第25話 箱庭の少年少女 エピローグ
透き通った青空の下、俺はボール片手にピッチに立っていた。
「真司くん、大丈夫? 足、痛くない?」
「ありがとう、なぎさ。正座のダメージは残ってない。大丈夫だよ」
「体調は平気? 無理しないでね」
「心配しないで。万全の状態にしてきたからさ。それに今日はなぎさも応援してくれるし」
「うん。応援する! 頑張ってね、真司くん!」
「——てめぇらイチャついてんじゃねぇぇぇッ!」
ピッチで俺が位置に着くのを待っていた先輩は、昨夜に負けず劣らずの声で叫んだ。
「すみません先輩。お待たせしました」
「真司てめぇ、よくもいけしゃあしゃあと……!」
先輩が眉間に皺を寄せる。娘を持っていかれた父親よろしく、まるで般若のような形相をしていた。
「よし決めた。もう絶対手加減してやんねえ。
なぎさの前でお前を華麗に抜き去ってやるから覚悟しとけよ!」
元から手加減などするつもりは無いくせに。
俺は笑いをかみ殺しながら「お願いします」と頭を下げた。
——今日は先輩との再戦。
昨日の件に関して一時間の正座を食らった後、先輩に勝負を申し込んだ。
勝てると思ってるのか?
そう聞いた先輩に、俺ははっきりとその意図を言葉にすることはできなかった。けれど今、勝負をしたいという気持ちに偽りはなかった。
それは昨日の出来事が関係しているのかそうでないのかはわからない。
ただ、今日をきっかけに、俺は変わらなくちゃならない。そんな風に思ったのだ。
「行くぜ」
先輩がボールを前方に送る。まるで足元に吸い付くようなドリブルで俺へと迫る。
そして、残り数歩の距離といったところで先輩の足は大きく動いた。
転がり、跳ね、ボールが地面で無規則に踊る。いくつ挟んだかもわからないくらいのフェイントが混ぜられ、俺の目を釘づけにする。
そしてその刹那、ボールは先輩の身体と共に、俺の視界の端にいた。
神業。
そんな言葉が浮かぶほどの技巧に目を奪われる。しかし反射的に出した足の先は、ボールの中心を真っ直ぐにとらえていた。
後はそれが届くかどうか。
届くか?
自分に問いかけたとき
どうせ……
と、そんな何万回と聞いた心の声が耳に鳴った。
『お前にはもう価値がなくなった』
自分を縛り付けてきた、そんな呪いの言葉。
かき消したい一心で歯を食いしばる。
届く。
勝つんだ。
俺は変わるんだ!
前よりも少し。ほんの少しだけれど、俺の足は前へと飛び出していた。
爪先がわずかに、ボールへと触れた。
ボールが先輩の足元を離れ、後逸する。
俺はそのまま駆け寄ると、ラインの外へボールを蹴り飛ばした。
「梶本」
宙に浮くボールに視線を送ることも、俺に目を向けることもせずに先輩は言った。
「お前の勝ちだな」
ちらりと見えた先輩の横顔。
負けたというのに、なんだか見たことのないくらい清々しい表情をしているように見えた。
「成程。その顔は、祐介くんに勝ったのね」
放課後の保健室。いきなりそう口火を切った零歩先生に向かって、俺は紅茶を吹きそうになった。
「どうしたの? そんなに驚いて」
零歩先生がいつものように、平然とした顔で、小首を傾げた。
「それは驚きもしますよ」
とびっきりの非難を込めて口を尖らせてみる。
いきなり保健室へ連れ込み、いきなり人のプライベートを言い当てて、どうしたの? はないだろう。
「この際だから聞いておきます。
なんでいつもいつも、俺が言ってないことを、俺が言う前からわかるんですか」
「それは私が」
「カウンセラーだから、というのは無しでお願いします」
今日こそは逃がさない。どっしりと椅子に深く腰掛け、先生に目を合わせた。
先生は小さなため息を一つつくと、
「女性のヒミツに興味があるの? 仕方のない子ね」
艶やかに笑って、唇に指を触れた。
「何から話そうかしら」
「じゃあ……僕が先輩と勝負したことからお願いします」
「それはね。全部見ていたから。
そもそも、この勝負をけしかけたのはわたしだし」
は?
