第22話 箱庭の少年少女(2/4)

 放課後になって、俺は自販機の前にいた。


 硬貨を入れて指を伸ばすと、「アイスカフェオレ?」横からそんな声が聞こえた。いつのまにかなぎさがいた。


「よくわかるね」

「いつも飲んでいるから」


 さすがにいつも昼を一緒に食べているだけに、俺の好みはお見通しのようだった。


「けど残念でした」


 指の進路を変えてボタンを押す。カコン、と軽い音を立ててオレンジジュースが落ちた。


「なぎさはこれだよね」

「え、何でわかるの?」

「いつも飲んでるから」


 なぎさの手にジュースを渡す。なぎさは「え、え?」と声を漏らしながら俺を見た。「テスト頑張ったね」そう言うと、なぎさはぱぁっと晴れやかな表情を浮かべた。向日葵みたいな笑顔だった。


「うん! 私、今回は頑張れたよ!」


 なぎさは今にも跳ね回りそうなくらい快活な声で言った。


「だってあんな順位、私が取れるなんて思わなかったもん」

「うん。俺もびっくりしたよ」

「でしょう? 褒めて褒めて!」


 よほど嬉しかったのか。なぎさは微妙に幼児化していた。


「たまたまだよ」なんてクールに言い放っていた教室での態度とはえらい違いだ。


「先輩にも教えてあげたらいいよ。きっと夜通し褒めてくれる」

「それも嬉しいけれど、お兄ちゃんはなんでも褒めるから」


 ごもっともな意見だ。『なぎさは何位でも可愛いぞぉ!』とかそんな声が耳に浮かぶようだった。


「それにね。真司くんに褒めてほしいの」


 少し周りに視線を配ってから、声をひそめてなぎさは言った。


「ここまで頑張れたのも真司くんが助けてくれたおかげだと思うから」

「俺は何もしてないよ。なぎさが努力したからでしょ。

 これなら進級試験も突破間違いなしだ」


「——本当?」

「嘘じゃないことは分かってるくせに」


「うん、もちろんわかってる。でも聞きたいの」

「本当だよ。今のなぎさなら合格できる」


「そっか。うん、やる気出た!」


 なぎさはオレンジジュースの缶をきゅっと握った。


「私、絶対に合格するよ」


 そして決意を口にした。それは嘘をつけない体質のなぎさが、決して口にしたことのない言葉だった。


 できたらいいな、とか、がんばる、とは違う。


 掲げた目標を達成するって、本気の覚悟が裏付けた言葉だ。


「それじゃあ私、行くね。今日は零歩先生に数学を教わる約束なの。

 真司くんはこれから部活?」

「うん」


「じゃあ一緒に帰ろ。お兄ちゃんも」

「わかった。じゃあ昇降口の前あたりで待ち合わせな」


「わかった。真司くん、ジュースありがと。真司くんも部活頑張ってね!」


 そう残してなぎさは校舎へと戻っていった。


 頑張るって言っても、練習するのは選手なんだけどね。俺はマネージャーだし。


 そんな言葉を返す間もなくなぎさはその場から消えていた。


 まあ、マネージャーとしての仕事をきっちりやろう。俺は残金でカフェオレを買うと、喉へ一気に流し込んだ。


 いつもならこの程度のカフェインで覚醒するはずだった。


 しかし今日はどうも効きが悪いような感じがした。






 鈍い感覚は練習が始まってからもずっと続いた。


 ちゃんとやれていないわけではない。けれどどうにも、何をするにも、今日は調子が出なかった。


 練習を終えると、俺は部長の祐介先輩に部室へ残るよう言われた。


 そして開口一番に「今日、何かあったか」そんなことを聞かれた。


「体調が悪いわけじゃないんだろ。そういう動きじゃないからな。

 ただパス出すにも、何するにも集中できてない。

 なにかマズイことがあったのか? だったら先輩に相談するといい」


 先輩は決めつけるように言った。俺が不調なことには確信があるようだった。


「いえ。むしろいいことならたくさんありましたよ」

「ん……?」


 先輩は怪訝な顔をしたが、黙って続きを待った。


「まずなぎさ……さんが定期テストで凄い順位を取りました」

「お! あれは嬉しかったなぁ!

