第12話 なぎさ、学校へ行く(4/4)

『いい友達になりましょう』


 そう言って差し出された手。その手を握り返すこと。


 このやりとりは、おそらくなぎさの禁忌タブーに引っかかっている。


 これは健太郎にとってみればただの挨拶だ。


 しかし問題は、なぎさから見てとも取れる表現であることだ。


 なぎさは嘘をつけば発作を起こす。だから自分が心から思っていないことは言えないし、応じることもできない。


 その体質が人間不信によって生まれたことを失念していた。俺もまともに話ができるまで二か月かかったのだ。


 健太郎がどんなに気のいい人物でも。


 誰が相手でも、なぎさは出会った初日に心を許すことができない。


 友達になろう。それはなぎさにとって、重すぎる“約束”なんだ。


 少なくとも今。この時点においては。


 人間不信を克服しないまま手を握り返せば、それは健太郎に……あるいは。


 自分の心に嘘をついたことになる。


 健太郎がきょとんとした表情でなぎさを見る。なぎさは額に汗を滲ませながら、唇を噛んでいた。


 この状況、今のなぎさじゃどうにもできない。


 俺がなんとかしなくては。


「健太郎」


 硬直した空気を俺の一声が動かした。そして隣のなぎさに、視線で合図を送る。


「意外とシャイなところあるんだ。なぎささんは。男子からいきなり手を差し出されて恥ずかしかったんだと思う」


 俺は慎重に言葉を選んで、続けた。


「俺のときもそうだった。なぎささんは割と人見知りなとこあるよな」


 そこに来て、なぎさは俺の意図を察したように目を見開いた。


 そして、静かに息を吐いて頷いた。


「そう……なの。私、こういうの慣れてなくて」


 少し怯えた様子を見せながらも、なぎさの喉から声が絞り出される。


「でも嬉しかった。慣れるのに少し時間はかかるかもしれないけれど、こんな私でよければ……」


 言葉は最後まで続かなかった。


 けれど精一杯。いまのなぎさにできる限界まで言葉にしようとしたのは確かだし、前向きになろうとしている気持ちも、ここにいる全員に伝わっただろう。


 健太郎は手を引いた。けれど満足げな表情をしていた。


「そっか。早く慣れてくれるといいね!

