第24話 箱庭の少年少女(4/4)

 うちに寄って行かない?


 そう言ったなぎさの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。


 特に用事はなかったし、うちには文句を言う家族もいない。


 二人で暮らす婆さんも俺には無関心だ。遅くなる分には何も問題はない。


 それに……。正直に言うと、俺は何かを期待したのかもしれない。


 俺は頷いて夜の工藤家に上がった。


 通されたのはもはや見慣れたリビング。ただ机の上には、見たことのない大きさのケーキが置かれていた。


 事情がまるで呑み込めずに、無言で脇のなぎさに視線を向ける。なぎさは消え入りそうな声で言った。


「お兄ちゃんがお祝いにって、こんな大きなケーキを買ってきちゃったの。お店で一番大きなデコレーションケーキだって」

「いや嘘でしょう。確実に特注だぞこれ。ウエディングケーキかと思ったもの」

「あんまり言わないで……恥ずかしいから」


 これは家に運ばれる際にさぞかし目立ったことだろう。なぎさの心情は察して余りある。


「とても食べられないから、少しでも食べて行ってくれないかな」 


 どうやらなぎさのお願いとはケーキの処理だったらしい。


 俺は残念なような、ほっとしたような、良くわからない気持ちを噛み殺しながら頷いた。


 なぎさが持ってきた包丁を受け取ってケーキに入れる。


「ケーキ入刀」


 静かな空気に耐えられずボケを挟んでみた。が、羞恥心をくすぐったのか、なぎさは余計に紅くなって俯いてしまった。


 微妙なボケだけが宙に浮く。高度な羞恥プレイにちょっとだけ手が震えたが、なんとかケーキを取り分けることができた。


「にしても凄いサイズだな」

「切り分けたのにこれだもんね」


 皿の上で圧倒的な存在感を放つケーキを二人で見下ろす。思わず唾をのみ込んだ。


「全部で何千カロリーくらいあるんだろうなこれ」


 俺がケーキを指さすと「前にもそんなやりとりしたね」と、なぎさが笑った。


 確かなぎさに初めて勉強を教えに来た日の事だ。あのときも大量に買い込まれたケーキに二人で驚いたっけ。


「そういえば先輩は?」


 ケーキを買った当事者がさっきから見当たらない。なぎさは「買い物に出てるよ」と、俺のグラスに麦茶を注ぎながら答えた。


「お祝いに何が欲しいかって聞かれたから、本と、アイスと、秋物のハンカチと、入浴剤が欲しいってメールをしておいたの。

 一時間くらいは帰らないんじゃないかな?」


 それはさぞかし先輩も歩き回っていることだろう。まぁ先輩はなぎさのお願いなら喜んで歩くんだろうけども。


「それにしても露骨な人払いだなぁ」


 それは口にして気が付いた。


 なぎさは明らかに、この家で二人きりの状況を作り出している。


「人払いって言うと、真司くんがバニラアイスを買いに行かせた時も大概だったよ?」

「あ、……ああ。アレばれてたんだ」


 戸惑った気持ちをなんとか静めて相槌を打つ。


 あれは期末テストの直後だったか。感情を表に出せないなぎさを思い、先輩は無理な言い訳をして外にアイスを買いに出てくれたっけ。


「よくわかったね」

「だってあの後、真司くんはアイス食べずに帰ったじゃない」


 二人きりで試験勉強をしていた時の思い出に花が咲く。もうあの時から三か月も経つんだな。


「私が一学期の期末テストで点数を取れなかったとき、真司くんは私の泣き言を聞いてくれたよね。あれ、すごく気持ちが楽になったんだよ。聞いてくれて嬉しかった」


「別に大したことしてないよ」


「私にとってはすごく大したことだったんだよ?