 けどそれは知ってるぞ。一年の順位は朝いちばんに見に行ったし」


 先輩はなぎさがいい成績を取ると期待して、1年生のフロアまで足を運んでいたようだ。


 溺愛ぶりもかなり仕上がっているなぁと思う。


「他には?」


 立て続けに聞かれ、健太郎が陸上で県選抜に出ること、あかりが生徒会からスカウトを受けたことなんかを話した。


 笑顔で話せたかどうかはわからないけれど、心のモヤモヤを表に出さないような言い回しには気を付けたはずだった。


 が、先輩にはどうも通用しなかったらしい。


「それで自分には何もないとか悩んでんだ」


 容赦なく本質を言い当てた。付き合いの長さは恐ろしいと思った。


「まぁそんな所だろうと思ったよ。お前は他人の良いところはよく見えてるからな。

 そのくせ、自分の良さはまったく認めてやれない」


「そもそも良いところがありませんから」


「また謙遜をする……いや、お前のは謙遜とは違ったな。

 まぁいいか。今はそんなことはどうだっていい。お前にはコレがある」


 そう言うと先輩は足元のボールを浮かせ、俺の胸元へと放った。


「梶本。今は休養中かもしれないが、お前にだって積み重ねてきたものがあるだろう。

 そろそろ戻ってこい。

 お前はお前が思っている以上に、必要とされている人間だ」


 先輩が俺のプレーヤー復帰を勧めてくる。


 それはいつものことだ。しかし今日は少し雰囲気というか、トーンが違うような気がした。


「お誘いは嬉しいんですが」


 いつものようにはぐらかしてみるが、先輩は眉ひとつ動かさない。


「買い被りです。プレーヤーとして活躍できる力は今の俺にはありません。

 ましてや全国を目指すチームで役立てることなんか……」


「お前がチームの役に立つかどうかは、部長の俺が決めることだ」


 そう言うと先輩は一度解いたスパイクの紐を締めなおした。


 そして


「部長命令だ。今すぐ靴を履いてグラウンドへ来い」


 そう言って祐介先輩は荷物も持たず部室を出た。


 すれ違いざまに見えた先輩の目は、完全に“入っている”時の目だった。公式戦……あるいは選抜でプレーするときの、全力を出すときの“入り”方だ。


 ぐっしょりと濡れた手を拭って、外へ出る。


 もう薄暗くなりかけたグラウンドの真ん中に先輩は立っていた。


「マッチプレーだ、梶本」


 うちの部活でよくやる、オフェンスとディフェンスの一対一の練習。それを先輩が申し出る。


「俺がオフェンスをやる。お前は俺のゴールを防いでみせろ。

 本来ならボールを奪って点を決めるとこまでだが、今日は止めるだけでいい。

 一本でも止めることができたら、勝負は終わりだ」


「そんなの俺が相手になるわけ」

「部長命令だ」


 聞く耳を持たず、先輩がボールを足元に寄せる。


 ホイッスルはなく、互いの目が合ったのを合図にプレーは始まった。


 そうして先輩のつま先がボールの端をつつく。ボールが転がる。それと共に先輩の身体が、ゆらりと前へと傾く。


 そう認識して構えたその瞬間だ。


 閃光のようなドリブルが、あっという間に俺の横を切った。

 

