第8話 ふたりきりの試験勉強(4/4)

 テストと部活の練習を終えた放課後。俺はまっすぐ工藤家へと足を運んだ。


 いつもならテストの打ち上げとでも称して遊んでいる頃合だ。


 けれど俺ははしゃいでいられる気分にはなれず、健太郎たちの誘いを断ってここを訪れた。


 インターフォンを鳴らすと、先輩が俺を迎えた。ずっと参考書で埋まっていたリビングの机には、お菓子やらジュースやらが並べられていた。


「遅いぜ梶本。早く座れよ」


 先輩がジュースをついでくれる。テーブルには三つのケーキが置かれていた。


 俺が来ることは予想されていたらしい。


「っと、そういや静岡の土産も渡しそびれてたな。とってくる」


 慌ただしく先輩が階段を駆け上がってゆく。事前に訊いておきたいことがあったけど、しかしタイミングがつかめず俺は座布団に腰を下ろした。


 いつもの場所に座っているなぎさと向かい合う。二人きりになると、なぎさは口を開いた。


「来てくれたんだ。友達と打ち上げとか、行かなくてよかったの?」


 ばつが悪そうに目をそらす。なぎさは俺が先輩に呼ばれてここに来たと思っているようだった。


「もともと来るつもりだった。他に約束もなかったからさ」

「嘘」


 端的に指摘される。


 なぎさに嘘は通じないことを、このときの俺はなぜだか忘れてしまっていた。


「ごめんね。でも、ありがと」

「いや。そういえば、さ」


 ぎくしゃくした間をおいて言葉が出た。しかし続きが声にならない。


 テストの出来はどうだったのか。そんな世間話が形にならない。


 それはなぎさを信じようとする思いを、現実的な考えが上回っているからだろう。


 後ろめたさを隠せずに、どうしても視線が彷徨ってしまう。


「梶本くん」


 沈黙を破ったのはなぎさの声だった。


「テストのことなら心配しないで。やれるだけのことは……やったつもりだから」


 なぎさは穏やかな微笑みを俺に向けた。後ろ向きの感情を少しも感じさせることのない表情だった。


「でもなぎさ……さ」

「お待たせっ!」


 元気な掛け声とともに先輩が戻ってきた。


 腕には浜松の名産“うなぎパイ”の箱が抱えられていた。しかも三箱。


「ほら梶本、お土産だ! 梶本はうなぎとか好きだろ?」

「ええ……まあ」

「そんなお前にこれだ。浜松名産のうなぎパイ!」


 うなぎパイはうなぎというよりも、パイ寄りのお菓子ですが。


 そんなツッコミをさせる間もなく、先輩が俺の口にパイを詰め込む。


「あ、甘い」


 口の中でパイ生地が水分を吸って膨らむ。喉に詰まりそうで、俺は慌てて麦茶を口に運んだ。


 そんな様子を見て先輩もなぎさも笑っていた。


 彼女は俺が帰るまで、この日、ずっと笑顔を崩さなかった。


 けど。俺はそんななぎさがやはり気になって仕方がなかった。


 なぎさは笑顔で『心配しないで』と言ったけれど。


 一度も『テストができた』とは言っていなかったのだから。






 そうして楽しい時間は過ぎ、日常が戻ってくる。


 普通に部活に出て土日を過ごし、テストの返却が始まる週初めの授業を迎えた。


 先輩は各教科の先生から預かったなぎさの答案を、本人よりも先に俺へと回してくれていた。なぎさも承諾してくれているらしい。


 現国81点。日本史72点。世界史68点。


 苦手とされていた科学も59点でセーフ。


 半数を返却された時点で、なぎさの点数は危なげなくボーダーラインを突破していた。


「なぎさも心配そうな顔はしてないし、こりゃあもらったぜ!

 な! 梶本!」

「……ええ」


 形だけの相槌しか返せなかった。テスト最終日に見せたなぎさの無理した笑顔が、どうしても脳裏にこびりついて離れなかった。


 万が一の事態になったら、その時はどうする。


 俺は先輩と話している間も、思考の半分は別のところにあった。


 杞憂ならそれでいいし、それが一番いい。


 なぎさは彼女なりに精一杯頑張った。


 それでも現実は、努力や理想とは関係なくやってくる。


 最終科目“数学Ⅰ”


