第21話 箱庭の少年少女(1/4)
夢を見た。
それは昔の夢だった。
見覚えのある場所だった。中学の頃まで通っていたサッカー場だ。
背景だけが真っ暗闇のピッチで少年が一人、無心にボールを蹴りこんでいる。
昔の自分だとすぐにわかった。
あれは、まだサッカーに打ち込んでいた頃の自分だ。
少し離れた場所には男がいた。上物の背広を着た男は腕を組み、少年が練習する姿を見つめている。
少年は足元のボールを全てゴールの端に蹴り込むと、男のもとへと駆け寄った。男は大きな手で少年を撫でた。
そうして穏やかな笑みを少年に向けて言った。
真司。お前は、私の誇りだ
少年は嬉しそうに目を細めた。そして再びピッチへと戻り、また無心に練習へと打ち込んだ。
夢を叶えたくて。そして父親に認められたくて、少年は必死にピッチを駆け回っていた。
映像はそこで途切れた。
次に見えたのは見慣れた部屋の天井だ。
薄暗く物音もない部屋で、俺の荒い息遣いだけが響いていた。
汗だくの額を拭い、半身を起こす。枕元の時計は午前三時を回ったところ。
いつもの起床時刻までまだ二時間もある。しかし俺は再び体を倒すことなく、ただ茫然と、さっきまで目にしていた父子の姿を浮かべていた。
「——嫌な夢を見た」
それはもう忘れたはずの、遠い昔の夢だった。
最終話 『箱庭の少年少女』
鬱屈とした寝起きを引きずりながらも、俺はつつがなく朝練を終えた。
荷物をまとめて教室へと戻る。するといつも以上にテンションの高い健太郎が俺に手を振った。
「おーい、真司! 見たか? 中間テストの結果見たか!?」
テストと聞いて、ああ、そういえば今日だったなと思い出した。
うちの学校では定期テストの結果が掲示板に張り出される。公立学校ではあまりやらないらしいが、うちの学校では“切磋琢磨”の校訓のもと、定期テストの成績上位が公開されることになっていた。
「健太郎……お前がまさか五十位以内に……?」
「いや僕が入れるわけないじゃない」
「だよな。そうだよな」
「なんでほっとしているのさ」
「地割れとか起きたらやだなぁって思って」
失礼な! と叫んで健太郎が手刀を振り下ろす。それを躱し、俺はそのまま自分の席へと向かった。
「ちょ、待てって真司!」
慌てて健太郎が俺に追いついてくる。どうやら話は終わっていないらしい。
ただでさえ朝はテンションが上がらないのにな……。正直後にしてほしかったが、そんな注文を聞く男ではない。
仕方なく足を止める。すると健太郎は「聞いて驚くなよ」そう言って顔を耳に近づけた。
「なぎさちゃんが学年で47位になった」
47……?
数字を頭の中で反芻する。そして数字を呟いたところで、ようやく健太郎の言っていることが頭に沁みてきた。
「マジで?」
健太郎が黙ってうなずく。この感じは本当だ。
思わずなぎさの席へと視線が向く。そこには小さな女子の人だかりができていた。
「工藤さんすごいね! 頭いいんだね」
「私、50番なんて入れないよ。どうやって勉強したの」
クラスメイトが驚くのも無理はなかった。学年350人の中で47位。うちの学校なら六大学への入学が望める学力だ。
それを復学してから二か月あまりのなぎさが達成した。健太郎が驚くのも無理はない。
「たまたまだよ」
そんなことを言いながら、なぎさは穏やかな笑顔で応対をしていた。そして
「それに今回はね。あかりちゃんがテスト勉強に付き合ってくれたから」
隣の席に視線を送って、そう付け加えた。
「ぇ……」
目を丸くしたあかりに視線が集まる。あかりは状況を悟るや否や、首をぶんぶんと横に振った。
「そ、そんな違うよ! わたしなんて一緒に勉強しただけだよ。
できたのはなぎさちゃんが頑張ったから……」
「ううん。そんなことない。すごく助かったよ? ありがと、あかりちゃん」
なぎさの言葉にあかりは尚も否定をしていた。なぎさは嘘をつくことができない。きっと本当なんだろう。
あれから一週間ちょい。俺や健太郎がいない場面でも、なぎさとあかりが行動を共にすることも増えたようだ。
「そっかぁ、あかりも頭いいもんね」
「今度わたしにも教えてよ。わたしも47番とか取ってみたい!」
「クラスで?」
