第6話

 棒切れに触れる指の先から、感覚が研ぎ澄まされていく。4年間振るい続けてきたこの棒切れ。

 今ならば、己の手足のように扱える。根拠も理屈もないが、どうしてかそう思えた。煩雑にじんわりと胸に滲み込んでいた感情を捨て置き、俺は棒切れを正眼に構える。


 そして、数秒程度の静寂を経た後。

 じゃり、と足音が立った。

 それが———始動を知らせる音色であり、合図。


 130cm程。

 俺よりも随分と小さい小柄な身体が、「ギィイ」という鳴き声を大気に響かせると同時、僅かに飛び跳ねた。

 まるでそれは暗がりに隠れるように。

 煤けた緑色は、夜闇に色合いが酷似している。だから、目を凝らしても尚、その姿を一瞬だけ見失ってしまう。

 だが。


「聞こえてる」


 不自然な葉擦れの音が。

 足音が、風が、そして———不快感を抱かせる鳴き声が。

 切迫し、段々と近づいてくる音。

 天を覆う闇が視界に入り込み、満足に視認する事は叶わない。だから、耳を使う。今、この瞬間に一番信用が置ける五感に全てを委ねるのだ。


「見えなくとも、聞こえてる」


 きっと、この間合いだ。

 胸中でそんな事を思いながら、俺は上段で棒切れを流れるような動作で、真正面に振るう。


「ぐ、ギィッ」

「当たり」


 苦悶に酷く似通った声。

 加えて、棒切れから伝う硬質な感触。

 ゴブリンが手にしていた棍棒と、棒切れが打ち合う事で生まれた衝撃なのだと直ぐに理解する。

 身長差があり、かたや俺は上段に振るっているのだ。どちらに多く負担が強いられるのか。それは火を見るより明らかであった。


 ゴブリンとの距離が縮まった事で鼻をつく異臭。

 ゴブリンの体臭だろう臭いに顔をしかめながら俺は、一度、後ろに跳び退く事であえて俺とゴブリンとの間に距離を作り出し、正眼に構えていた棒切れを横に傾ける。

 そして、跳び退いた事で浮いてしまった足が再び地面に触れるが早いか。


 バネのようにぐぐぐと力を込めて足を曲げ、大地を思い切り蹴り、再度肉薄を始め———


「これ、で……ッ!!」


 面抜き胴のような要領で、首筋目掛けて棒切れを俺は振り抜く。距離を取ると見せかけ、虚をつくように切迫。

 無防備になっていた肢体目掛けた容赦ない一撃だった。


「カッ、ァッ……」


 遅れて、呼吸器官を強く打ち付けれた事で生まれる痛苦の声。肉薄する勢いすらも利用し、打ち込んだは良いもののそれでも、倒すには至れなかったと肩越しに振り返り、倒れ伏しながら呻くゴブリンの姿を確認し、そんな感想を抱いていた。


 意識を刈り取るつもりで放った一撃。

 にもかかわらず、そこに至る事は現実、叶っていない。

 己の力不足を否応なく肌で感じさせられ、表情に影を落とすが、それも刹那。


「悪いが、今お前に構ってる暇はないんだ」


 不退転の闘志を瞳の奥に湛えた鮮紅色の瞳が、俺を射殺さんとばかりに凝視し続けていたが、のらりくらりとそれを躱し、暖簾に腕押しを体現するように相手にする事なく、再度接近を試みる。