「なぎさの点数は」


 時計の秒針の動く音がやけに響くリビングにて。


 あの先輩が肩を落とし、蚊の鳴くような声で結果を語った。


「47点。あと一問分、足らなかったよ」


 なぎさも俺も黙って先輩の声を聞いていた。


「平均点は42点らしい。一週間ちょいの勉強でよくここまで取ったよ。お兄さんは感動してるぞっ!」


 先輩が沈んだ表情を見せたのは一瞬だけで、あとはいつものように元気な声で前向きな言葉をかけてくれていた。


 しかしなぎさは顔こそ上げたものの、なにも言葉を発しなかった。


「なぎさ……」


 なぎさは無理な笑顔を作っていた。けれど何も言わない。


 どんなに強がろうとしても、なぎさは心にもないことを言えない。そういう体質だからだ。


 口を開けば後ろ向きな言葉ばかりになってしまう。


 だからただ微笑んで。叫びたくなるような悔しさを噛み殺して。


 なぎさはいまこの瞬間まで弱音を零さずにいた。


 ずっと必死でやってきた。それでも結果は実らなくて、辛くないはずがないのに。


「先輩」


 少しだけ、席を外していただけませんか。俺が目で合図をすると、先輩は小さく頷いた。


「そういえば、さっきから梶本がバニラアイスを食べたそうな顔をしてるので、ちょっと出かけてくる」


 下手です、先輩。でもありがとうございます。


 意味不明な退室理由になってしまったが、いちおう意志は通じていたようだ。


 ぱたりと音を立ててリビングの扉が閉められる。


 それとほとんど同時だった。


 なぎさの目から、ずっと溜まっていたものが堰を切って溢れたのは。


「梶本……くん。ごめん。……ごめんね……」


 混じりけのない思いが涙とともに零れた。


「今までたくさん……たくさん助けてもらったのに……私……!」

「うん」

「でも結局は……駄目で……。頑張ったけどだめで……」

「わかってる」


 俺は家庭教師としてずっとなぎさを見てきた。


 だから彼女の努力が、流す涙に見合うものであることはわかっているつもりだ。


「なぎささんの努力は本物だった。俺も、きっと先輩も認めてるよ。

 だからさ」


 俺は少し息を整えて言った。


「——これまでしてきた努力をもう少しだけ、続けることってできる?」


 なぎさは目元を拭って顔を上げた。両目を赤く晴らしながらも、しっかりと俺を見据えている。


「まだ道は残されてる。これまでよりきつい挑戦になるけど」


 いま、俺がどんな慰めをしようが結果は変わらない。


 そう思ったから俺は事実だけを端的に語った。


「頑張って頑張って、それでも水の泡になる可能性もある。

 それでも挑戦する覚悟はある?」


 なぎさがそうしているように、俺もまた彼女の目を見た。


 そうすれば言葉なんかなくても、気持ちは伝わる。そんなふうに思った。


 すると、なぎさもまた俺に視線を返した。そして一言「やってみたい」と力強く応じた。


「なんだってする。教えて、梶本くん」


 ——なぎさは嘘を言えない。だがそんな制約がなくても、間違いなく本気の言葉だとわかった。


 だから俺も、もう迷わず背中を押そうと決めた。


 鞄から二枚の書類を取り出す。進路の先生から預かってきた、試験の要項だ。


「なぎささんは今回の試験で留年の規定に引っかかった。それはもうどうしようもない。

 けど俺たちと同じ学年に進級できる手段はある。

 それがこれだ。追認試験」


 なぎさが留年になるのは、単位が足りないから。


 この追認試験というのは、定期テストとは別に単位の取得を認めるというものだ。


「秋にやるこの試験で規定以上の成績を残せば、今回の留年は事実上無効になる。

 もちろん簡単な試験じゃないけどね」


「でもそういうのって、受けるのに条件があるんじゃ」


 なぎさはやはりその点を気にした。


 あまりに特別な措置を認める試験だ。受験資格というものがないわけがない。


「その1。学力が優秀であること」

「それはそうよね」


「その2。特別な実績を持つこと」

「わたし特技とかあまりないんだけど……」


「その3。学業に取り組む姿勢が優秀であること」

「だめじゃないそれ!」


 なぎさが叫んだ。


「姿勢って授業態度のことでしょ。姿勢もなにも私、学校に行ってなかったんだよ?

 それじゃ受けることさえ……」

「大丈夫だ」


 予想されていた反論に、俺は断言で返した。


「ほら。要綱には“出席日数が何日以上”とか一言も書いてないでしょ? そこは進路の先生にも確認をとってある。

 制度を柔軟に運用できるように、学校側もわざと曖昧な表現にしてるんだ。


 だからその辺りは教育的配慮でなんとかしてくれる。留年者なんて極力出したくないだろうしね。

 それでも点数に関してだけは、合格点を取るしかないんだけど」


 先輩の出してくれたウーロン茶を口に運ぶ。氷が溶けてほとんど水の味になっていた。


「これからなぎささんのやることは二つ。

 ひとつはもちろん学力を伸ばすこと。これは必須だよね。

 それともうひとつは“学業に取り組む姿勢が優秀”なのを先生に見せることだ。つまり」


 そう。


 学校に通うこと、だ。


 あえて言葉にはしなかった。試験よりも何よりも、これが一番なぎさにとって難しいこと。怖いことなんだ。


 なぎさは目を見開いたまま俯いていた。スカートの裾を握る手が震えていた。


 逃げたくない。でも、怖い。


 嘘を見抜いてしまう体。嘘をつくことのできない体。


 こんな体で人と接するのが怖い。学校に行くのが怖い。


 そんな気持ちが痛いほどに伝わってくる。


 実際問題、嘘を使わず人間の社会で生きていくことは可能なんだろうか。高校生という多感な時期を、心を壊さずに乗り切れるものなのか。


 そして俺はそんななぎさの力になれるのか。


 彼女を支える覚悟があるのか。

 