 棒立ちの俺の背後で、ゴールネットの擦れる音がする。


「もう一度」


 祐介先輩は俺と目も合わせずに言うと、ボールを拾ってセンターサークルへとついた。


 そしてプレーが始まる。


 先輩は一直線に向かってきた。心の準備すらできないままに、目の前へと先輩が現れる。


 強烈なプレッシャーに耐えきれず俺は足を出した。が、ボールへ届く頃には先輩も、ボールもすでに姿を消している。


 静かに、音もなく先輩は二つ目のゴールを決めた。


「先輩……もう」

「もう一度だ」


 有無を言わせないやりとりを挟んでプレーが始まる。三度も、そして四度目。結果は同じだった。


 中学の頃からの付き合いだ。強いのは分かっていた。しかし、いざ一対一で向かう場面で見た先輩の動きは予想を遥かに超えたものだった。


 文字通り、ケタが違う。手も足も出ない。


 スピードも技術も、俺が一緒にプレーできていた頃とは別物にまで進化している。


 敵わない。届かない。


 絶望的な力の差を感じながら、俺はゴールにたたき込まれたボールへ手を伸ばした。


「——梶本くん」


 ネットの向こうから俺を呼ぶ声が聞こえた。


 カバンを両手に握ったなぎさが、膝をつく俺の姿を見下ろしていた。






「どうしたの、梶本くん。それにお兄ちゃんも」


 なぎさが俺の目線に合わせるように身をかがめた。


「もう暗いよ? 二人とも何を」

「なぎさ」


 にわかに表情を曇らせるなぎさに、祐介先輩が駆け寄った。そしていつも妹に向ける、優しい笑顔を浮かべて言った。


「俺と梶本はもう少し練習してから行くよ。先に帰ってくれるか」

「練習? こんな時間まで……」

「続けるぞ梶本」


 先輩が俺の手元からボールを拾い、定位置へと戻ってゆく。


 俺は立ち上がり、軽く砂を払った。


「ねぇ、梶本くん。本当にどうしたの。何かあったの!?」

「——ただの練習だよ。大丈夫だから」

「嘘だよ。二人とも様子がおかしいもの」


 なぎさが嘘を宣告する。だが構わずに、俺はディフェンスの定位置へと立った。


 そしてなぎさが見守る中でプレーが始まり、途切れ、また始まる。


 もちろん結果が変わるはずはない。うちのレギュラーやOBでさえ、一対一で先輩を止められる選手などいないのだ。


 俺が止められる可能性は限りなくゼロ。何度やっても同じだ。


 もう何回繰り返しただろう。息を切らせて膝をつく俺に「もう一度」先輩が言った矢先だ。


「もういいでしょうっ!」


 なぎさの叫びが、夕闇のグラウンドに響いた。


「どうして……どうしてこんな無茶な練習をするの? こんなのおかしいよ。お兄ちゃん」

「心配ない。梶本が勝てば、それで終わりだから」


「無理だよそんなの! 梶本くんはマネージャーじゃない!

 それなのに、お兄ちゃんに敵うわけなんて」

「逆だ。なぎさ」


 先輩は小さく首を横に振った。


「梶本が俺ごときに勝てないはずがない。梶本は、本当は俺よりもずっと上にいたはずの男だ。

 そうだろ。元U15代表、梶本真司」


 先輩が俺の過去を明るみに出す。


 15歳以下の、最も優秀なプレーヤーの一人に数えられていた時代。


 俺がまだ自分の力を信じて、夢を追っていた頃の話だ。


「そりゃあお前が言うように、昔と同じだけのプレーはもうできないのかもしれない。

 けど事故の傷が残ったとはいえ、ブランクがあるとはいえ、お前の力が俺にまったく敵わないなんてことはないはずだ。

 技術とか体力の問題じゃない。お前もわかっているはずだよな。梶本」


 全てを知る先輩の言葉は、その全てが的を射ている。それでも俺は頷くことさえできずにいた。


「そろそろ乗り越えるんだ。お前は、本当は誰より自分を信じて戦うことができる男だったはずだろ」


 毅然とした声だった。だが言葉に節々に、先輩の優しさが込められていた。


 先輩は俺のことを思って言ってくれている。頭ではわかっている。


 それでも心に響かない。


 尊敬する祐介先輩の言葉でさえも、何も感じない。


 感じることができない。








 俺は自分を認めることができない。


 そういう体質になってしまったからだ。









「——ボールが見えなくなってきたな。次で最後にしよう」


 先輩はボールを足元に落とした。


「次で止められなければ、いったん今日は中断だ」


 終わりとは言わず、先輩がボールへ右足を乗せる。


 行くぞ。


 目でそう合図をして、先輩がこちらへ向かってくる。疲れをまったく感じさせないボール捌き。進路を塞ぐ俺の身体を縫うようにして、ボールがすり抜けようとしている。


 幾度となく繰り返した成果だろうか。ボールの軌道、先輩の動きを追うことはできた。


 触れることが不可能な状況じゃない。頭ではそれがわかった。


 しかし


 敵わない。俺にはできない


 気持ちが思考を塗りつぶし、体を鈍らせる。


 最後のシュートを決める直前に見えた祐介先輩の横顔は、勝者とは思えない寂しげな表情をしていた。


「負けました。完敗です」


 背を向けたままの先輩にお辞儀をする。先輩はゴール脇に置いていたジャージを羽織った。


 そしてこちらを向くこともないまま


「それでも、俺は待ってるからな」


 そう言って部室へと戻っていった。




 荒れたグラウンドに一人で佇む俺と、遠ざかる先輩をなぎさが狼狽えた表情で見ていた。


「——なぎさ」

「は、はい」


 なぎさが上ずった声で返事をする。


「俺たちも帰ろう。先生に見つかったら面倒な時間だし」


 むしろ今の今まで誰にも見とがめられなかったのが不思議なくらいだ。グラウンドの整地は明日の朝一でやっておけばいい。


「荷物も置いてきているし、俺も部室へ戻るよ。待ってもらって悪いけど先に帰っていてくれるかな」

「え……でも梶本くん。その、大丈夫なの?」


「心配ない。本当だ。俺は何とも思わないから」

「でもそれは」


 なぎさは何かを言いかけていた。けれどかける言葉が見つからなかったのだろう。視線を泳がせるばかりで、それ以上を声にすることはなかった。


 なぎさは俺についてこなかった。多分、今は一人になりたい俺の気持ちを汲んでくれたんだと思う。


 ありがとう。それと、ごめんな。


 胸のうちで謝りながら彼女のもとを去った。


 いつもの自分に輪をかけて、情けなくて、格好悪いところばかりの一日だった気がした。

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