第7話
村の外に位置する川のほとり。
その比較的近辺に、いくつもの岩が重なり合う事で生まれた洞窟染みた場所が存在する。小柄な子供しか入れないだろう小さな洞。もし、ソフィアが隠れるとすれば、昔雨宿りなどをする際に頻繁に訪れていたそこだろうと見当をつけて俺は足を進めていた。
そして案の定、目的地へたどり着いた俺の双眸は見慣れたシルエットを夜中だというにもかかわらず、鮮明に映し出していた。
「おーい」
頭を抱え、蹲る少女——ソフィアに向けて声をかける。
心なし、身体を震わせていた彼女に向けて。
けれど、返事は返ってこない。
なるべく周囲の音を聞きとらないように心掛けでもしているのか、両の耳を己の手で塞いでいるように見える。
「む……」
だから俺はほんの少し頭を悩ませ、掛ける言葉を変えて見る事にした。ソフィアが思わず反応してしまいそうな言葉に。
「そこの家出少女」
「いっ、家出じゃないしっ!? ……って、あれ? ユリウス?」
「うん。ソフィアが飛び出していった原因って俺だしね。だから迎えに来た」
「迎えに来た、って……」
何気なしに俺がそう答えると、信じられないと言わんばかりに目を剥いて、
「魔物が外にいたでしょ!? それもいっぱい!」
「いたね」
こともなげに淡々と言葉を返せば、今度はパチパチと呆気に取られたかのようにソフィアは瞼を瞬かせた。
忙しいやつ。
言葉にこそしなかったが、ころころと表情を忙しなく変える彼女を目にし、そんな一言を感想として胸に抱いた。
「でもゴブリンなら倒せたよ。流石に殺せまではしなかったけど、気絶はさせてきたし」
「……ま、またまたあ。嘘は良くないよユリウス」
おじさん達、「狩人」の人でもそれなりにゴブリンには苦戦してるって聞くのに。
ゴブリン程度にしか遭遇しなかったからここまで辿り着けたと言う俺の言葉を冗談であると信じて疑っていないのか、次から次へと彼女の口から出てくる言葉は否定という意見を助長するものばかり。
「嘘じゃなくて、本当なんだけど……」
きょろきょろと忙しなく視線を辺りに向けながら、何かソレを証明出来るものはないかなと考え込む。
決して自慢をしたいわけではない。
ただ、今ソフィアが隠れ家としていた洞。
それが外からだと丸見えになってしまっていると先程気付いたからこそ、ここから連れ出すために証明しようとしているのだ。恐らく彼女は危ないからここで身を潜めようと試みる事だろう。しかし、外から中を視認出来るこの場所はどう考えても安全とは言い難かった。
だから、早いところこの場を後にしたい。でも無力な子供2人で逃げるくらいなら息を殺して朝まで待った方が……。という意見をきっとソフィアは口にする。それを見越していたからこそ。それを封殺する為の、証明が必要であったのだ。
そんな折。
ふと、手にしていた棒切れの先端に血痕が付着していたことに気づく。ひしゃげていた先端だからこそ、僅かながら尖った部分が存在していた。恐らく、その部分がゴブリンの皮膚を一部、食い破ったのだろう。
「あー、ほら」
そう言って俺は、血痕が滲んでいた先端をこれ見よがしにソフィアに見せつける。
赤黒く染まった薄気味悪い魔物独特の血液の色。
幸い、俺がゴブリンと戦闘を交わしたのはあの一度きり。運が良かったのだろう。他のゴブリンが襲ってくることも無く、俺はこの場所へたどり着く事が出来ていた。
「これで信じてくれた?」
尖った部分が当たらないようにと少しだけソフィアと距離を開けて突き出した棒切れの先端。
彼女は目を凝らし、付着した血痕を確認すると同時、すんすんと鼻をひくつかせた。
「え、え……本当に? 本当にユリウス、ゴブリン倒しちゃったの? ……あ、やばい、すっごい臭い。ぅっ、嗅ぐんじゃなかった……」
思い切り鼻をつまみ、耐えれないとばかりに棒切れに付着してしまっていた悪臭に顔を歪ませる。
「そんな、言うほど臭いかなあ」
鼻をつまんだまま身を悶えさせるソフィアを眼前に、今の今まで気づけていなかった事実を確認すべく今度は俺の鼻の付近へ先端を近づけて行く。
「うわっ、ホントだくっさ!!」
思わず身体をのけぞらせるくらいには臭いと感じる異臭がぷーんと漂っていた。
「でも、よくユリウス今の今まで無事だったね。あ、いや、何かあって欲しかったってわけじゃないよ!? ただ、魔物ってよく血の臭いとかに敏感だって話をよく聞くから……」
魔物が血の臭いに敏感。
その話は誰もが知っているような事実内容である。
「多分、運が良かったんだと思———」
ここで、俺の思考が一時停止した。
俺の世界が、緩慢になったと言ってもいい。
この瞬間より、俺は思考の渦に囚われた。
運が、良かった。
