第一章 さよならのはじまり
第1話
「……よし!」
本棚が壁のほとんどを占める小さな部屋で、机に向かう女性は小さく呟いた。
忙しなく動いていた右手を止め、持っていたペンをスタンドに戻す。手元の筆記帳を空いた両手で持ち、目線の高さまで持ち上げる。背後にある暖炉の光も合わさって、見やすくなった筆記帳の内容に間違いがないかをその碧い瞳で注意深く確認する。
ほどなくして、それを待っていたかのようなタイミングで正面の扉からノックの音が部屋に響き、そのまま部屋の主の返事を待たずして扉が開いた。
「丸々二日も籠りっきりで。お体に触りますよ」
朝日を背にしてやってきた招かれざる侵入者は、しかし抵抗できない香りを引き連れて女性の元へ近づいた。手に持ったトレイには淹れたての紅茶と焼きたてのホットサンドが湯気をくゆらせている。ホットサンドの中身はその香りからチーズエッグに違いない。
「気が利くじゃない。流石はパルティナ、我が娘」
我が娘、とはいうもののその姿は部屋の主のそれとは全く異なる。パッチワークという言葉で濁すにはほど遠い、ツギハギだらけの賑やかな色遣いの部屋着をまとった部屋の主と違い、清潔感漂う簡素な紺のエプロンドレスから覗く肌は金属質でつるつるしており、色は赤みがかった銀色。光沢がなかったなら白い肌と言い訳が立つが、首から上、特に顔が人と大きく異なっている。髪はあるが部屋の主のようにボサボサではないにしても、一房一房が硬い殻のように頭から伸びており、さらには目や鼻という器官がそれっぽい起伏しかなく、『作り物』な雰囲気を醸し出していた。
いわゆる『
我が娘というからには、制作者はこの女性なのだろう。
部屋の主は机の横まで来ていたその人形の持つトレイに乗ったままの紅茶を優雅に奪い、お気に入りの茶葉であるポカートの香りを鼻孔に誘いながら一口飲んでみた。
「……あら、悪くない味ね」
普段飲む好みのブレンドとは違うことに気が付いたが、この味もまた格別においしい。おいしいというか、疲れた体に染み渡る一口だった。
「お疲れが出ていると思いまして、いつも使っている疲労に効くポカートとリラックス効果のズッケ草をトッピングし、味付けにレピックを足しました」
そこまで聞いて、スッと表情が素面に戻る。
「レピック……? もうそんな時期だったかしら」
レピックとは回復薬用の薬草で、特殊な環境でなければまともに育たない希少な植物だ。収穫できる時期も短く、今年収穫できるのはもう少し先のはずだと、女性は記憶していた。
「ご心配なく、エンリ様。去年収穫・出荷したものの残りを使ってますので、問題ありません」
エンリと呼ばれた部屋の主は『そっちの心配ではないんだけどな』と思ったが、気遣いができるようになった娘を思い、あえて黙った。
「そういえばパルティナ、もう一人の家族は?」
エンリはこの部屋にいない、残りの住人の所在をゴーレムに尋ねる。
「チャイクロ殿は……、『いつもの場所』でふて寝中です。外もまだ寒いですし、エンリ様に構ってもらえないのがつまらないようで」
なるほどと思い、二日ぶりに広間へと足を向ける。
本棚だらけのエンリの書斎を出て、短い廊下を抜けて大きな扉の前に立つ。
開け慣れた大きな扉を静かに開き、食堂を兼ねた広間へと入る。外から広間へ漏れ入る光が、朝が明けて少し過ぎたあたりであることを示し、久しぶりの自然光にエンリの目が少し眩んだ。
壁際の暖炉が部屋中を暖めていて先程の部屋よりもずいぶん居心地がいい。もう真冬ほどの寒さではなくなったが、それでも暖房があるに越したことはない。
ふと人の気配を感じたのか、暖炉の近くにあった安楽椅子が大きく動き、座っていたと思われる小動物がこちらに向かってきた。
「リーリ! リーリ! おシゴト終わった? あそぼ! あそぼ!」
美しい光沢の体毛を持つ、真っ白な動物がエンリにじゃれつく。
「ははっ、なかなか上手く話せるようになってきたな。だが私はエンリだ。リーリじゃあないぞチャイクロ。それに、遊ぶなら外に行かないとな」