 自分の胸に聞いてもわからなかった。


 だから。


「なぎささんが本気なら、俺はそばにいて力になりたいと思う。

 いや。必ず力になるよ」


 ——こうやって言葉にすることで。


 自分の覚悟が本物かどうか。薄っぺらな嘘ではないのか。


 その判断を、嘘を見抜くことのできるなぎさに委ねた。


「梶本くん……」


 なぎさの瞳が俺の目を写している。どんな嘘をも見抜く両眼。


 腹の底までも覗き込むかのような目は、正直に言って怖い。


 それでも視線は逸らさなかった。


 ——厳しかった試験勉強をなぎさはやり切った。別室受験とはいえ、人の目に耐えて学校の門をくぐった。

 

 彼女は最後まで逃げなかったからだ。


「無理をさせてごめんね。梶本くん。

 それと、ありがとう」


 緩んだ目元。優しい視線に変わって、なぎさは口を開いた。


「私が学校でうまくいく保証はない。わかっているのに……梶本くんはその怖さを一緒に抱えてくれようとしているよね。

 正直……ごめんね。何を言っても本音になっちゃうけど、私も自信がない。

 みんなの輪に入れるかわからない。後悔することになるかもしれない。それが怖いよ。

 でも一人じゃないなら。

 梶本くんが一緒にいてくれるなら、頑張りたいって思う」


 なぎさは少しだけ複雑な表情を浮かべて、小さな手のひらを胸にそっと当てた。


 人の嘘を見抜いてしまう枷。嘘をつけないという枷。


 いずれも人間社会で生きていくには、大きなハンデキャップと言っていい。


 それでもなぎさは“頑張りたい”と言った。


 強い娘だと思った。


「そ、それはそうと梶本くんって、同じクラスなんだよね?」

「え、今更?」

「う、うん。それならいいの。

 クラスメイトだから……そういう意味だよね」


 そっか。なぎさは一回も教室に来ていないから知らないんだな。


 そういえば初めて会った時も、サッカー部の後輩としか名乗っていなかった気がする。


「でもそういう意味って?」

「——だってそばにいて力になりたいって、それって……

 なんかプロポーズみたいだったから」


「!? ち、ちが……っ!

 いやごめん、変な言い方して……!」

「う、ううん。私こそ変なこと言ってごめんね」

 

 シャツの襟元を引っ張り、手のひらで仰ぐなぎさ。ほんのり顔が赤らんでいる。多分、俺も。


 まだ心臓がうるさく鳴っている。なぎさとこういう空気になるとはまさか思ってもみなかった。


 しかし不思議だ。あかりには「俺の嫁だ」とか平気で言ってるのに。


 自分がよくわからなかった。


「——せっかくだし少しクラスのことを話そうか?」

「う、うん。聞かせて」


 話題を変えて仕切り直す。


 なぎさは俺の話に、不安半分、興味半分のまなざしを向けた。


「うちのクラスに健太郎って面白い奴がいてな……」


 他愛のない話で盛り上がる。なぎさは笑って話を聞いてくれた。


 俺もいつのまにか、暗い気分が胸から消えていることに気がついた。


 こんなに気持ちが軽いのも久しぶりだった。


 あくまで今は一時的な休息に過ぎない。これからなぎさはトラウマと戦いながら集団の中に混じっていかなきゃならない。勉強だって寝る間も惜しむくらい熱心に取り組んでいく必要があるだろう。


 けれど今は少しだけ緩い時間を過ごしてもいいと思った。そういうスタートも悪くないと思った。


 なにもかもがいきなり上手くいく事なんてない。


 けど昨日より今日を。今日より明日を、ほんの少しでも前向きな日にできればいい。


 柄にもなくポジティブなことを考える自分に、思わず苦笑いしてしまった。


 けどまあ、たまにはそんな気分になるのも悪い気はしなかった。





 ついになぎさの学校生活が始まる。そして今までよりも過酷な場所へふたりで挑んでゆくことになる。


 どうなることやら、ね。


 俺はぼんやりとカレンダーを眺めた。


 七月も、もう半ばに差し掛かろうとしていた。





第二話『ふたりきりの試験勉強』 了

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