05-04 過ぎ去った日々の物語(1)
「……さま、グリード様!」
肩をジュリアスに揺すられ、グリードははっとして顔を上げた。ジュリアスが執務室の机の向こうから、身を乗り出してグリードの肩をつかんでいる。
そんな風に呼ばれるまでずっと物思いに耽ってしまっていたことに気が付いて、グリードはゆっくりと息を吐いた。
「どうかされましたか?」
「いや……」
ジュリアスの気遣わし気な視線から逃げるようにグリードは目を伏せ、逡巡してから立ち上がった。
「すまない、業務の残りは明日に回してくれるか」
「それは構いませんが……」
ジュリアスが何かを言いかけてから口を閉ざし、それからもう一度口を開く。
「私でよろしければ、お話くらいは伺えますよ。お聞きすることしかできないとは思いますが」
「……」
ジュリアスを見ると、彼は真剣な表情でグリードを見つめていた。ジュリアスの瞳に戸惑いはなく、何かを察しているように思えた。ディアドラが突然母のことを口にした理由を、彼は知っているのかもしれないと。
グリードは再び椅子に腰を下ろし、窓の外に目を向ける。外は相変わらずの曇り空だ。ナターシアでは雷雨が降ることはあっても晴れることはない。
「……ディアに、母のことを聞かれそうになってな。私は答えられなかった」
はあ、とため息をつきながら、片手を己の顔に押し付ける。
「わかってはいたのだ。あの子が聞いてこなくとも、いつかは話さねばならんと。お前の母は私のせいで呪いを受け、弱って死んだのだと」
グリードの妻であったサフィリアを埋葬してから、もう十二年。それだけの時間が経っているというのに、今でも彼女のことを思い出すたびグリードの心は暗く沈む。彼女との思い出は幸せなものばかりだったはずなのに、何か思い出そうとすると、彼女を失ったときの痛みに身を引き裂かれるような気持ちになる。
それを察してか、周りの者たちはグリードにサフィリアの話を振ってくることはほとんどなかった。何でもズケズケと言ってくるあのカルラですら、サフィリアについてだけはたったの一度触れたっきりだ。彼らにずっと甘えてきたことを、グリードは自覚してはいる。
先代の魔王を討つと決めた時、グリードは一人で行くつもりだった。だがシリクスとサフィリアは一人では行かせないと言ってグリードについて来てくれた。シリクスはともかく、サフィリアは連れて行くべきではなかったと今でも後悔している。連れて行かなければ、先代魔王が最後に放った死に至る呪いを、彼女が受けることなどなかったのだ。
先代魔王を討ったこと自体に悔いはない。当時はただでさえ少ない食料や資源が奪い合いになり、それでも足りずにフィオデルフィアに略奪に向かう者も少なくなかった。殺伐としていたナターシアを少しは変えられたという実感はある。ただ、サフィリアを巻き込んではいけなかった。彼女が死んだのは、彼女が魔王討伐についてくることを許し、そして守りきれなかった自分のせいだと――グリードは今でもそう思っている。
「私は……怖いのだよ。お前のせいで母は死んだのだとなじられるなら良い。恨み言ならいくらでも聞こう」
グリードは顔を押さえていた手を下ろし、窓の外に目を向けたまま言った。
「だがディアを産んだ直後にサフィリアが息を引き取った時、ディアよりもサフィリアに生きていて欲しかったと、一瞬でも考えてしまったことを、ディアに気付かれてしまったら? ……そしてそれが、ディアを傷つけるかもしれないのが怖いのだ。ようやく笑いかけてくれるようになったあの子の笑顔を失うのではないかと……」
娘より妻に生きて欲しかったと考えたことなど、口にするつもりはグリードにはもちろんない。それに今はそんなことは微塵も思っていない。しかしディアドラが「お母様って」と口にした瞬間、ついグリードが身を縮めてしまったことで、慌てたように食事を片付け始めた彼女なら、何かの拍子に察してしまってもおかしくはない。
もし、産まれた瞬間から愛せたわけではないのだとディアドラが知ってしまったら、どのような反応をするのだろうと考える。お父様と笑いかけてくれるようになった彼女が、またグリードを避けるようになるかもしれない。
数年前までディアドラは、グリードが話しかけてもほとんど返事をせず、にこりともしなかった。当時はそれが当たり前だったから、子育てとは難しいと頭を悩ませるだけだった。けれど娘が笑いかけてくれたときに感じる心の温かさを知ってしまった今、彼女がもう笑ってくれなくなったらと想像するだけでグリードの心は痛む。
「私は、自分のことばかりだな」
グリードはそう言って、自嘲するように口元を歪めた。ずっと黙っていたジュリアスが首を横に振る。
「決してそのようなことはありません。ディアドラ様を傷つけたくないという優しさではありませんか」
ジュリアスの言葉にグリードは答えない。いや、何も答えられなかった。
ふう、とグリードはもう一度息をつく。食事中に突然サフィリアの話を振られた時は動揺して何も言えなかったが、ディアドラが母に興味を持ったというなら、いつまでも黙っているわけにはいかない。
グリードはデスクの一番下の引き出しに視線を向けると、それをゆっくりと開けた。引き出しには書類や本が詰まっている。
