05-02 魔族だって風邪を引く(2)


 ニコルが目を覚ますと、外から光が差し込でいるせいで馬車の中はもうすっかり明るくなっていた。馬車の外に目を移すと青空が見える。想定したより長く寝てしまったらしい。


 御者席ではカルラが体重を柱に預けて座っている。彼女の目が閉じていることに気が付いて、ニコルは慌てて外の馬を確認した。馬は二頭とも木に繋がれたまま、それぞれ水を飲んだり草を食べたり自由にしているようだ。


 ――夜の見張りは任せろなんて言っておきながら、寝るとはどういうことだ。


 文句でも言ってやろうとカルラに視線を移し、彼女の眉が寄せられているのが目に入った。頬は赤く、呼吸も苦しげだ。昨日カルラがくしゃみをしていたことを思い出した。


「……あの、大丈夫ですか?」


 触れる前にカルラの体がずるりと柱を滑り、傾いだのを慌てて支える。つかんだ腕は驚くほど熱かった。


「……あれ、うち、寝てた……?」


 ぼんやりと薄く開いた目がニコルに向けられる。声は鼻声でかすれていた。明らかに痰の混じった咳をカルラが何度も吐き出すので、ニコルはその背をさすってやった。


「?? これ、なに?」


「……風邪じゃないですかね」


 長いため息を吐き出してから、ニコルは彼女の背から手を離した。ラースを行かせるのではなかったと後悔しながら、ニコルは馬車の奥に視線を移す。


「マットか大きなタオルでも敷いて、横になって寝てください。どこにあります?」


「右端の、一番上の箱に、タオルならある……」


 カルラに示された箱を取り出して開けると、売り物らしき新品の日用品が詰まっていた。タオルは一度洗ったものの方がよいのだが、新品しか見つけられなかったので、仕方なく一つの大判タオルを取り出して床に広げた。


 ニコルの背後でカルラの咳き込む声が聞こえたかと思うと、ガタガタッと大きな音が続いて、ニコルは慌てて振り返る。御者席に座っていたはずのカルラの姿が見えなくて、御者席まで急いで戻った。そこから見下ろせば、カルラが地面に座り込んで吐いている。


 ――どうして他に誰もいない時に体調を崩すんだ、この人は!


 舌打ちをして苛立ちをいったん脇に置き、ニコルは馬車の奥に戻る。タオルの入っていた木箱の周りの箱を探り、見つかった洗面器を引っつかむと、馬車から飛び降りた。川の水を汲んでからカルラの傍まで戻り、洗面器を彼女の横に置く。


「口をゆすぐのにどうぞ。自力で馬車に登れそうですか?」


 カルラが無言で首を横に振ったので、仕方なくニコルは馬車の後ろに回って乗り降りのための踏み台を降ろした。

 馬車の後ろ側は木箱を詰めすぎて人が通る隙間はない。ニコルは木箱を移動させて通路を確保すると、再びカルラのもとへと戻る。カルラは馬車の車輪に背を預けて座っていた。


「吐き気はおさまりました?」


 声をかけると、カルラは緩慢な動きで視線をニコルに返してくる。彼女が頷いたのを確認してから、ニコルは己に力を強化するための魔法をかける。それからカルラを抱き上げた。


 ふにゃ、というやわらかさと間近に見えた胸の大きさに動揺しかけたが、理性で抑え込む。


「!?」


 カルラがぎょっと目を見開いてニコルを見た。それには構わずに馬車の後ろに回ると、重さに若干ふらつきつつも、踏み台を使って馬車の中に乗り込んだ。


 職業柄、傷病人を運ぶ機会も少なくない。人を運ぶことに慣れてはいたが、長身のカルラは女性にしてはやや重量があったので、背負えば良かったと若干後悔した。それでも成人男性を抱えて運ぶよりはずっとマシだった。


 敷いておいた大判のタオルの上にカルラを下ろすと、御者席に置かれていた毛布を取って、カルラの上に雑に投げつける。次に木箱を勝手に開けて小さめのタオルを取り出し、また馬車を降りて洗面器を洗った。それから川の水でタオルを湿らせてから固く絞る。


 馬車に戻ってみると、カルラは毛布に包まって横になっていた。彼女がいつも頭に着けている帽子は外れている。獣のような耳がカルラの頭から生えていることに驚いたが、彼女が室内でも帽子を外さなかったことに納得もした。カルラの体が微かに震えているのを目にして、再びこみ上がってきた苛立ちを息に乗せて吐き出す。