舌っ足らずで話しかけるこの動物も、エンリが我が子というからにはただの動物ではないのだろう。しかし、見た目は完全にただの白猫である。
「まだ寒い、お外寒い! リーリとあそぶ! おヘヤであそぶ!」
猫というよりはまさに子供という雰囲気を感じる白猫チャイクロを、エンリは抱き上げ優しく撫でてやる。
「そうだな、まだ寒いがもう少ししたら暖かくなる。……そうなったら旅行に行こうと考えてるんだけど。三人で、ね」
エンリの提案に、二人(?)はキョトンと顔を見合わせる。
「りょこう……?」
旅行の意味が分からず、チャイクロはパルティナへ視線を向ける。
「旅行、ですか……?」
オウム返ししかできなくなった二人にエンリは続ける。
「レピックの収穫が終わる頃にちょっとした計画がある、というか立てたの」
先程までチャイクロが座っていた安楽椅子に腰掛け、たった二人の家族に話しかけた。
「きっと、この顔ぶれでできる、最後の旅行になるかも知れないから……」
レピックは、冬から春になる境目に美しい花を咲かせる。それが種をつけるまでに葉を摘むのだ。種ができる前の葉は滋養が高く、高級な薬の材料となるからだ。
「今年は忙しくなるから、覚悟するように」
人差し指を立て、順番に二人を指さして視線を送る顔には笑みがこぼれていた。
季節は、冬から春になろうとしていた。
* * *
異界の地にあるというエメリッド大陸の北部に存在する森は〝
そのせいか小動物を主食とする大型の猛獣も居らず、人が隠居して生活するには申し分ない環境であるが、この霧は非常に濃い〝魔素〟を含む。
〝魔素〟とは、魔法使いなどが魔法を使う際に外気から取り込む燃料のようなもので、魔法を使うと消耗される。
しかし、これを人が取り込みすぎると体に異変が起こる。許容量は人によるが、大体は魔法の暴発や肉体の変質があげられる。
人に、ということはそれ以外の〝もの〟も少なからず影響を受ける。
レピックもそんな〝もの〟の一つだ。
雑草にも似た背の低いレピックの場合は魔素自体が栄養素の一つで、幼子の手のように小さな丸い葉からそれらを吸収するため、高濃度の魔素の中でないと大きく育たない。つまり、この森はレピックを生産するのにもっとも適した土地の一つということになる。
そんな〝湿り森〟の入り口付近には、レピックを含む各種香薬草が育てられているハーブ園がある。
そのハーブ園の中央に建っている小屋が、アトリエを兼ねたエンリの住処となっていた。
ちょうど葉の収穫を終えた春先の昼前、丸い綿のような小さい花を咲かせたレピックに受粉作業をしているパルティナは、遠くから近づいてくる
「あれは…… エンリ様の仰っていた『迎え』ですね」
膝ほどにまで伸びているレピックの花をかき分け、パルティナはアトリエへ向かう。
玄関から中に入ると、広間で既にある程度の旅支度を終えたエンリがチャイクロにお出かけのためのおめかしをしているところだった。
「エンリ様。お迎えの馬車が間もなく到着します」
エンリはそれを聞いて、パルティナを見るでもなくチャイクロの身支度を済ませた。
「うん、ありがとう。さ、パルティナも支度して」
エンリの服装は、旅行に行くとはいえ普段の様相からは想像できないくらいに整っていた。
何日かぶりに風呂に入ったのだろう、自慢の長い黒髪はまるで絹糸のように美しくしなやかな雰囲気を漂わせている。長い前髪の下から覗かせている布製の
その長い髪の裾は、額環の下からいくつかの房に分けてまとめられており、そのうち両方の耳の後ろから前へ下ろした髪の先には、薄く緑がかった金属のアクセサリーで装飾がされている。残りの髪は腰のすぐ下まで細かく編み込まれたあと、それぞれ紅・蒼・碧・琥珀色の鉱石を施した髪留めが艶やかさを演出していた。