 だからね。あの時に私、決めたんだ。いつか真司くんが辛そうなとき、今度は、私が力になろうって」


 そう言うと、なぎさは身体も眼も俺と向き合わせた


 なぎさが嘘を見抜こうとするとき。相手の心に目を向けようとするときの姿勢だ。


「ずっと気になってた。真司くんが抱えているものが何なのかなって。

 いつも楽しそうに振る舞っているけれど、ときどき、すごく辛そうな顔をしてるのはわかってた。

 それって何かわけがあるんだよね?」


 なぎさからの質問が寄越される。


 嘘で通すのはもちろん不可能。加えてはぐらかすこともできない状況ときている。


「原因は何? 私じゃ、力になれないようなことなのかな」

「そうじゃない。けど聞いて楽しい話じゃないからさ」

「真司くんが嫌じゃなければ、私は知りたい」


 それだけ言うと、俺を見つめたままなぎさは沈黙した。


 先輩は全てを知っている。それに相手は鋭いなぎさだ。


 隠していても、いずれはわかることだろう。


 観念して、とは少し違うが、俺は話すことを決めた。


 昔の話をするのは、先輩とカナデさん以来のことだ。


「先輩が話したから知ってると思うけど、俺、昔はサッカーやってたんだ」


 途切れ途切れに、記憶をつなぎ合わせながら話す。


 すると忘れかけていたトラウマが、徐々に色を帯びて目の前に浮かんでくるような気がした。




 かつての俺はサッカーの有力選手として将来を期待されていた。


 何でも一番を求められる家庭環境の中で、唯一、俺が認めてもらえたものがサッカーだった。


 サッカーだけは一番を目指せる才能が俺にはあった。


 サッカーをやっている時だけは、父親が俺に笑顔を見せてくれた。


「お前は私の誇りだ」


 そう言って頭を撫でてもらえた。だからきつい道のりも頑張れた。


 事故に遭い、俺の選手生命が絶たれるまでは。




「全治半年。おまけに軽い後遺症が残る怪我だった」


 俺は今もなお残る傷跡をそっと撫でた。


「サッカーをまた始めることはできると医者からは言われたよ。けれどどう頑張っても、事故の前と同じ運動能力を取りもどすことはできないのだそうだ。

 それを知った父親がさ。病室で言ったんだ。なんて言ったと思う」

「——」

「お前には、もう価値がなくなった。って」


 その言葉を口にした瞬間。なぎさは声を失ったように、両手で口元を押さえた。


「親父にとっては俺が、自分と同じように、何でも一番の男でなければ許せなかった。


 だから唯一の才能であるサッカーを失ったとき、親父にとって俺はもういらない存在になったんだ。


 全部……嘘だったんだ。俺のことが誇りだっていう言葉も。今まで向けてくれた笑顔も。すべて、自分の持ち物の価値を上げるための嘘にすぎなかった。


 そのときからだ。俺が俺を褒める誰の言葉も信じられなくなったのは。自分の価値を認められなくなったのは。


 昔の俺にとっては、家族を支配する父親の言葉が全てだったから。


 そしてその傷跡が、今も俺の身体に残っているみたいなんだ」


 言葉が終わったとき、涙が頬を伝っていた。


 俺のではない。話を聞いたなぎさのほうが、嗚咽を漏らして唇を噛んでいた。


「だ、大丈夫か」


 慌ててハンカチを差し出す。なぎさは


「い、い゛いのだいじょうぶ……!」


 そう言って、ハンドタオルでごしごしと顔全体を拭いた。鼻が真っ赤になっていた。


「駄目だよね。話を聞いてあげる側の私がこんな事じゃ……!」

「い、いいって落ち着いて」


 ハンカチを渡すと、なぎさは目もとだけでなく顔全体をごしごしと拭った。涙は拭えたが、代わりに鼻の赤みが増している。


 美少女が台無しだぞ。


 そんな軽口を言おうとした。が、声にならなかった。


 胸がきりきりと痛む。作ろうとした表情が、笑顔にならない。






 お前は、私の誇りだ



 お前には、もう価値がなくなった





 ずっと押し殺してきたトラウマが甦る。


 そして以来。先輩やカナデさん、健太郎やあかりといった大事な人たちからの言葉でさえ、心に届かなくなった自分の姿が目に映る。