「まったく……魔族でも風邪は引くんですね。その様子だと、昨夜の時点で寒気くらいはあったのでは? だるかったりはしませんでした?」


「確かに寒かった……けど、気温かなって……」


「そういうことは言いなさい!」


 絞ったタオルを叩きつけるようにカルラの頭に乗せ、空の洗面器を彼女の顔の側に置く。吐きたくなったらここに出すように、と申し添えて。


 彼女の水筒が御者席の裏に置かれていたので、「水は飲んだ方がいいですよ」と言って手渡しておく。カルラは横になったままそれを飲んだが、しばらくしてからまた吐いてしまった。これではしばらく馬車を動かせそうにない。


 彼女の首に触れて熱を確認するとかなり高い。毛布に包まってもなお微かに震えているので、まだ熱は上がりそうに思えた。熱はある程度までは上げきってしまったほうがいい。しかし水を飲んでも吐いてしまうようでは脱水症状を起こさないとも限らない。さてどうしたものかと考えながら、ニコルは腕を組んだ。他人の看病には慣れているが、魔族の看病など初めてだ。


「常備薬はどこにありますか? 解熱剤は?」


「そう……いうのは、ない……」


「馬車があるなら薬ぐらい持ち歩きなさいよ……」


 起こした直後もカルラは「これなに?」と言っていたくらいだし、魔族は病気を想定しないのだろうか。ニコルが持っている解熱剤を飲ませるべきか迷う。しかし今すぐに飲ませても吐きそうだし、何より魔族に人間の薬が効くのかどうか、ニコルにはわからない。


 目を閉じたカルラの呼吸はやや速い。だが少しずつ寝息に変わっていく。彼女が夜中の何時頃まで起きていたのかは知らないが、まあ寝かせよう、とニコルは思った。


 ピィー、ピィー、ピィー、と小さな音が聞こえてきて、ニコルは周囲を見回した。その音は馬車の上の方から聞こえている。


 積み上がった木箱の上に、小さな鞄が置かれていた。カルラのものだ。手を伸ばしても届かないことに身長差を感じて若干イラッとしてから、ニコルは適当な木箱を台にしてその鞄を取った。


 音は鳴り続けているが、カルラに起きる気配はない。逡巡したものの、結局鞄を開けた。鳴っていたのは予想したとおり通信用の魔道具だった。小さな球体のそれをつかんで、ニコルはそれに向かって話す。


「もしもし、代理で出ます。彼女は……あ、いや、カルラは熱を出して寝込んでいるので、急ぎでなければ日を改めて頂けませんか?」


 通信機の向こう側にいる誰かは、すぐには返答してこなかった。少しの間のあと、まだ若そうな男性の声が聞こえてくる。


『失礼ですが、あなたは?』


「僕はニコルといいます。彼女とは……まあ、知り合いですね。彼女といつも一緒にいる方々が休暇中ということで、一時的に彼女に同行しています」


『そうですか。私はジュリアスと申します。それで、カルラ様の容態はどうですか?』


 相手が何者なのかわからないが、カルラを様付けで呼んだことから、少なくとも魔族だろうと判断した。ジュリアスと名乗った相手の口調や話し方から理知的な人物だと察せられたので、ちょうどいい。誰かに魔族がどう病気に対応しているのか聞きたかったところだ。


「まだ熱は高いですね。解熱剤を出そうか迷っているのですが、人の薬など魔族に効きますか?」


『生物学的な違いはあまりないので、効くと思います。我々はあまり薬を使わないので、効果が強く出るか弱く出るかまではわかりませんが』


「魔族は病気になったらどうしているのですか?」


『自力で治すか弱って死ぬかの二択ですね。ナターシアに医者などおりませんので』


「……は?」


 何だそれはと言いかけたが、これだけ大きな荷馬車に薬一つ積んでいないことといい、先のカルラの反応といい、魔族とはそんなものなのだろうかと眉をひそめた。


『もともと丈夫な者が多いというのもありますが、魔族の大半は戦って死にます。病死は極稀ですし、ナターシアで医者になっても生活が成り立ちません。そもそも医学を学ぶ場所もありません』


 黙ってしまったニコルから何か察したのか、通信機の向こうの声はそう解説してくれた。本当に理解できない種族だなと考えながら、ニコルは「ひとまず通常の半量で試してみましょう」と答えるにとどめた。


『お世話をかけます。こちらは急ぎの用ではありませんので、体調が戻ったら連絡が欲しいとお伝え下さい。それから、無事に戻ったと。それで伝わると思います』


「伝えておきましょう」


 ニコルは通信を切り、魔道具を鞄に戻す。それから鞄を元あった場所に置き、踏み台にしていた木箱を片付けた。


「……ぅ……」


 小さな声が聞こえてきて、カルラに視線を落とす。彼女は悪い夢でも見ているのか、うなされているようだった。眉も目もギュッと寄せられ、頬から耳までが真っ赤に染まっている。いつもカルラの周りで自由に踊っている橙と黒の魔力も今は弱々しく見えた。


 ――今なら、一人でも殺れるんじゃないか?


