第18話 やさしい嘘つき(2/4)
そして夏休み最後の土曜日。俺は駅前の雑踏を縫って、約束の場所へと向かっていた。
腕時計に目を落とす。針の示す時刻は十時四十五分。
待ち合わせの時計台はすぐ傍だ。
よし。きっちり十五分前。
シャツの襟を正し、角を曲がる。そこには前髪を弄りながら手鏡を覗くあかりの姿があった。
「おはよ、あかり」
「ひゃいっ」
びくんと身体を震わせてこちらを振り返るあかり。
「な、なんか驚かせてごめん。あと待たせてごめんな」
「う、うぅん! そんなことないよ。わたしが早すぎたの」
慌てた手つきで鏡をしまいつつ、小さな頭をぶんぶん振って否定する。
「だって真司くん、いつも待ち合わせには十五分くらい前に来るから。
だからわたしも早く来なきゃって」
しまった。誘っておきながら女子を待たせてしまった。
「次はもっと早く来ないと」
「じゃあわたしももっともっと早く来るね」
「それじゃ埒があかないぞ」
そんなやりとりがおかしくなって、俺たちはどちらからとなく笑った。
そして雑談を交わしつつ歩き出す。込み合う休日のアーケードは、よそ見一つではぐれてしまいそうなほど賑わっている。背の低いあかりと一緒では尚更だ。
「あかり。こっち」
あかりの手を取ると、またもあかりは甲高い「はい」の声を返した。
それでも、ひんやりしたあかりの手はしっかりと俺の手を握り返してくれた。
居並ぶ店をひとしきり回り、俺たちは大通りに面するビルの喫茶店に腰を落ち着けた。
窓際の席にあかりと向かい合って腰かける。ガラスの向こうには小さな池と、水面に反転して映る噴水が見えた。
「ありがとう。買い物、付き合ってくれて」
お礼を言うとあかりは「うぅん、全然」やわらかい笑顔でそう返した。
「わたしも色々なお店見れて楽しかったよ? こんなのも貰っちゃったし」
バッグにぶら下がったピンクのクマがくるくると回る。
通りかかったゲーセンで取り、あかりにプレゼントしたものだ。
「わたしね。実はこのキャラクターのグッズ集めてたの。だからこれ、凄く嬉しい」
「そっか。気に入ってもらえて良かった」
そんなことを言ったが、このキーホルダーを狙ったのは偶然じゃない。普段の持ち物とかを見ていれば大体の好みは分かる。
まあ、それをわざわざ言うことでもない。俺は冷たいコーヒーを喉に流した。
「あかり、甘いもの平気だっけ」
「? 好きだよ」
「すみません。季節のタルトとバニラフロマージュを一つ」
「はい。かしこまりました」
カートを押す店員が笑顔で応じ、あかりと俺の皿へ小さなケーキを乗せた。
「あ、気になってたケーキ」
「今月のおすすめだって、入口のボードに書いてあったね。分けて食べようか」
俺は新しいフォークを取り、タルトの端を一口サイズに削った。
そして腕を伸ばし、あかりの目の前に差し出す。
「はい」
「え?」
「口開けて」
あかりは視線を泳がせ、周りをきょろきょろと見渡した。
そして深呼吸みたいに大きく息を吸うと目を固く閉じて、ケーキを口に運んだ。
「どう?」
聞くとあかりはどもりながら「美味しかった、です」と答えた。後半は消え入りそうな声で。
「あ、真司くんも……」
そして俺にもフロマージュのかけらを口へと運んでくれた。甘みの後を追うように酸味が口の中へと広がる。
「ん、これもいい感じ。やっぱここのケーキは外れないね」
「真司くん、このお店よく来るの?」
「ううん。でも昔はけっこう通ってたかな。カナデさんたちと」
「カナデさん?」
「ああ、サッカー部の先輩の友達。よく遊びに連れてってくれる人がいたんだ」
カナデさんとは祐介先輩が中学の頃に付き合っていた彼女だ。今はもう別れている。
別にあかりが知ってどうこうというわけではない。けど人の過去を他人が語るものじゃないと思って、少しだけ表現を濁した。
それでも、カナデさんの名前を口にしただけで、あの頃のことは今も鮮明によみがえる。
今からもう1年以上前。引きこもりを脱却したばかりで、俺の人見知りがピークだった頃。
