第4話 つけない嘘(4/4)
「……?」
なんの前触れもなく倒れたなぎさを前に、俺は呆然と立ち尽くしていた。
そんな俺に視線をよこすことなく、もちろん現状の説明をするでもなく。なぎさは震える手で、何かを口に運んだ。
それだけやり遂げると、なぎさはぱたりと床に伏した。この時点でようやく俺は我に還り、傍にかがみこんだ。
「おい、大丈夫か!」
うつぶせになった彼女の顔を見る。結構な量の汗が額を湿らせ、全身から力が抜けていた。
息は整っているが、返事はない。意識を失っているようだ。
身体を揺すって声をかける。するとなぎさの手から、小さなケースが零れ落ちた。
——ピルケース?
透けたプラスチックの箱には、何種類かの錠剤が小分けにされていた。
倒れた直前になぎさが口に含んだもの。おそらくは何かの薬品だったのだろう。
しかし何の薬かは想像もつかなかった。持病でも抱えているのだろうか。
すぐにでも救急車を呼ぶべきか?
いや待て。確か先輩が言っていた。なにか問題が起こったらすぐに連絡をくれ、と。
先輩は病気のことを知っているのかもしれない。だったら先に……。
俺はすぐさま先輩に連絡を取った。どこで何をしていたのかはわからないが、先輩は一度目のコールですぐ電話に出た。
「おう梶本か! どうだ? 首尾は」
「説明してる場合じゃなさそうです。なぎささんが倒れました!」
息を飲む音が、受話器越しに聞こえた。
「どういう状況なんだ? 梶本」
俺はまくしたてるように経緯を説明した。話を整理していられる余裕はなかった。
まともな説明になっていたとは、とても思えない。それでも先輩は黙って俺の声に耳を傾けていた。
話が終わると最初に「薬は?」と先輩は訊いた。
「なぎさは薬を持っているはずだ。こうなった時のための」
「はい。意識を失う直前に飲んでいたのを見ました」
先輩の声を遮って説明する。すると少し間を置いて、落ち着いた先輩の声が返ってきた。
「薬は飲めたか。ならひとまず大丈夫だ」
どういうことなのか。説明を求めようとしたところで、先に口を開いたのは先輩だった。
「なぎさはときどき発作を起こす。あいつが持っているのは、それを抑える薬だ」
「発作って……なにか病気でも?」
「いや、病気というか」
妙な沈黙が少しだけ挟まれた。俺は黙って話の続きを待つ。
息を吸いこむような音が小さく聞こえた。
「妹は……なぎさは、嘘ってモノに過敏な体質だ。それは前にも言ったよな?」
「はい」
頷きながら返す。
「確かに聞きました。その影響で他人の嘘を見抜けるんですよね」
「それはそうなんだが、実はそれだけじゃないんだ。
——これはなぎさの秘密でもある。
けど梶本には、もう隠しておけないよな」
そんな前置きをして、先輩は言葉の裏にあったもうひとつの意味を明かしてくれた。
「なぎさは人の嘘に反応する体質だ。それには自分自身の言葉も含まれる。
なぎさは自分の口からも嘘をつくことができない」
一切の嘘を見抜く体質。一切の嘘をつけない体質。
それがなぎさの抱える秘密?