わけのわからない種明かしに唖然とする俺。しかし先生はおかまいなしに言葉を続ける。
「一週間くらい前に、祐介君があなたを誘って勝負をしたでしょう? あれ、わたしが祐介君に『そうしたら?』って提案したことなの。
祐介君は思い立ったが吉日のタイプだから、案の定、その日のうちに梶本くんをグラウンドに呼んだわね。練習の様子も見ていたわ」
「いたんですか? ……本当に?」
「あんな時間にグラウンドを使っていて、誰も見とがめなかったのはどうしてだと思う?」
その一言で俺はあの日、いつもなら現れるはずの見回りの先生によって勝負に水をさされなかった理由を悟った。
見回りの担当は零歩先生が代わっていたのだ。先輩と俺の勝負を成立させるために。
「そしてあなたは敗れた。それはそうね。あなたには技術があるけれど、プレーに気持ちが入っていない。
自分を奮い立たせるあと一押しの気持ちがなかった。そんな状態であの祐介君に敵うはずがないでしょう。
そしてその姿を、偶然にもなぎさちゃんが見ていた」
偶然、とはよく言ったものだ。
なぎさはあの日、補習を受けてから帰ると言っていた。その補習は確か零歩先生の補習だったはずだ。
ということはあそこに、あのタイミングでなぎさが現れたのも零歩先生の差し金に違いない。
「なぎさちゃんはいつもと違う二人の雰囲気に戸惑ったでしょう。けれどあの子は、祐介君にも梶本くんにも世話になっているから、二人がどうしておかしな雰囲気になったのかを知ろうとする。
すると必然的に、梶本くんの体質を知ることになる。
そしてなぎさちゃんがそのことで心配をすれば、優しい梶本くんはなぎさちゃんに余計な心配をかけまいと、自分の体質について話す」
まるでその筋書そのものを描いたかのように、先生はすらすらと、これまでの経緯を言い当てた。
しかもその推察はまだ終わらない。
「梶本くんの体質は、嘘を言えないなぎさちゃんの体質と相性がいいと思ってた」
「先生は俺の体質を知っていたんですか。一体いつから」
「祐介くんが初めて相談した日。つまりこのお話が始まった日。
あの日から、私の中ではこうなることを思い描いていた。
だからなぎさちゃんと梶本くんを引き合わせたの。
——梶本くんに、なぎさちゃんを引き合わせたのよ」
零歩先生の“読み”は更に深い部分へと差し掛かる。
「梶本くんは人の称賛を“嘘”と受け取ってしまう体質。だから今まで自分を認めてあげることができず、力を発揮することもできなかった。
けれどなぎさちゃんだけは。嘘を言えない彼女の言葉だけは唯一、あなたのトラウマを突破できる可能性を秘めていた。
これは賭けだと思っていたけれど、あなたの顔を見たら、上手くいったのがなんとなくわかったの。
あとはもう見ていなくても簡単。
なぎさちゃんの
そして今までになかった力を、最後まで自分を信じる力を振り絞り、勝つかどうかは別として、祐介君に一矢を報いる。
そして今の状況に至った。……どう? 正解?」
「いや、何というか」
言っていること自体は気持ちが悪いくらい正解なんだけれども。
本当に何者なんだこの人は。
「先生は、予知とかそういうことができる人なんですか」
あまりの驚愕に、自分でも意味不明なことを言ったと思った。
けれどその言葉を笑い飛ばすことなく、
「そうね。大人になると、わかるようになるのかもしれないわね」
先生は意味深な笑みを浮かべ、机の隅に積んだ本の山に手を置いた。
「え?」
素っ頓狂な声が喉から漏れる。
「もちろん、冗談だけれど」
「で、ですよね」
「信じた?」
「——信じるところでした」
割と本気で。
先生の言動には、冗談をも本気にさせてしまうような場面がいくつもあった。世間にはなぎさみたいに、嘘を見抜ける不思議な力を持つ人だっているのだ。
この世界のどこかには未来が見える人だっているのかもしれない。
そんな風に考えながら唸る俺を見ると、先生は満足そうに微笑んだ。
「それじゃあね。梶本くん」
零歩先生はバッグを持つと、テーブルの片づけもせずに席を立った。
「どちらへ?」
「次のお仕事があるの」
答えながら、机上の書類と本をカバンに収める。その中に一冊だけ、古ぼけた背表紙の本が混じっていた。
『箱庭の少年少女』
金色の文字でそのように書かれたタイトルが見えた。
何かの専門書だろうか。あるいは、物語?
変わったタイトルだからだろうか。一瞬だけ目に入った本が妙に俺の記憶に焼きついた。
「さよなら」
零歩先生は手をひらひらと振って保健室を出た。
俺が零歩先生と言葉を交わしたのはそれが最後となった。
そして二学期が終わりへと差し掛かる頃。俺たちの周りはまた少しずつ、新しい環境へと変わっていった。
零歩先生の転勤。そして、先輩の元彼女であるカナデさんが留学から戻ってくることも分かった。
日常がまた少しずつ、ゆるやかに変わってゆく。
そんな中で、俺たちは時の流れに順応しようと、少しずつ成長をしてゆくのだろう。
なぎさと俺は変わるための第一歩を踏み出すことができた。けれどこれで終わりというわけではない。
まだまだこの先、自身の抱えたハンディキャップに悩み、壁と向き合う時がきっとくる。
それでも自分のペースで前に進んでいけたらいい。
立ち止まったときに手を引いてくれるひとが、今はいるのだから。
俺もなぎさも、もう一人ではない。
「おはよう。真司くん」
「おはよう。なぎさ」
二人ならんで教室へと入る。
暖かな日差しと、友人たちの声が、今日も俺たちを迎えてくれていた。
『なぎさに嘘は通じない!』 了
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