そう片付けるにしては、少し不自然過ぎやしないか。今の今まで気にしていなかったが、可笑しくはないだろうか、と。
一度疑問を抱いたが最後。
浮かび上がる疑問の感情は際限なく湧き上がる。
あれだけ喧しいまでに聞こえていた不快な鳴き声。
それがあの戦闘を境に聞こえなくなってはいなかっただろうか。点在していた筈のゴブリンの気配が、薄まってはいなかっただろうか。
どう、して。なんで。何故。
疑念が更なる疑念を呼び込み、背筋は粟立ち、喉が唐突すぎる渇きに襲われる。
『魔物ってよく血の臭いとかに敏感だって話をよく聞くから……』
数瞬前に鼓膜を揺らしたソフィアの声が部分的にそこだけ切り取られて巻き戻された。
……血、だ。血の臭いだ。
どうしてか、俺の周囲に血の臭いが漂うようになってからゴブリンの気配は薄まった。本来ならばむしろ、濃くなりそうなものが、何故か薄く。
その、理由は。
そう考えた時。
急激な喉の渇きに襲われると同時、脳裏を過るワードがひとつ。
「おーが」
感情の抜け落ちた声音で漸くたどり着いた答えを声にするべく喉を震わせる。
魔物に、知性はない。理性もあるかないか曖昧だ。
ならば、魔物は何に従って生きているのか。
答えは簡単だ———本能、である。
種としての本能に従っているのだ。
強き者にこうべを垂れるのも本能。
身を引くのも、傅き、従うのも何もかもが本能によるものである。
警笛が、鳴った。
絶え間なく、ソレは脳内で鳴り響いていた。
もし。
もし、ゴブリンがいなくなっていた理由が、運が良かったのではなく、オーガが臭いにつられて俺を標的にしていたとしたら。
我関せずとゴブリン達が逃げていたのだとすれば。
どうしてか、足りなかったパズルのピースがカチリと嵌まり込む音が幻聴された。
「まず、いッ」
そう思い、未だ洞の中で身を縮こませているソフィアに背を向け、俺は慌てて背後を振り返る。
そこには
「ガ、ァ……ァ」
鬼がいた。人間とは比べ物にならない程、強靭な身体をもった鬼、が。
つい数分前まで感じられていた筈のゴブリンなんて小者の気配など微塵も見受けられない。
「いつの、間に———」
周囲を圧倒するような強者のオーラが場を飲み込み、焦燥感に身を焦がす。
「……いや。ずっ、と、付けてたの……か」
上位に位置する魔物は例外的に、知性を持ち得ると風の噂で聞いたことがある。
血走った目を向けてくるオーガは俺を付けていた。
どうしてか。
他に、仲間がいると踏んだから。
「……勘弁して欲しいね」
勝てる、と。
そう踏んでいたオーガのやり口に瞠目しながら、幾らかオーガに対する評価を上方修正し直した。
赤く肥大化した筋肉。長さは俺の身長よりも大きいだろう錆びた大剣。何より、下卑た笑みを浮かべていたゴブリンとは異なり、オーガに俺を侮るという気はこれっぽっちも感じられない。
「ソフィア」
まだ、オーガが様子見をしている段階だと判断したからこそ、俺は自身と同様にオーガの姿を目にして息をのんでいた幼馴染の名を呼んだ。
恐らく、オーガという嵐に巻き込まれないよう、ゴブリン達はここよりもずっと離れた場所に避難している筈だ。だから。
「今なら多分、ゴブリンはいない。だから、逃げろ」
「ゆっ、ユリウスは!?」
俺たち人間の言葉をオーガは理解出来ない。
けれど、何となく本能で察したのかもしれない。
「逃げろ」という言葉の意味を。それ、故にだろう。様子を見ていた筈のオーガが突然、猛り叫ぶ。
「俺、は?」
何をするかなんて事は既に決めてからここへやって来た。
「そんな事、決まってる」
錆びて尚、存在感をこれでもかと示す大剣と比べ、軽く、そして短い俺の手にする棒切れのこの頼りの無さ。
己の置かれたこの状況下に、堪らず笑みがもれた。
「少し、対面が早すぎる気もするが、まあいいよ」
遅過ぎる事はあっても、物事に早過ぎるは存在し得ない。そう自分に言い聞かせ、威嚇でもするように唸るオーガとソフィアに向けて告げる。
「なんにせよ、ここでオーガとやり合う人間が必要でしょ? なぁに、『星斬り』を志す者がこんなところで負けはしないよ。負けは、ね」
「で、でも——」
それでもと引き下がろうとしないソフィアであったが、人間というオーガにとっての獲物を「逃がそう」とする俺をオーガが放置してくれるか。
律儀に待ってくれるか。それは、否である。
「ガ——」
パカリと口が開き、鋭利に尖った牙のような犬歯が顔を覗かせ
「ガアアアアアァァァァアアッッ!!!!」
夜闇を切り裂く叫び声が、容赦なく蹂躙する———。
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