『あなたのコミュ力を叩きなおしてあげる』
そう言ってカナデさんは、ほとんど毎日、俺を色々な場所へ連れまわした。
特に女子の扱いにはうるさかった。
連れていくならこういうお店がいい。こういうマナーが必要。
目を見なさい。顔じゃなく表情を見なさい。
胸を見ないの。胸のうちを見るの。
数々の教育は今も俺の骨身に沁みついている。
そんなこんなで、俺は完璧にカナデさんの色に躾けられた。
俺がまともにコミュニケーションが取れるのは彼女のお蔭だ。だから俺は先輩と同じくらい、カナデさんにも感謝している。
俺は自分が引きこもりだった過去を省いて、ものすごく大雑把に思い出を語った。
「そっか。そういうことだったんだね」
「そういうことって?」
聞くとあかりは視線を外しながらストローを咥えた。
「なんか梶本くん……慣れてるなぁって思ったから」
——わたしはこういうデートはじめてなのに。
最後は小さな呟きだったが、聞こえてしまった。
「慣れてるって何に?」
聞こえていないふりをして尋ねると、あかりは「ごめんね。なんでもないの」と慌てたように言った。
誤魔化されたのはわかったが、何を慌てているのかはわからなかった。
あかりと話すとこういうことがたまにある。別に珍しいことでもないため、追及したりはしないけれど。
「でも今日、残念だったね。健太郎くんたちの都合つかなくて」
露骨に話題を変えるあかり。俺は「そうだね」とあかりの意図に乗っかった。
「でもまぁ、その分あかりと色々遊べたし」
「そうかな。わたし、ただついていっただけだよ?」
「こうやって喋るだけでも楽しいよ。色んな話が聞けるしさ。あかりがどういうものを好きで、どういう事にハマってて……」
そこまで言うと、俺はお遊びモードだった思考を切り替えた。
「どういう事に悩んでいたりするのか、とかさ」
話の核心へ一気に迫る。
今日、あかりと一緒に過ごした意味は、この話題にあるのだ。
「どうして? 悩みなんて、そんなのないよ」
あかりは朗らかな笑みを作って言った。
そう返されることは百も承知だった。あかりは自分の胸に抱える不安を口にはしない。弱音のひとつさえ俺は聞いたことはない。
それはきっと心配をかけないようにって、周りの人を思ってのことなのだろうけれど。
俺や健太郎からすれば、大事な友達が不安を抱えたままであることのほうがよっぽど気にかかるのだ。
「俺たちにまで気を遣う必要はないって」
この際だ。俺は踏み込まなかった場所へ踏み込もうと思った。
もちろんあかりが嫌がるのなら、その時点で身を引く覚悟を持ったうえで。
「あかりの様子が最近ちょっと違う。それが分からないほど、俺も健太郎も鈍くないよ。
無理にその理由を聞いてるわけじゃないんだ。言えないことなら『言えない』でいい。
ただ心配事とかを聞くのは、面倒でもなんでもないから。それだけ知っていてくれると嬉しいかな」
その言葉にも、あかりの笑顔が揺らぐことはなかった。
けれど少しだけ目が泳いだのは、なぎさではないけれど、俺の目にもはっきりとわかった。
「わたし、変なところ見せちゃってたかな……?」
「いや、そういう意味じゃない。全く。
いつも通り天使のようないい子だよ。あかりは」
変な空気になるのを恐れて、普段のノリを意識して言葉を返した。
普段なら「そんなことないよ」なんて言って、あかりが照れながら否定する場面だ。しかし今日のあかりは違った。
「良かった。わたし、変なところ見せてないよね。
いつも通りだよね。真司くん」
愛くるしい完璧な笑顔で、声色で、あかりはそんな風に繰り返した。
否定する要素なんてありはしない。
あかりはいつも通り気遣いができる、誰からも愛されている少女だ。
「お世辞なんかじゃない。あかりは本当にいい友達だ。ただいつもとちょっと違うかなって、そんな気がしただけなんだ。
なぎさとのやりとりとか見てて。なんとなく、さ」
「工藤さんとのやりとりで?
