《番外》ディアドラ一歳、熱を出す


 ディアドラが生まれて初めて熱を出したのは、彼女が一歳になってすぐのことだった。


 その知らせを使用人から聞いたグリードは、足早にディアドラの部屋へと向かう。そういえば今朝の朝食時、スプーンを口に含ませようといくら差し出しても、彼女は逃げるように上体を左右に振っていた、ということを思い出しながら。


 ディアドラはもともと偏食なのか気分屋なのか、離乳食を与えても食べたり食べなかったりする。てっきりいつものイヤイヤかとさほど気にしていなかったが、その時から体調が優れなかったのだろうか、とグリードは娘の体調を思いやれなかったことを後悔した。


 まだ「あーう」「だーだっ」などの喃語しか話せないディアドラから彼女の主張を読み取るのは難しい。


 楽しい、不満、アレが欲しい、程度のことは表情や声音、視線、身振りから読み取れる。けれどそれ以上のことは、少なくともグリードにはわからなかった。


 グリードの妻であったサフィリアが亡くなってからもう一年になる。彼女が生きて娘の傍にいてくれたなら、ディアドラの体調の変化にもすぐ気が付いてくれたのだろうか――それは考えても仕方のないことだった。けれどどうしても、グリードは考えてしまうのだった。


 そしてサフィリアの最期の姿を思い出しかけてしまい、慌てて振り払う。


 グリードより先に子供を持った友人たち、シリクスやザークシード、フルービアやミュリアナの助けを得てどうにか育ててはいる。しかしディアドラは生来強い魔力を持っているようで、一歳になる少し前から、感情のままに泣き叫ぶたび魔法を暴発させるようになった。幼子の魔法とはいえ先日はフルービアに怪我をさせてしまった。


 これからはディアドラが自身で魔力を制御できるようになるまでは、あまりレベルの高くないミュリアナやフルービアをディアドラに近付かせるわけにはいくまい、とグリードは思っている。特にミュリアナは三人目を出産したばかりだ。念願の男の子だと、ザークシードがとても喜んでいた。


 ディアドラの泣き声は廊下にまで響いている。きっと部屋の中は惨状と表現したくなるような状態であるのだろう、と鬱々たる気持ちで考えながら、グリードはディアドラの部屋の前まで歩いていった。


 グリードは部屋の戸を一応ノックしてから、それを開ける。その瞬間、廊下に響く泣き声の音量が上がった。グリードが部屋に足を踏み入れるより早く小さな炎が襲ってきて、グリードはそれを片手で払い除ける。


「ディアドラ様! 熱があるなら寝てください!」


「ああああー! うあー! やー!!」


 ザークシードがディアドラをなだめようとしているが、ディアドラは涙をぼろぼろとこぼしながら座って手をばたつかせている。


 かなり魔力を暴発させたようで、替えたばかりのカーテンにはあちこち焦げたような穴が空いているし、家具や壁の黒い焦げ跡もグリードが知るより増えている。


 ディアドラが魔法を放っても傷がつかないような結界を部屋に張れないかシリクスに相談してみよう、と考えながらグリードはため息をついた。


 ディアドラの世話をしてくれていた使用人は部屋の隅に避難していた。その服にも焦げ跡がいくつもついている。


「ディア、落ち着きなさい」


 ディアドラから放たれた小さな炎を何度か払い除けながら、グリードは彼女に近付いていく。グリードがディアドラの隣に膝をついて座ると、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔だけをグリードに向けてきた。


「だーう、あー!」


 ディアドラには何か主張したいことがあるらしいが、グリードには全くわからなかった。グリードがザークシードに視線を向けてみても、返ってくるのは苦笑だけだ。ザークシードはお手上げだとでも言いたげに肩をすくめた。


 ディアドラは座った体勢から両の手を床に付き、腰を浮かせてよつばいの姿勢になると、グリードの膝に小さな手を乗せてくる。いつもなら彼女はグリードが触れようとすると逃げるのに、だ。触れた手の熱さ以上に、珍しくディアドラから近付いてきたことに驚いて、グリードは目を丸くした。


 ディアドラはそのままグリードの膝に上半身を乗せ、己の頭をグリードの腹に押し付けてくる。そして泣きわめいていたのが嘘のように、顔を横に向けて静かになった。


「……ディア?」


「たー、うー、なんなんなー」


 彼女が何を言っているのか、グリードにはわからない。ディアドラの目はいつもの半分くらいしか開いておらず、眉をわずかに寄せて難しい表情をしている。頬から耳にかけてが真っ赤に染まっており、グリードのももに乗せられた頭も上半身も、湯かと思ってしまうほど熱かった。呼吸も心なしかいつもより速い。


 熱で辛いのだろうかと考えながら、グリードはディアドラの頭の上に視線を落とす。生後すぐはほとんどなかった髪も、ようやく頭を覆う程度には伸びた。赤子の髪は大人と違って細くやわらかい。サフィリアにそっくりな赤髪は、くせっ毛なのか毛先だけがくるんと丸まっていた。


 グリードはそっと娘の頭を撫でてみる。普段ならこんなことは彼女が寝ている間くらいしかさせてもらえないのに、ディアドラは抵抗もせず黙ってされるがままになっていた。


「グリード様、水です。飲ませられますか?」


 使用人が小さなコップをグリードに差し出してくる。中には水がたっぷりと注がれており、ストローも刺さっていた。ディアドラの寝転がるような体勢ではうまく飲めないかもしれない、と、グリードは恐る恐るディアドラを抱き上げる。そして腹と腹を合わせるように己の太ももに座らせた。


 ディアドラは相変わらず難しい顔をしているが、やはり抵抗をしない。黙ってグリードに寄りかかっている。


 珍しい娘の反応に戸惑いながら、グリードはコップとストローをディアドラの口に近づける。ディアドラはその小さな口でストローをくわえ、水を勢いよく飲み干した。


「ディア、大丈夫か?」


「……、たた……」


「!」


 ――パパ。


 そう言われたような気がして、グリードは再び目を丸くした。もしかしたら全然違うのかもしれないけれど、そういうことにしておきたい。


 不思議なことにそのたった一言で、この一年の苦労が全て報われたような気さえした。サフィリアを亡くしてからずっと暗く沈んでいた心に、仄かな灯りが生まれたようだった。


 グリードはコップを床に置き、片手で娘の背を支えながら、もう片方の手で彼女の頭を撫でる。するとディアドラはグリードの腹に頭を押し付けたまま、ごしごしと顔を擦り付けてきた。こういうのは眠いというサインだと、以前シリクスが教えてくれた。


 ディアドラがグリードの腕に頭を乗せる。娘の目が眠そうにとろんと閉じていくのを眺めていたら、グリードの口元は自然と緩んだ。


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