顔はというと、右の顔だけを覆って目の部分だけが大きく開いた簡素な仮面を付けている。その反対側はこれまた特徴的な、大小様々な形のレンズが三つ着けられたモノクルが存在をアピールしていた。口元もささやかながら紅がさされており、大人の女性さながらの色気が溢れていた。
首には黒い紐で留められた小さな薄紫の水晶がぶら下がっており、エンリの大きな胸の上で居心地が悪そうに揺れていた。
その大きな胸をこれまた黒く艶のない、周囲の光を吸い込まんとするほどに黒い布で作られた胸当てが支えている。不思議なことに、見た目では重さを感じない。
その上からは、ほぼ厚みのない布でできた紺色の下地に銀色の糸で動物の刺繍がされたストールが肩を覆っていた。刺繍の動物はこの辺りには存在しないため、誰かからの贈り物なのだろうか。
腰から下はというと、体系にぴったりな黒いタイツの上にこれまた短いスカートを、分厚い黒皮の下地にジャラジャラと鎖に似たやかましい装飾を施したベルトで留めている。太もも付近まである鉄錆色の長いブーツには、あちこちに金色の糸で難しい文様が刺繍によって縫い留められ綺羅びやかだ。ただ、その紐は最後まで締められておらず、ふくらはぎあたりで余った紐ごとまとめられていた。
黒茶けた、裾の長い手袋をつけたその手には、現役時代から使っている紅水晶をはめ込んだ長く枝のある
最後に机の上にあった小さな鞄を腰に取り付け、エンリは出発の準備を完了させた。
チャイクロもお出掛け用の青い宝石がワンポイントで刺繍された赤いスカーフを首に巻いてもらっていて、とても上機嫌である。
二人の旅支度の完了を確認したパルティナも自室に戻り、準備を開始した。
普段着ているエプロンドレスを脱ぎ、動きやすい赤いチェックの入った紺色のプリーツスカートと袖口が大きめの黒い上着を羽織り、丸い大きなアクセサリーを左右の頭に取り付ける。普段は手を加えない髪も、今回は左右に分けてまとめる。量はそれほどでもないので肩に触れるくらいで勝手にまとまってしまう。
エンリほどの大掛かりな着替えは必要ない分、かかる時間も少ない。
その点において不思議な違和感を胸に感じながら、頭につけた大きな
既にハーブ園の手前まで来ていた
「さあ、それじゃあ戸締まりするわよ」
エンリはそう言うと足元の小さな黒い石碑のくぼみに、手にしていた碧い石がはめ込まれた指輪を入れる。
すると建物を中心としたハーブ園全体を囲むように同じような石碑がいくつか隆起し、それぞれが仄かな青い光を発し始めた。次第にじわじわと光は強くなり、ほどなくしてその光はハーブ園全体を包み込んでしまった。
「これで、私たちが帰ってくるまで大丈夫」
そう言うと、エンリは腰元の鞄に手を入れて「アトリエに忘れ物があったら『ここ』から出すからね。もう当分戻れないし」と二人に告げる。どうやら鞄はアトリエの倉庫に繋がっているようだ。
「時界ずらし、お見事です」
青い光は時界魔法の中でも特に難しいとされる『時間停止』と『空間跳躍』を使った際によく見る現象だ。土地ごと戸締りするあたり、豪快ではあるが。
「道具の力よ。どうせあの子たちの世話もできないし、これが一番手っ取り早いじゃない」
つまり、旅行に行く間はハーブ園の世話ができないため、時間を経過させない方法で解決させたのだろう。
「じゃあ、行きますか!」
「しゅっぱーつ!」
エンリの掛け声と共に、三人は自動馬車に乗り込んだ。
* * *
「ねー、どこにいくの?」
人工生命体が運転する三人が乗った自動馬車は、霧の中を迷わず進んでいく。とはいえ普通に走るよりは十分速度を落として、安全な走行を忘れない。
「まずはパキシリアへ行って、
パキシリアはこのあたりで最も大きな都で、様々な施設が集まっている。エンリもたまに収穫した薬草や紅茶を買い取ってもらいに行くことがある。
「パキシリアなら、昼食前には着きますね。それでもほぼ半日は座りっぱなしになりますが」
涼しい顔で、これからの厳しい予定を伝えるパルティナに、それでもチャイクロは楽しそうに目を輝かせる。
「たのしみ! 家の外、はじめて!」