 今度遊びにでも行こうぜ。夏休みも近いし。あかりはどこ行きたい?」


「え、あ、うん。涼しいところとかどうかな」

「海とかいいかもね!」


 そしてもとの雑談へと戻る。


 俺は相槌を打ちながらもやっと一息をついた。どうやら上手く切り抜けられたらしい。


『人見知りなとこあるよな』


 あの時、俺はなぎさにそう尋ねた。


 “友達になろう”は無理でも、“人見知りなところがある”には、なぎさも頷くことができる。


 質問をすり替えたのだ。なぎさが嘘をつかなくて済むように。


 なぎさが恥ずかしがり屋なのは本人も自覚していたことだしな。昼食前のやりとりを覚えていたのが役に立った。


 健太郎は何事もなかったように場を賑わしていた。なぎさも少し疲労の色が見えるが問題なさそうだ。


 いつまでもこんなやり方が通じるかわからない。


 けど、ひとまず無事になぎさが輪に入れたのだ。良しとしようじゃないか。


 ふと正面を見るとあかりが言葉少なく、俺を見ていた。


「あかり?」


 何か聞き逃したかと思ってあかりに問いかけてみる。しかしあかりは


「ううん。なんでもない」


 そう言っていつもの朗らかな笑顔を見せた。






 相談室で零歩先生と話して、昼ごはんを皆で食べて、部活をやって。そんな何でもない一日が、今日はやたらと長く感じた。


 窓から差す光もいつの間にかオレンジに変わっている。


 いつもより遅くなったかな。俺は部員の個人データをファイルに閉じ、鞄を肩にかけた。部室の靴も俺の一足しか残っていない。


 鍵をかけてクラブハウス棟を後にする。街灯にはもう明かりがついていた。


「梶本くん」


 門を抜けるとすぐに名前を呼ばれた。なぎさが一人で立っていた。


「どうしたんだ。こんな時間に」

「待ってたの。ちゃんとお礼、言いたくて」


「ああ、昼間のこと」

「うん」


「どうってことないよ。ちょっと口を挟んだだけだし」

「ううん」


 なぎさが首を横に振る。


「それでも私は助かったから。だから、ありがと」

「——どういたしまして」


 なぎさが頭を下げたのを見て、俺もなんとなく頭を下げてしまった。


「私はどうしようもないって思ってた」


 小さな手が、胸元の白いリボンにそっと当てられた。


「もしも約束を求められたり、答えられない質問をされたら……そのとき私は、黙り込んでしまうか、関係が悪くなることを覚悟で本音を話すかの二つしかない。


 そんな風に思って、私は自分の体質をどうしようもないものだって、勝手に諦めてた。


 でも今日は梶本くんに教えてもらった気がする。できることはあるんだって。


 それでまたちょっと、これから頑張れるかもって思ったの」


 そんな風になぎさは前を見たまま言った。


 できることはある、か。


 それは正しいと思った。なぎさの体質は確かにコミュニケーション上のハンデだが、工夫ひとつで回避できるケースもある。それが今日はっきりしたわけだ。 


「あんな誤魔化しでよければいつでも」

「うん。あ、でも」


 なぎさの視線がまっすぐに俺に向けられた。


「日塚くんや双葉さんとも友達になれたらって思うのは本当。

 今すぐは難しくても、いつかは心から、信じたいっていう気持ちは本当なの」

「わかってるよ」


 俺は顔を上げて笑ってみせた。


「なぎささんは大丈夫。きっと何もかも上手くいくさ」


 言葉に、なぎさもまた笑顔を返してくれた。


 何もかも上手くいく。そんなことを真正面から信じられるような道を、なぎさも俺も歩んできてはいない。


 けれど希望を持つくらい許されてもいいだろう。言葉くらいは前向きでないと、やってられない境遇なんだから。


 だから俺は、下手な希望を口にできないなぎさの代わりにもう一度呟いた。


「きっと、上手くいく」


 なぎさは頷いた。そして「うん」とは言えない代わりに「ありがと」を返してくれた。


「それじゃ帰ろうか。途中なんか奢るよ」

「え、でも悪いよ?」

「こんな時間まで待ってもらったし。

 一説によると、女子を待たせた男は甘いものを奢るのが義務なのだそうな」


 いったいどんな説なのよとばかりに、なぎさは呆れた笑顔を見せた。


「じゃあお兄ちゃんに遅くなるって伝えたほうがいいかな」

「門限とかあるんだ」

「ううん。でも遅くなってお兄ちゃんが捜索願とか出すといけないから」


 面白い冗談だ。と一瞬思ったが、なぎさは嘘を言うことができない設定を思い出して笑いがひきつった。


 筋金入りすぎやしませんか、先輩。


「あんまり遅くなりすぎないようにしないとな」

「コンビニとか寄る?」

「そうだね。アイス食べようアイス」


 夕日を右手に見ながら、なぎさと会話を交わす。そんな帰り道。


 なんてことのない日常だ。なぎさにとっても、早く当たり前の日常になればいいと思う。


 試験とか。トラウマとか。人間関係とか。難しいことはいろいろあるけれど。


 大丈夫って言い聞かせるだけで少しは違う。少しは重さが変わるはずだ。


 きっと、いつかはなぎさにも壁が来る。けれどそのときまでは馬鹿みたいに笑っていられたらいい。


 笑いあって歩く先の空を見た。


 薄明るい夜空に、白い星が点々と光っているのを見つけた。





第三話『なぎさ、学校へ行く』 了

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