スマホを持つ手が、震えた。
「嘘に過敏な体質となったことで、なぎさは他人の嘘を見抜けるようになった。しかし同時に、嘘を言うことのできない身体になったんだ。
なぎさは嘘をついてしまい、それを自覚すると発作を起こす。俺となぎさは嘘アレルギーって呼んでる。
それを押さえるための薬を持っているんだよ」
嘘を言うと発作を起こす。
だとすれば、あんなことになったのは……
「自分のせい、だと思うなよ。梶本」
先輩の声は諭すような、柔らかい声だった。
「あいつの体質は誰のせいでもない。強いて言ったとしても、過去にあった悲しい出来事のせいだ。
お前が気に病むことじゃないんだぞ。わかるか?」
「……」
「わかったか?」
先輩は念を押すように繰り返した。繰り返してくれた。
それでようやく「はい」の一言だけが喉から出た。
「今からすぐ家に戻るよ。薬を飲めたならひとまず問題はないと思う。
けど念のため、俺が着くまでなぎさを看てやってくれ」
もう問題はない。その一言でようやく動悸が治まってきたのを感じた。
なぎさは無事なのだ。それがわかって、俺はただ安堵した。
「それにしても、なぎさが嘘をなぁ」
先輩はため息とともに、不思議そうな声を漏らした。
「なぎさも自分の体質は知ってるし、なによりあいつは嘘が嫌いだ。だからこんなことは滅多にないはずなんだ。
それなのに……なぎさのやつ。いったいどんな嘘をついたんだろうな」
先輩の言葉に、思わずハッとした。
倒れる直前になぎさが口にした言葉。
私は一人ぼっちなんて怖くない
この生き方を変えたいなんて思ってない
「——。あいつ、本当は」
「ん、何だ? よく聞こえなかった」
「いえ」
スマホを握る手が熱くなった気がして、俺はジーパンで汗を拭った。
「なんでもありません」
先輩との通話が終わり、まずは床に寝ているなぎさをソファに寝かせた。
なぎさの身体はすごく軽かった。二階の部屋まで運んでいけないこともなかったが、勝手に自室に入られて喜ぶ引きこもりなどいない。自分の経験を振り返り、そういう親切は遠慮した。
寝ているなぎさの顔色をみる。汗はもうほとんど引いて、今は静かな寝息を立てていた。
目が覚めるにもそう時間はかからないだろう。
ただこうやって普通に顔を合わせていると、やっぱりなぎさはドキッとするほど綺麗だった。罵倒されている時間が長かった分だけギャップは大きい。
「黙ってれば美人なのにな」
「……誰が」
「ってもう目覚めるんかい」
思わず一歩引いてしまった。目の前で急に瞼が開くとかなりびっくりする。というか心臓に悪い。
「起きて平気なのか」
「うん」
「なら良かった」
随分と汗をかいていたから喉が渇いているはずだ。台所のグラスを拝借し、水を入れてなぎさのもとへ運んだ。
「先輩にも連絡しておいた。じきに戻ると思う」
どこにいたかは知らないが、妹のためなら先輩はすぐにでも駆けつけるはずだ。
そして二度目の帰り支度に取り掛かる。
「——ねえ」
振り向くと、俺の渡したグラスを握りながら、なぎさがまっすぐに俺の目を見ていた。
「なんで、ここまでできるの?」
弱弱しい声だった。けどそれ以上に、寂しさを感じさせる声だった。
「お兄ちゃんならともかく、わたしとあなたは赤の他人じゃない。
それなのにどうして、ここまでしてくれるの?」
他人、か。その言葉を噛みしめると、なんだか苦い気分になった。
温かみのなかった自分の家族を思い出すから。
あるいは昔の自分自身を思い出すから、かもしれない。
「なぎささんが他人と言うなら、残念ながら俺たちは他人だ。人間関係は一方通行じゃ成立しないしね」
「だったら……」
「でもさ」
今までうっすらと思っていたこと。そして今ははっきりと自覚していること。それを形にする。
少し息を溜めて、ちゃんと彼女のほうを向いて伝えた。
「少なくとも俺は、なぎささんを他人とは思えなかった。だから力になりたいって思った。いちばんの動機はそれかな。あとは……」
あとは、昔の自分がしてもらったことに対する恩返しだ。
俺はかつて怪我のせいで夢を失った。
結果が全てとされた家庭環境の中で、唯一、心の拠り所としていたアスリートとしての自分を失った。