「それじゃビリ以下じゃないっ!」
きゃいきゃいと女子のはしゃぐ声が聞こえる。健太郎はそんな姿を見ながら「これでなぎさちゃんも頭いい組かぁ」そんなことを遠い目で呟いていた。
「なぎさちゃんが47位。あかりが13位。そんで真司が学年4位。
アホなの僕だけじゃんっ!」
健太郎が頭を抱えて唸りはじめる。
しかし五秒もすると「まぁいっか」とか言ってけろりと表情を戻した。
「僕には陸上があるしね。勉強なんて関係なし! それが僕の持ち味だ。
次の県選抜もぶっちぎりで通ってやるもんね!」
冗談みたいに言ってはいるが、的は外れていない考え方だと思った。
健太郎は学力を補って余りあるほどの才能がある。この学校で誰よりも早く走れるという才能が。
きっと健太郎はいつか、その分野で輝かしい舞台へ立つ男になるのだろう。
それは素晴らしいことのはずなのに。その光景を思うと、なぜだか少し胸の痛む自分がいた。
「あれ? あかりは?」
それからいつものアホな雑談を交わしている最中、あかりの姿が教室から消えているのに健太郎が気づいた。
見るとさっきの女子グループにあかりの姿がなくなっている。いつのまにいなくなったんだろう……そんなことを話していると、あかりが一枚の紙を手に、斜め後ろの席へと戻ってきた。
「お帰り、あかり。どこ行ってたの?」
「うん。……これ」
手にしていた紙を広げて見せる。そこには大きな文字で『後期生徒会役員 立候補用紙』とあった。
「さっきね。生徒会の会長さんが来て、わたしにこれをって」
「——スカウト?」
少しの間を置いて、あかりが控えめに頷く。
「すげーじゃんかそれ!」
健太郎は大げさに叫んで席を立った。
「会長が自らあかりを誘いに来たってことだろ? そんなの滅多にないよ!
それでさ、な? やるのか? あかり」
「ん……」
あかりはまた少しだけ間を置いたが、今度はさっきより強く頷いた。
「代表委員会で顔を合わせる機会にね。お話をもらってはいたの。
最初はわたしなんて……って思ってたけれど、会長さんがあまりに何度も誘ってくれるし、周りの子もやったらって言ってくれてる。
それでわたしでも、少しでも学校の役に立てるならって」
声に戸惑いが混じってはいたが、あかりは自分の考えをはっきりと示した。
「いいよ、いいと思う! あかりならやれるって!」
健太郎はまるで自分の事のようにテンションが上がっていた。そんな健太郎に、あかりははにかんだような笑顔を返した。
「それで、あの……あ」
あかりは顔を見るなり、小さく声を漏らした。
「真司くん、どうかしたの?」
「?」
「なんか元気がないような……勘違いだったらごめんね」
窺うようにして、あかりが俺の目の奥を覗き込む。
わずかに滲む感情の機微。そういうものをあかりは感じ取る娘だ。そんな気遣いが、人への優しさが、きっと生徒会の会長にさえも認められたのだろう。
人の顔色を窺う力。それが例え天性のものではなく努力の賜物だとしても。
常人にはない、あかりの魅力に違いない。
「ううん、何もない。いつも通りだよ」
俺が笑顔を作ると、「良かった」と安心したように、あかりも笑顔を取り戻した。
「俺も生徒会に挑戦してみるのはいいことだと思う。きっとあかりなら活躍できる」
「だよな。頑張ってみなって!」
健太郎と二人であかりの背中を押す。
「真司くんたちが言うなら……うん。わたし、頑張ってみようかな」
机に広げられた立候補用紙へ、あかりはふたたび視線を落とした。
それはいつか見た強い少女の姿。学校へ行くと決めた時の、なぎさの姿と重なって見えた。
みんなが少しずつ前に進んでいる。過去を置き去りにするように、自分なりの一歩一歩を踏み出している。
一緒にいていいのかと思うくらい友人たちが眩しく見えた。
その姿に憧れることはないし、自分も、って思うこともないけれど。せめて友人たちの成功を近くで見られたらいいと思う。
冷めた気持ちのまま俺は席を立った。
行く場所があったわけじゃない。けれどなんとなく、今はここにいたくない気分だったからだ。
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