引き出しの一番奥にしまわれた薄いノートを一度だけちらりと見てから、グリードは引き出しをもとに戻した。
◇
食事を終えた私は、ザムドを探すために魔王城の屋根まで飛び上がった。
周囲を見回してみると、ザムドとザークシードが並んで町の方に飛んでいくのが目に入る。どこかに行こうとしているのかもしれないけれど、とりあえず暇な時間があるかどうかだけは聞いてみよう。
「ねえ、ザムドー!」
二人を追いかけ、距離が近づいたところで後ろから声をかけると、ザムドが止まって振り返ってくれる。こちらの姿を見てザムドはぱっと顔を輝かせたかと思うと、片手を上げてぶんぶん振ってきた。やっぱり犬みたいだ。
「ディア! 俺に用か?」
「うん。午後はやっぱりザムドと遊ぼうかと思って。今日は暇?」
「遊ぶ遊ぶ! 何する!?」
ザムドが私の周りをくるくると飛び回り始める。ザークシードが手を伸ばしてザムドのシャツの首元を後ろから捕まえた。
「落ち着かんか! ディアドラ様、先にこやつに昼食だけ食べさせてもよろしいでしょうか?」
「あ、うん。ごめんね、今からお昼だった?」
ザムドはええーと不満げな声を上げているけれど、さすがにご飯は食べた方がいい。じゃあザムドがお昼を食べている間は何か本でも読んで待とうかな。そんなことを考えていたら、ザムドが私を見て言った。
「じゃあ今から俺んちに遊びに来いよ!」
「今から!?」
私は驚いて目を丸くしたけれど、ザークシードは「それはいいですね」と言って笑った。
「いやいやいや、さすがにいきなりは迷惑じゃ……」
「いえ、家内が喜びます。ご迷惑でなければぜひ」
「よし! 行こうぜディア!」
「ええー? いいのかな……」
ザムドに手を引かれ、ザークシードとザムドの後ろを飛んだ。
そういえばザムドの家がどのあたりにあるかまでは知っているけれど、彼の家に入ったことはない。ザークシードの奥さんにも会ったことはない。どんな人なんだろう? リーナとレナも家にいるのかな?
そんなことを考えていたら、すぐにザムドたちの家についた。二階建ての一軒家。シリクスさんの研究室よりずっと広そうだ。ザムドが扉を開けるやいなや家の中に駆けていき、ザークシードが私を中に入れてくれた。
「お、お邪魔しまーす」
おそるおそる中に入ると、廊下と上に続く階段、それから廊下の両脇に三つの扉が見えた。カルラの家やシリクスさんの研究室は外から開けたらいきなりリビングだったけれど、廊下から始まる家もあるらしい。
左側の扉が開いたかと思うと、一人の小柄な女性が戸惑ったような顔で出てきた。ザークシードやザムドたちは揃って褐色の肌をしているけれど、その女性だけは普通の肌色をしていた。でも髪はリーナやレナと同じ深紫色で、目の色も琥珀だ。顔立ちも二人によく似ている。
どう見てもリーナやレナのお母さんだと思った私は、「こんにちは」と会釈した。すると女性は両手を自分の頬に当て、感極まったみたいに頬を上気させ、唇をわなわなと震わせた。
――え、な、何?
想定外の反応に思わず一歩下がってしまう。その女性はこちらに駆け寄ってきたかと思うと、私の両手を取って、自分の両手で包み込むように持った。
「まあまあまあまあ! いらっしゃい、ディアドラ様っ! 来てくれてありがとうっ!」
「えっ、は、はあ……お邪魔します……」
謎の大歓迎だ。困ってザークシードを見上げると、ザークシードは面白いものでも見ているみたいな顔で、少しだけ眉を上げた。
「ミュリアナ、ディアドラ様が困っておられるぞ」
「あっ、そ、そうよね。ごめんなさい」
ミュリアナと呼ばれた女性ははっとして私から手を離す。それからにっこり笑って小首を傾げると、「来てくださって嬉しいわ」と言った。
「どうぞ入ってくださいな。今からお昼ごはんなのだけれど、ディアドラ様も食べる?」
「ううん、私は食べてきたよ」
「じゃあ飲み物だけでも出そうかしら。お茶くらいしかないけれど」
「あ、どうぞお構いなく」
食事時に訪問するなんて迷惑だろうと思ったのに、ミュリアナは飴でも買っておけばよかったかしらなどと言いながら満面の笑みを浮かべている。
どうしてこんなに歓迎されているんだろう。ザムドの友達だから? それともミュリアナもお父様のファンで、お父様の娘だから歓迎してくれているの?
ミュリアナが私を見下ろして、またにっこりと笑った。
「ねえディアドラ様、一つだけお願いしてもいいかしら?」
「何を?」
「一回だけ、少しだけ、ぎゅっとさせてもらってもいい?」
「え、ええ……?」
戸惑ってザークシードを再び見上げると、ザークシードは苦笑しながら肩をすくめた。助けてはくれないらしい。諦めてミュリアナに視線を戻す。
「はあ、どうぞ……」
「ありがとう!」
ミュリアナが正面から私に近づいて、ゆっくり腕を回してくる。私の背に手を添えて、ぎゅうっと私を抱きしめた。女性特有の柔らかさに身を包まれて、少しだけ恥ずかしくなる。
――サフィリア。
ミュリアナがほとんど聞き取れないくらいの声でそう呟いたので、反射的に彼女の顔を見てしまう。けれどミュリアナはさっと私から離れると、力強い声で「さあ、ご飯にしましょう!」と言って笑った。
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