絶望のどん底にまで堕ちて、もう立ち直る日は来ないと諦めた。
だがそんな俺を、祐介先輩と、先輩の彼女だったカナデさんが救ってくれた。
その恩はいつか返さなきゃと思っていて。
そのいつかが今かもしれないと思った。
まあ、それをなぎさに言う必要もない。告白を喉元で止め、繕いの言葉を捜す。
「あと、他にも色々と思うところはあった。けど要は好きでやってたことだ。
なのにごめん。なんか、いろいろと」
思えばなぎさには、勢いにまかせてひどいことも言ってしまった。
自分のしたことにいたたまれなくなって、俺は小さく頭を下げた。
最後まで自己満足ばかりだったなと思った。
鞄を肩にかけ、そそくさと扉に向かう。
しかし背後から聞こえた声が、逃げることを許さなかった。
「私は」
背後からの声。気がつくと足が止まった。
「嘘をつけない身体で、人と関わるのが怖かった。どうしたって誰かを傷つけてしまうし、私自身も傷ついてしまうから。
嘘をつかないで生きていくことなんてできないもの。こんな世界じゃ。
でもあなたはそれをわかったうえで私と接してくれていた。
あなたにそんなことできるのって……」
なぎさはほんの少しだけ間を置いて、次の言葉をはっきり口にした。
「あなたも同じようなことで傷ついたことがあるからじゃないの?」
背中になぎさの視線を感じる。彼女に嘘や誤魔化しは通用しない。
だから。
「あったとしても、もう昔のことだよ」
つとめて冷静に、そう返した。
背中を向けているから顔は見られてない。それだけが幸いだった。
「そう」
なぎさはそれだけ言って、それ以上は何も訊こうとしなかった。
含みがあるのはわかっていたはずだ。その上で何も聞かないのは、なぎさの優しさだと思った。
「じゃあ、また」
言い捨てるような形で俺は扉を閉めた。
……うん。
空耳ではなければ、扉の向こうからそんな声が聞こえた気がした。
その夜。先輩からメールが届いた。
『なぎさが久しぶりにさっぱりした顔してる。梶本、なにかした?』
何かしたかと聞かれれば、それは“喧嘩”と答えるほかにない。
未熟で、稚拙で、バカみたいな言い争い。子供の喧嘩だ。
それでも悪い一日ではなかったように思う。俺は溜めこんでいたものを吐き出せた。
あんな結果にはなってしまったけれど、なぎさもそうだったんじゃないかって思う。
昼間の出来事を振り返りながら、メールを返した。
すると先輩からは『久しぶりだなあ。そうやって熱くなる梶本も』と、そんな言葉が返ってきた。
『昔のお前に戻ったみたいだ』
ため息をひとつついて、俺はスマホを置いた。
どうも苦手だ。昔のことに触れられるのは。
気分をさっぱりさせたくて、風呂に向かった。あたたかい湯船に浸かっている間、いろいろなことを考えた。
そのいろいろなことが何だったのかは覚えていない。とにかく、なんかどうでもいいことだったはずだ。
風呂から上がると、またメールが届いていた。
文面を確認してみる。そこには『今日はありがと』の一言だけが、顔文字もなにもなしで書かれていた。
「急にテンション変えてきましたね先輩……って、ん?」
そこには見たことないアイコンが表示されていた。
枕を抱えるパンダのイラスト。
ニックネームはNagisaと表示されていた。
「意外にかわいいアイコンなんだな。なぎさ」
パンダって……。一ヶ月以上見続けた、あのムスッとした表情を思い浮かべる。ギャップが妙に笑えた。
頬が緩んでいるのもそのせいだろう。そうに違いない。
「破られたメモも無駄にはならなかったか」
悪態をつきながらも返す言葉を考える。
さて、なんの話をしよう。
それから俺となぎさは少しだけやりとりをした。何を話したかは、まあどうでもいいことなので省くことにする。
ここからまた少し距離が縮まっていく気がした。
最終的になぎさを外に連れ出せるのは、いつになるかわからない。
それでもきっと、少しくらいは前に進んでいる。
いつかは同じクラスの仲間として、教室で顔を合わせられる日が来るんだろうな。
俺はそう遠くないはずの未来を浮かべて、送信ボタンを押した。
第一話『つけない嘘』 了
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