第10話 なぎさ、学校へ行く(2/4)

 グラウンドから部活にいそしむ学生たちの掛け声が聞こえる。


 窓の外を見ると、俺の所属するサッカー部の何人かがランニングを始めていた。


 試合も近い。選手たちは気合が入っているみたいで、マネージャーの俺も気が引き締まる。


 話が終わったら早めに加わろう。そんなことを思っていると、鞄を腕にかけたなぎさが教室から姿を見せた。


「お待たせ」

「ん。行こっか」


 そして二人で進路指導室へと向かう。周囲から微妙な視線を感じたが気にしないようにした。


 特に背後でハンカチを噛んでる健太郎はいないものと考えたい。


 さすがに気になったのか、なぎさもちらちらと視線を送っていた。が、気にしたら負けだという俺のスタンスを悟ってくれたらしい。健太郎に曖昧な会釈だけして付いてきてくれた。


 ここでヤツに構うと夜になる恐れがあるので本当に助かる。


 事情は明日にでも話すとしよう。俺は面倒事を後回しにすることに決めた。


 そんなあれこれを経て俺たちは進路指導室の扉を叩いた。「どうぞ」の声を受け取り、中へ入る。


 そこにはすでに祐介先輩の姿があった。


「お、梶本も呼ばれたのか」

「はい。あ、先輩。練習メニューは」

「問題なし。ボードに貼っておいたから」


 先輩は親指を立てて言った。さすがわが部の部長。抜かりがない。


「いらっしゃい、工藤さん。梶本くん。

 いまお茶出すわ。適当に座って」


 零歩先生が白衣を翻し、冷蔵庫の中からグラスを取りだす。


「あ、先生。お構いなく」

「いいの。わたしが飲みたいんだから」


 冷たい麦茶が俺たちの前に置かれた。一瞬だけど、先生の顔がすぐ真横に並んだ。


 つい視線が奪われた。


 零歩先生はいわゆる美人教師と呼ばれる存在だ。背はそう高くなくて顔は童顔。しかし控えめながら上品な化粧と振る舞いが女性の魅力を醸しており、知性と色気が共存させられている。


