔獣を倒して、お前のレベルが上がったのか?」


「うん!」


 ザムドは笑顔で父を見上げたが、ザムド以外の三人はなぜか顔を見合わせた。


「経験値は、双方が相手を同行者として認識していなければ共有されないはずです」


 ジュリアスがそう言って、ザークシードとグリードが頷いている。ザムドにはなぜ三人が驚いているのかわからなかった。


 グリードがザムドを見下ろす。


「ディアがザムドを同行者として認めた、と?」


「そうなりますな」


 ザークシードも同じようにザムドを見下ろしてきて、ザムドは首を傾げた。


「おれ、あそんできていい?」


「今日は駄目だ。グリード様、本日はこれで失礼してよろしいでしょうか。倅を連れて帰ります」


「もちろんだ。ジュリアスもご苦労だった」


「はい」


 あっこれ逃げないと遊べなくなるやつだ、と焦ったが、ザムドがベッドから降りるよりザークシードがザムドを抱える方が早かった。


 暴れたところでザムドがザークシードの腕から逃げ出せるはずもなく、そのまま自宅まで連れて帰られた。



   ◇



 翌日も朝からザムドは魔王城の屋根に座って、ディアドラを待ってみた。けれどいつまで経っても彼女が出てこなかったので、ザムドは一つ一つ窓から中を覗いてみることにした。


 城の構造なんて知らないので、二階の端から順に中を覗いてみる。しばらく窓を覗き続けたところで、ようやくディアドラの赤髪が見つかった。


「ディアー!」


 名前を呼びながら窓を叩くと、ベッドに転がって何かの本を読んでいたディアドラが、ザムドの方に顔を向けた。ディアドラが目を見開く。そして読んでいた本を閉じると、本を持ったまま早足で窓の前まで歩いてきた。


「ディア、あそぼうぜ!」


 ザムドは笑顔で顔を前に出し、ごちん、と窓枠に額をぶつけた。額がじんじんして、ザムドは思わず両手で頭を押さえる。


 内側から窓が開き、ディアドラが呆れたような目をザムドに向けてきた。


「……なんなんだ、おまえは」


「おれ、ザムド!」


「だから名をきいたわけではない!」


 ディアドラが眉を釣り上げたので、ザムドは首を傾げることでそれに返した。お前は何か、と問われたから名前を答えたのに、ディアドラが何を聞きたかったのかザムドにはわからなかった。コップを指差してあれは何かと聞かれたら、普通はコップと答える。同じようにしただけのつもりだった。


 ディアドラは一つ息をついてから、ザムドの頭に手を伸ばしてくる。ちょん、とザムドの額に指を触れた。


 あったかい、と思いながらザムドがディアドラの指に目を向ける。じんじんしていた額から、ゆっくりと痛みが引いていった。


「ありがと! ディアはかいふくもできるんだな」


「……べつに」


 ディアドラが持っていた本を雑に投げた。床に落ちたそれをちらりと見ると、表紙には〝やさしい✕✕✕✕〟と書かれている。✕の部分はザムドには読めなかった。


 本に興味はなかったから、ザムドはすぐにディアドラに視線を戻し、「あそぼう」ともう一度誘った。ディアドラが羽を広げて窓から外に出てくる。そしてザムドの隣に並ぶと、片手を腰に当てながらザムドに顔だけを向けた。


「わたしはもりにいく」


「おれもいく!」


「……おまえ、よわいんだから、ちゃんとよけろよ」


「わかった!」

 

 ディアドラが黙って飛び始めたので、ザムドもそれを追いかけた。



***


 超攻撃的なディアちゃん(ゲームの方)が少しだけ回復魔法を使えたのは、弱っちいザムドを治してあげるためだけに覚えたからである、というお話でした。

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