02-06 魔王と聖者(4)



「……ねえ、どこまで行くの?」


 ニコルの背に声をかけてみたけれど、返事はない。森の中をしばらく進んでいるうちに、町の外壁も見えなくなってきた。ここまで来れば町まで声が届く心配もないと思う。やっぱり逃げたほうがいいかな?


「……この辺りでいいでしょう」


 ニコルが振り返ったので、私も立ち止まる。


「それで、ステータス異常の件ですが……」


 ニコルの口が何かを紡ぐ。けれどよく聞こえなくて、一歩前へと踏み出した。


 ――途端。


 踏んだ地面と周囲が強く光ったかと思うと、円柱状の半透明の壁が出現した。


「――!」


 やっぱりそういうオチか! 罠ではないかと薄々思っていたけれど、もしかしたらという期待を捨てきれなかったのだ。


 よし、逃げよう。


 すぐに身体を動かそうとして――けれどうまく力が入らなくて、その場に尻もちをついた。何だろう。体が重くてうまく動けない。頭に巻いていたはずのリボンが外れて地面に落ちる。


 ゆっくりと顔を上げると、いつの間にかこちらに歩み寄っていたニコルが私を見下ろしていた。


「それが、あなたの本当の姿ですか?」


 頭に触れてみる。魔法で隠していたはずの角は元に戻っているし、丸くしたはずの耳も尖っていた。


 ヒュ、と風を切る音がする。次の瞬間、半透明の壁を抜けてニコルの杖の先が私の首元に突きつけられていた。杖の先は太い針のように尖っていて、少しでも前に出たら喉に刺さりそうだ。私を見下すニコルの目には何の感情も映し出されておらず、ただ冷たい色をしていた。


「侮りましたか? 僕一人くらいいつでも殺せると」


「ちが……っ、私はそんなこと思ってない!」


 ニコル一人が相手なら簡単に逃げられるはず――と、確かに侮っていたかもしれない。でも殺そうなんて全く考えていなかった。


「待って! 私は人間を攻撃しようなんて思ってない! 確かにこの間、魔族の大群が町を襲おうとしてた。でも私は――」


 弁解しようとした私の言葉を遮ってニコルが言う。


「ええ、知っていますよ。町の人々の話を聞きました。あの日、一人の魔族が町の上空に飛んできて、他の魔族を一掃したと。そしてそれは、赤髪の子供であったと」


「だったら」


「いいえ、それでも僕はあなたを殺さねばなりません」


 ニコルが首を横に振る。


「あなたにお会いしてからあなたが町を去るまで、無礼を承知で監視させていただきました。あの日はルシアの家でお菓子作りをして帰っただけだということも知っています。確かに今のあなたには、人への敵意はないのでしょう」


 ニコルは一旦言葉を切って、己の杖を握る力を強くした。


「けれどそれは、未来の敵意を否定するものではないのです。あなたに言いきれますか? 仮に人があなたの大切な人を傷つけたとして、人を憎まずにいられると?」


「それは――」


 言えない。言えるわけがない。例えば誰かにお父様を傷つけられたとして、その相手に黒い感情を抱かずにいられるとは思えない――現に私は、お父様を傷つけたリドーを殴り飛ばしたのだから。今だって、カリュディヒトスとリドーのことは許せない。


「あなたのその力は人にとって脅威なのです。僕は僕の正義に従って、あなたを排除します」


 その理屈は理解できないわけではない。


 現代日本の価値観で置き換えてみると、例えば核兵器を持ったA国があったとして、A国がどんなに核兵器は使わないと言ったとしても、他国からは脅威に映るということだ。他国は核兵器を排除できるものなら排除したいだろう。


 それはわかる。わかるけれど――


「待って、お願い。話し合おう?」


 身を引いてみると、杖の先は私の喉元を追いかけてきた。後頭部が壁に当たる。ニコルの杖は壁など存在しないかのように動くのに、私の頭は確かに硬い壁にぶつかっていた。無表情に見下ろしてくるニコルの目が怖くて、体中の血が冷えていくようだ。


 ――と。


「娘から離れてもらえるだろうか」


 低いけれどよく響く声が聞こえてきて、私は目だけを横に向け――信じられないものを見て目を見開いた。


 立っていたのはお父様だった。その隣にはなぜかルシアがいて、ザークシードもお父様から一歩離れたところで斧を構えている。


「どういう経緯でこの状況があるのかはわかりかねるが……その子は私の娘だ。返してほしい」


 お父様が静かに言う。言葉こそ丁寧だけれど、その声音にも表情にも怒りが含まれているのがはっきりわかった。こんなに怒っているお父様の姿など、ディアドラの記憶にもない。ニコルを見ると、彼も驚愕の表情で固まっている。


 わずかな間のあと、ニコルが言った。


「……動かないでください。動けばこのまま彼女を刺します」


 私はサァっと青くなる。


 刺されると思ったからではない。見たこともないほど怒っているお父様に対し、感情を逆なでするようなことをニコルが言ったからだ。お父様とザークシード相手にニコル一人では絶対に勝ち目がない。下手をすると彼が殺される。


「おっ、落ち着いて話そう。話せばわかるよ。ね? ねっ??」


 そう言ってみたけれど、ニコルはもう私のことなど見てはいなかった。


「ルシア、こちらへ」


 ニコルに言われ、ルシアが困ったようにお父様を見上げた。お父様が頷くと、ルシアはためらいがちにこちらに歩いてくる。


 ルシアは私の隣までたどり着くと、その場でしゃがんで「大丈夫?」と心配そうに聞いてきた。これが大丈夫に見えるならびっくりだ――なんてツッコミを入れている場合ではない。


 あれ? そもそもルシアは、私のこの姿を見て驚かないの?


「それで、どのようにすれば娘を返してもらえるだろうか」


 お父様の問いに、ニコルが眉根を寄せる。逡巡の後に彼は言った。


「では、その首を差し出して頂いても?」


「よかろう」


「お父様っ!?」


「グリード様!?」


 お父様が考える素振りもなく即答したので、私もザークシードも驚いて声を上げてしまった。ニコルはお父様から視線を外さない。けれどその表情は再び驚きの色に染まっていた。

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