 全てを吐き出したことで、殺してきた感情までもが顔を覗かせようとしていた。


 しかし弱さは見せられない。敗北も、失敗も許されない環境で刷り込まれた習性。親父によって刻み込まれた習性がブレーキをかける。


 俺は言葉の飲み込み、ただ震えに耐えるしかなかった。


「大丈夫だ……俺は何も気にしてなんかいない。俺は誰かに助けて欲しいだなんて……」


「——それは嘘、だよ。

 私に嘘は通じないんだから」


 俺の手を。震えた手を、なぎさの暖かな両手がそっと握った。


「真司くんは価値のない人なんかじゃないよ。

 だってあんなにもみんなに好かれているじゃない。

 私のことだって、助けてくれたじゃない」


 なぎさが言葉をかけてくれる。


 もちろん俺はその言葉を受け取ることができない。


 父親の言葉が嘘だったと知って以来、自分を認める言葉を嘘としか捉えられなくなったのだから。


 だがそれを見越してか、なぎさは言った。


「私は、嘘をつくことができない」


 ——?


 いきなり何を言い出すのかと思ったが、なぎさの体質を思い出して、理解する。




 なぎさは嘘をつくと倒れてしまう。

 しかし目の前のなぎさは倒れていない。




 “価値のない人間なんかじゃない”




 そのように言ったなぎさが、倒れていない。


 それが何を意味するのかを。



「——真司くんが言葉を嘘としか受け取れないというなら、嘘を言えない私がはっきり言ってあげる」


 なぎさが俺をまっすぐに見た。

 俺の頑なな心を見つめるような、その奥の感情へそっと触れるかのような、やさしい瞳だった。


「真司くんは価値のない人間なんかじゃない。

 お兄ちゃんも、健太郎くんも、あかりちゃんも、みんながあなたのことを認めている。

 私は嘘を見抜けるんだもの。みんなが心から真司くんのことを認めてるって、私にはわかってる。


 だからね。もう自分を否定しないで。


 もしもあなたが誰かの言葉を受け取れないときは、嘘を言えない私があなたの心に言葉を届ける。

 あなたの傍にいて、ずっと支えてあげる。


 真司くんがずっと、私にそうしてきてくれたように」


 そうしてなぎさは俺の手に添えた両手に、そっと、力を込めた。




 

 気持ちの殻にヒビが入ったみたいに、瞼から涙がこぼれ出た。





 なぎさの言葉が、じんわりと胸に滲んでゆく。


 それはもう長らく感じていないはずの。


 もう二度と感じることがないと思っていたはずの温かさだった。


「っ……ごめん。俺……」


 くしゃくしゃになりそうな顔を片手で覆う。しかし見苦しい俺の姿に、なぎさは慈しむような微笑みを向けてくれた。


「いいの。真司くんだって私がここで泣いたとき、黙って、私が立ち直るのを待ってくれたじゃない」

「——あの時とは立場が逆になっちゃったな」

「これで、おあいこだね」


 気恥ずかしい台詞に「カッコ悪いおあいこだな」そう切り返す。なぎさは「素直になればいいのに」と頬を少しふくらませた。


「私は素直なことしか言えないのに、真司くんだけはぐらかすのはずるくない?」

「べ、別にはぐらかしてないぞ」

「——嘘。

 ねー、素直になりなよぉ♪」


 べたー、となぎさがへばりつく。無邪気な笑顔が俺に近づく。


 部屋で二人きり。


 そして密着。


 これはやばい……!


 と、まあ俺はやばいと思いながらも、微笑ましいスキンシップをしばし楽しませていただこうと、ゆるく抵抗を続けた。




 バタン! と開いた扉から祐介先輩が現れたのはその時だった。




 なぎさとばっちり抱き合った状態で、買い物袋を抱えた先輩と目が合った。


 これは やばい。そう思う間もなく、



「真司ぃぃっぃぃぃぃっぃいいいいぇぇぇぇぇええええええぁぁああああああああああっっ!!!!!」



 先輩の悲鳴とも怒号ともつかない声が、工藤家に響き渡った。

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