——もしかして、わたしの様子がおかしいって思ったのも……?」
「おかしいとは思ってないぞ。ただちょっといつもと違うなって」
あかりが再び気にしたような言葉を吐く。それは一度終わったはずの話題なのに。
何がきっかけかはわからない。ただ話の雲行きが怪しくなってきたのを感じた。
「そっか。そうなんだ。工藤さん、良く見ているもんね。
ファミレスに行こうって誘ってくれたときも……海に行く日を決めたときだって」
脈絡のない呟きがあかりの口から漏れる。
あかりが何を言っているのか、俺はいよいよわからなくなった。
こんな経験は初めてだ。
「ファミレスってこの間の話か?」
確か先週、あかりは用事があって一緒に昼飯へ行けないと言ったのを思い出した。
あの時になぎさとあかりに何かあっただろうか。真剣にあの時のやりとりを浮かべるが、あかりがなぎさを気にするようなやりとりは思いつきそうにない。
それまで途切れ途切れにも話題に合わせてくれていたあかりも、この
まるで扉を閉めるかのように。
「あ、噴水から出る水が増えてる。
上から見ると星形に見えるようになってたんだね。綺麗」
そう言ったときには、先ほどまで表情に滲んでいた陰りもなくなっていた。
それはいつもの、俺たちにとって見慣れたはずのあかりだ。
けれど今日はなんだか、拒絶されているようにしか思えなかった。
あかりと夕方まで遊び、家まで送った後の帰り道。首尾の報告が必要だろうと健太郎に電話をかけた。
いつもは電話を取るどころか、かけ直すことすらも怪しい健太郎がすぐに電話に出てくれた。
「すまん」
開口一番。俺は健太郎へ謝罪の言葉を口にした。
「やっぱり俺じゃうまく話を聞き出せなかったよ。下手したら状況が悪化したかもしれない。
ごめん。本当に」
「何で真司が謝るのさ」
健太郎は心の底から、俺が謝るのが理解できないと言った調子で返してくれた。
「頼んだのは僕となぎさちゃんだろ。それを受けた真司が謝らなきゃいけない理由なんてないじゃん」
「けど俺がもっとうまくやれたら」
「あーあー……聞こえない聞こえない」
健太郎が受話器の向こうで奇声を発した。
「真司は悪くないと言ったら悪くないんだ。てか誰も悪くなんてない。
自分を責めるなって。僕が面倒くさいから」
健太郎は健太郎なりのやり方で、俺にフォローの言葉をかけてくれた。
「それにさ。こういうときに真司がいてくれるのに僕は感謝してるんだ」
「感謝?」
「僕は……こういう性格だからかな。“悩む”って感覚が、正直わからないんだ。
物心ついたときにはそうだった。今までただの一度も“悩み”ってものに苦しめられた記憶がない。
そのせいだと思う。僕にはできないんだ。友達の悩みを理解するとか、痛みを分かち合うってことが。
でもさ。真司は違う。
僕と違って、人の痛みを同じようにわかってやれる。
だから頼んだぜ」
これまで淀みなく話していた健太郎がはじめてわずかな間を置いて、こう続けた。
「あかりのことを助けてやってくれ」
それは健太郎と出会ってから最も、健太郎らしくない言い方だと思った。
いつも底抜けに明るく、圧倒的な存在感で俺の前を歩いてきた健太郎。
俺にないものを兼ね備えたその背中を、今まで何度、羨ましいと思ったかわからない。
その健太郎が言ったのだ。何の力もない俺に向かって。
頼んだぜ、と。
「あんまり期待はしないでくれ」
「——真司」
「ただ最善は尽くす」
それだけ言って、俺は通話を切った。たぶん健太郎にとってもそれで十分だと思ったからだ。
俺は大きく息を吸って空を見上げた。いつもより大きく、明るい月が藍色の空に浮いている。
「やれることはまだある」
俺は自分に言い聞かせるつもりで、普段は言わないような独り言を口にした。
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