 そんな声が耳元で響いた気がして、ニコルはびくりと体を縮めた。


 彼女は魔族で、魔族は人にとっては長年の仇敵だ。五天魔将の一人であるカルラとまともに戦って、人間に勝ち目があるとは思えない。どうにか倒せたとしても相当な損害が出る。しかし今なら、弱って眠り、身体を無防備にさらしている今なら、やりようはあるのではないか――そんな考えが頭をもたげた。


 以前のニコルなら迷わなかった。そもそも熱を出した魔族を介抱するなんてありえなかった。


 カルラが不意に寝返りをうつ。それを見てハッとして、一体何を考えているのだろうと強く目を伏せ、首を横に振った。


 ――できるわけない、そんなこと。


 〝できるわけがない〟の理由が能力的なものなのか精神的なものなのか、考えてもわからなかった。そもそもカルラには、双剣使いの魔族を倒してもらわないと困るのだ。自分への言い訳のように、そんなことを考えた。


 カルラの額に乗せられていたタオルが落ちたので、しゃがんでそれに手を伸ばす。


「――といて」


 タオルを拾おうとしたニコルの手を、カルラがつかんだ。熱い。ぼんやりと薄目を開けたカルラが、ニコルの手を見つめてから、不思議そうな目を向けてくる。


「……?」


「いや、疑問に思いたいのは僕の方です。解熱剤を出そうと思いますが、飲めそうですか?」


「……たぶん……」


 ニコルは立ち上がって自分の荷物を開けると、その中から薬を一つ取り出した。紙に包まれていた粉薬を半分、別の紙の上に取り、水筒と共にカルラに渡す。意外なほど素直にカルラが薬を飲み干したので、ニコルは眉を寄せた。少しは毒か何かを疑わないのだろうか。


「うち、何か言うとった?」


 痰の混じった声でカルラが言う。ニコルはちょっと考えてから、「何かは言っていましたが、よく聞き取れませんでした」と答えることにした。


 ――置いてかんといて。


 本当は、彼女がそう言っていたのは聞こえていたけれど、その意味に触れるほどには近しくないような気がしたからだ。どこかほっとしたように熱い息を吐き出したカルラの頭に、ニコルはもう一度タオルを乗せてやる。


「スープくらいなら作りましょうか?」


「いい、まだ無理……」


 じゃあ寝ていなさいと言い置いて、少し彼女から離れてから保存食を己の口に放り込む。じっと見つめてくるカルラの視線に気がつき、ニコルは口の中のものを飲み込んでからカルラに視線を返す。


「……何か?」


「少年が朝から優しいのはなんでやろ、と思って。まだ夢の中かなあ……」


 カルラが寝ていたのはわずかな時間だったはずなのに、朝起きた直後より声がしっかりしている。解熱剤が効いてきたのだろうか、いやそれにしては早すぎる。


「病人相手にツンケンしませんよ」


「へえ、魔族でも?」


 不思議そうな声で向けられた問いへの答えに窮し、ニコルは口を閉ざす。己の矛盾を突かれたような気がして。カルラを殺すことを考えかけたばかりだというのに、こうして世話を焼いている。ひどい矛盾だ。


 やや間があって、「すまんすまん」とカルラが苦笑に近い笑みを広げた。それから先の発言を流すように、冗談めかして言う。


「いやあ、さすが慈愛の聖者くんやな」


「……それはやめてください」


 ニコルが顔をしかめると、カルラも不可解そうに眉を寄せる。


「冗談かと思うたけどほんまに言われてんの? そのツンツンで?」


「人間相手にこんな態度は取りませんよ。……そうですね、看病の間くらいは人と同じように対応してさしあげましょうか?」


 ニコルは一度目を伏せ、目を開くと同時に、外面用の微笑を顔に貼り付けた。カルラがぎょっとして、寝転んだまま器用に後ずさる。


「ごめん、いつもどおりで頼むわ。キラキラしてて怖い」


「……失礼な人ですね」


 真顔に戻ると、カルラはあからさまにほっとした顔をして寝返りを打ち、ニコルに背を向ける。


 カルラが「……顔あっつ……」と呟くのを聞いて、やはり解熱剤が効いたわけではないのかとニコルは首を傾げた。


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