 この学校には女子が五百人近くいるけど、その中で五本の指に入る美人だろう。


 と、健太郎が言っていた。あいつは五百人の女子全ての顔を把握しているのだろうか。だとすれば恐ろしい男だ。


 まあ情報の真偽はわからないけど、零歩先生が綺麗なのは間違いない。


 ただ一つだけ。俺は初めて会うこの人に、特別な感情を抱いてしまった。



 なぎさは……この人の作ったテストで試験を落とした。



 ——つい浮かんだ暗い感情。俺は振り払うように頭を振った。


 テストを作った人間を恨むなんて、八つ当たりもいいところだ。


 今回の結果は、テストの傾向を見誤った俺の責任だ。それ以外にはない。


 先輩やなぎさは、零歩先生の前でもいつも通りに話している。二人は数学Ⅰのテストの出題者が直前で零歩先生に変わっていたことを、そもそも知らない。


 これからも知る必要はないだろう。


 表情を作って、机に落としていた視線を戻す。


 こうして俺たちの会話は穏やかに始まった。


「よく来てくれたわね。工藤さん」


 零歩先生は湯飲みから口を話すと、なぎさへ視線を向けた。


「工藤さんがとっても難しい体質なのは先生も知ってる。学校へ来るのもすごく勇気のいることだったって思うわ。

 それでも、工藤さんは自分の意志で一歩を踏み出すことを決めた。その成長が先生はすごく嬉しい」


「——。はい。先生にもご心配をおかけしました。気にかけていただいてありがとうございます」


 零歩先生の言葉になぎさが応える。おそらく作りものではない笑顔で。


 それは二人が偽りのない言葉を掛け合っているからだろう。


 トラウマから生じたなぎさの“嘘アレルギー体質”は、全ての嘘を100パーセントの精度で見抜く。


 そして彼女自身、絶対に嘘をつくことはできない。


 零歩先生は心からなぎさの心配をしているのだ。そしてそんな先生に、なぎさもきちんと感謝をしている。


 それが傍から見ていても伝わった。


「それでも、ここがスタート地点よ」


 甘えなしの現実を、零歩先生が口にした。


「工藤さんが進級するには結果を出さなきゃいけない。出席日数も、追認試験もね」


 なぎさが黙って頷いた。そう。それがなぎさに課された条件だ。


 十月までに出席日数を延ばし、問題のない生活態度を見せること。そして十月の進級テストで充分な学力を見せること。それができなければなぎさは今度こそ留年になる。


 それは決して簡単なことじゃない。なぎさには嘘アレルギー体質という大きなハンデを背負っている。


 その弊害に苦しむ出来事が起きない保障などどこにもない。


「なぎさ……」


 先輩の表情が翳った。しかしなぎさは「大丈夫です」と一言、前を向いたまま言った。


「今日までお兄ちゃんや梶本くんにたくさん助けてもらいました。今度は私が頑張る番です。

 怖いことも……本当はたくさんありますけど、簡単に諦めたりなんてできませんから」


「そう。……うん! よろしい。工藤さんは大丈夫そうね」


 零歩先生は笑顔で太鼓判を押した。


「祐介くんに梶本くん」

「あ、はい」


 急に呼ばれて、俺は身体を緊張させた。まず先輩が、少し遅れて俺が返事をする。


「工藤さんをしっかり助けてあげてね」

「はい! なぎさのためなら火の中風呂の中ですよ!」

「……お風呂はやめてね。お兄ちゃん」

「冗談冗談。さすがに風呂には入らないから安心しろ」


 火の中が冗談じゃないあたり恐ろしい。


 ちょっと言動があれだが、先輩は本当にいいお兄さんだ。だからなぎさも、多少恥ずかしい思いをしても、先輩の愛情を疎ましく思ったりしない。


 二人の関係は見ていて微笑ましい気持ちにさせられる。


 そしてほんの少しだけど、羨ましくも思う。


「梶本くん」

「はい」

「梶本くんは工藤さんと同じクラスだったわね。工藤さんにもしものことがあった時、一番傍にいるのは梶本くんの可能性が高いと思う」


 もしもの事。それは発作のことを言っているんだとすぐにわかった。


 なぎさは嘘を口にすると気を失うレベルの発作を起こす。もちろん発作を抑える薬は携帯しているが、事情を知った上で介抱できる人間がいるに越したことはない。


「工藤さんが学校に来られなかったのは体調の都合ということで通しているわ。

 1-Dで本当の事情を知っているのは担任の先生と梶本くんだけ」


「はい。万が一のときは僕が保健室に連れてきます。周りにはそれらしいこと言って」

「ええ、そのときにはね。でもそれもあるけど、梶本君にお願いしたいのはもっと別のことよ」


 別のこと? そう聞き返す間もなく言葉は続けられた。


「工藤さんの不安を忘れないでいてあげて。傍にいて、彼女がどうにもならない場面で手を引いてあげて。

 梶本くん。あなたはそういうことができる子のはずだから」


 無意識のうちに俺は先生の言葉を頭の中で繰り返した。いや、脳が勝手に言葉を再生させていた。


『できる子のはずだから』


 脳の芯へ鈍い痛みが広がる。


「買い被り、ですよ」


 俺は誤魔化すように笑って首を振った。


「俺は……すみません、僕にはそんな大した働きはできません。

 でもなぎささんさえ良ければ、できる範囲で協力したいと思っています」

「——梶本くん?」

「それでいいでしょうか」

 

 俺たちのやりとりをなぎさは不思議そうに見守っていた。先輩は少し目を伏せ、黙って俺の言葉に耳を傾けていた。


 零歩先生が俺の眼を覗いている。探るような瞳で。


 しかし緊張は気のせいかと思うくらい一瞬だった。零歩先生は「お願いね」と優しく微笑んでなぎさとのやりとりへ戻った。


「それじゃあ追認試験の要項のことだけれど……」


 書類が並べられ、なぎさと先輩の注意がそっちへ向けられる。俺はというとまだ零歩先生から視線を外せずにいた。


『あなたはそういうことができる子のはずだから』


 なぜ、それがわかるのだろう。先生と顔を合わせたのは今日が初めてなのに。


 夕方にはすべての話が終わり、俺たちは進路指導室を後にした。なぎさとは昇降口で別れて先輩と部室へ向かう。


 その途中で俺は先輩に尋ねた。


「先輩。零歩先生って、俺のことどこまで知ってるんでしょうか」


 俺のこと。つまり俺が中学まで、なぎさと同じ引きこもりだったことだ。


「梶本のこと……ああ」


 あえて明言を避けたが先輩はわかっている風だった。


「わからないけど、少なくとも一時期中学へ通えてなかった事実は知ってるよ。それは間違いない。

 ほら、俺が梶本になぎさの相手を頼んだのが6月の頭だったよな」

「そうでしたね」


「実は梶本に相談したらってアドバイスくれたの、零歩先生なんだ」

「え?」


「最初に零歩先生のところへ相談しに行ったらさ。なぎさに近い境遇から抜け出せたことのある人に。

 梶本に協力してもらうのもひとつの手じゃないか、って」


 それは初耳だった。話の中で零歩先生の名前もちらほら耳にしてはいたが、俺が関わることになったきっかけに零歩先生の絡みがあるとは知らなかった。


「確かに……家族がらみのトラウマって意味では、俺もなぎささんと似たところがあります。

 けどなんで俺が中学の頃の話を先生が知ってるんでしょう」


「深く考えたことなかったけど、言われてみたらそうだなぁ……」


 先輩はなぎさのことで頭がいっぱいだったらしい。疑問を抱くことすらなかったみたいだ。


「中学から持ち上がりの資料にあるんじゃないか? ほら。内申書の特記事項とかそういうやつ」


 考えた時間はわずかだったが、返ってきたのはもっともらしい答えだった。


 確かに進学の際、学校間では多くの資料が共有されていると聞く。その中に中学時代の素行や家庭環境の資料が含まれていたとしても不思議ではない。


「それなら零歩先生が昔のことを知っているのも説明できますね。けど……」


 考え方は間違ってないと思う。資料があるなら俺の経歴が知られていても不思議じゃない。


 けど零歩先生の態度は書面の情報だけで、俺を知っている感じではなかった。


「気になるのか」


 隣を歩く先輩の歩調が緩む。気を遣わせてしまったらしい。


 俺は「いえ」と簡単に否定した。


「大したことじゃないです。ちょっと不思議に思っただけで」

「そうか? ならよかったよ。それより紅白戦のチーム決めだけど……」


 話題の切り替えと一緒に俺も頭を切り替えた。


 そうだ。まったく大したことじゃない。零歩先生が何を知っていようと、全ては過去の話だ。


 見透かされてる感じがしたのも、そういう風に思わせるカウンセリングの技術なのだろう。


 俺のことはどうでもいい。問題はなぎさがこれから上手くやっていけるかだ。


 嘘をつけないなぎさが、どこまで人と歩み寄ることができるか。


 最後まで見届けたいと思った。できれば、明るい結末に至る最後まで。


 俺はぼんやりと歩いてきた道を振り返った。正門の辺りに、ひとり帰路につくなぎさの姿が小さく見えた。

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