「チャイクロ殿は造られてから、そもそも滅多に外へ出していませんでしたから」
チャイクロはペットではないが、それでもまだまだ幼いため…… というか環境が環境なだけに滅多なことでは一人で外には出せない。そういった事情もあって、これほどの遠出は十分刺激になるのだ。
「そうよ。君は今のところ、私の最高傑作のひとつ〝人語を話す
徐々に霧が薄くなる外の景色にそわそわが止まらないチャイクロに、エンリが釘を刺す。
「話せる以外はほぼ白いだけの猫ですけど」
「目がオレンジよ? この毛並みだって三毛猫のアルビノ抽出に結構苦労したんだからね」
馬車の窓にへばりついて動かないチャイクロをエンリが引き剥がし、膝に押し付けながら会話をしているうちに、強い太陽の光が周囲に差し込んできた。
「ふわぁ…」
チャイクロの瞳孔が縦にキュッと細くなる。
「いい天気じゃない。やっぱり旅立ちはこうじゃないと」
霧の海を抜けると、そこが小高い丘になっているのが見てとれる。眼下には延々と蛇行しながら下る道が続き、青々と広がる海の近くに繋がっているようだ。恐らくその海と道の間に見える建物の密集地域が 、現在目指している都〝パキシリア〟なのであろう。
雲一つなく真っ青な空を見上げるチャイクロを横目に、パルティナはずっと思っていた疑問をエンリにぶつける。
「そういえば、
パルティナの疑問はもっともだ。
なにしろエンリは未だに行き先を二人に伝えてない。『当分帰らないから』と相当な期間出かける心積もりをさせられただけなのだ。
「正確には、行き先が決まってるけど行程が決まってない、かな」
煮え切らないというよりは本当に決まっていない、そんな口調でエンリは返す。
そもそも長期間の旅行自体、パルティナもチャイクロも初めてなのだ。チャイクロは心底楽しそうだが、パルティナはむしろ不安と不満が見え隠れしている。
「まあまあ、先は長いんだし。これくらいで悩んでも仕方ないんじゃない? もっと楽しみなさいな」
能天気ともとれる口調で諭すエンリ。かたやパルティナは『いつものことですしね』と言いたげな表情を向けていた。
馬車の激しい車輪のガタつきが少しずつ穏やかになる頃、エメリッド大陸最大の都〝パキシリア〟に三人は到着した。
自動馬車から降りて自動馬車の御者に運賃を支払うと、馬車はそのまま人混みの向こう側に消えていった。
降りた場所は町外れではあるが、周囲から人の往来で賑わっているのがここからでも分かる。
足元を見ると出発した時の荒れた土から踏みしめられた土を経て石畳に変わっているのに気がつき、交通経路の整備がされていることに、都の規模をひしひしと感じる。
「さ、まずは旅費の確保をしなきゃいけないから、手持ち在庫の薬草関係を換金しにいきましょうか」
「はーい!」
とチャイクロが元気に返事をすると『あ、そうだった』と思い出したかのようにエンリは鞄から銀緑色のイヤリングを取り出し、チャイクロの首元につけてやった。
「わー、なになにキレイ!」
「迷子防止よ。それと、ちょっと目立ちにくくなる錬成式を仕込んであるから、少し位なら喋っても大丈夫かも」
錬金術が一般的な技術として浸透してきたおかげで、人工生命体くらいなら日常的に見かけることは増えたが、合成獣、しかも会話が可能なものはまだまだ珍しい。
「君がそれをつけている間、私の〝追跡鏡〟でどこにいるかすぐ分かるから、ね」
そう言いながら、エンリは左目のモノクルについているレンズの一つを指差す。赤い縁取りのレンズは、特定の物品に対して自分からどれくらい離れているかを教えてくれる錬成式が赤い塗料で刻まれているのだ。
「では参りましょう。まずはエンリ様とチャイクロ殿のお昼御飯の調達からです」
一人、特に食事を必要としないパルティナの台詞に、二人はいそいそと街中へと歩を進めるのであった。
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