「後から追い掛けられても面倒だから、対処させて貰うよ」


 そう言って、俺は手にしていた棒切れを振り上げる。

 魔法を扱えない俺が、棒切れ一つでゴブリンの息の根を止める。そんな事はいくら殴打すれば成せるか不明な上、どうしようもなく時間を食われる。

 だから俺は、不屈の闘志を燃やす目の前のゴブリンを気絶させる事に決めていた。


 打ち込まれた喉が苦しいのか。

 未だ蹲るゴブリンに向けて回復していないうちにと、俺は棒切れを振り下ろした。



 ガンっ。

 石頭な頭部と棒切れが接触した事で、そんな硬質な音が鼓膜を揺らし、程なくして白目を剥いたゴブリンが完全に地へ倒れ伏す。

 魔物最弱。


 そんな呼び名すらあるゴブリンに対してですらこの体たらくである。容赦のない一撃を与えて尚、満足のいく結果がやってこない。

 対してオーガはゴブリンと比べてしまえば赤子と大人以上の差があると言われている。


 ほんの少し、本当に大丈夫なのか。

 といった不安に襲われながらも、超えるべき壁が低くてどうすると己を奮い立たせ、気絶したゴブリンに背を向ける。


「は、ぁ————ッ」


 溜め込んでいた息を、緊迫感を、不安を、懸念を。

 それなりに上手くいった。という結果に安堵しながら俺はその深いため息と共に感情を吐き出し、強張っていた身体を和らげる。

 初めての実戦。

 初めて相対した魔物。

 初めて、何かに向けて棒切れを振るったという事実。

 未だ消えない手の感触がそれらが事実であると肯定していた。


 もし仮に、この状況を第三者が見ていたならばオーガを倒すなど天地がひっくり返っても無理だと指摘した事だろう。もしかすれば、ゴブリンを倒してみせただけでも十分だと賞賛するかもしれない。

 そこが、お前の限界なのだという指摘を言外に言い含めて。


「……は、はは」


 俺は、笑っていた。

 その理由は、あまりに遠かったから。

 夢に見た剣士が立っていた場所が、あまりに遠かったから。

 先ほどゴブリンに使った一連の動き。

 それは技量でも何でもなく、あの剣士が当たり前に行なっていた行為だ。寝て、起きて。

 そんな行為と相違ないレベルの当たり前。


 だから、俺は無理だと思わなかった。

 オーガを倒す事は不可能であると到底思えなかった。


 かたや、ただでさえ人間よりも戦闘に特化した身体の作りとなっている魔物。その比較的上位に位置するオーガ。

 そんなオーガと俺とでは、個体としての性能の差はあまりに違いすぎる。


「なんで、だろう。どうしてか、負ける気がしない」


 たかが、4年。

 棒切れを振り続けた少年だけならば、恐らく天地がひっくり返ってもオーガには勝てなかっただろう。

 しかし、ここに立っているのは『星斬り』を夢見た剣士の生涯を追憶した人間である。故に、オーガを倒す術すらも頭の中に存在していた。今の俺にあの剣士の絶技を再現する事は不可能だ。けれど、不完全で劣悪極まりない模倣ならば、なんとか出来る。

 己が分を弁えない行為を強引に行使してしまえば、腕が、筋肉が、神経が懐死してしまうかもしれない。けれど。そんな模倣だとしても。恐らく、オーガに届く刃と化す。


 それは間違いないと言い切れた。


 『星斬り』に生涯を捧げた剣士の絶技。その模倣。

 俺だけしか知らない修練の果てにたどり着いた到達点の一つ。それを見た人間だからこそ、断言が出来る。

 決して、オーガは超えられぬ壁ではないと。

 とはいえ、今の己の限界を超える事は必須条件である。


「あの剣技が負ける姿を……俺には想像が出来ないんだ」


 星を斬る。

 ただそれだけを求めて研鑽し続けてきた究極の絶技。

 俺は、それに対して絶対の信頼を寄せていた。


「勿論怖い。俺は、オーガが怖いよ。でも、『星斬り』を目指す以上、ここで立ち止まるわけにはいかないんだ。だから、抱かせてくれた『怯え』ごと、俺の糧となれ」


 これを乗り越えた先に、今とは違う新しい世界が広がっている。そんな気がしたからこそ、俺自身に向けて言い聞かせる。


「さて、と」


 どうなっているのか定かでない幼馴染の事を案じながら。


「……急ぐか」


 村のすぐ側にまでゴブリンが迫っていたという事実に眉根を寄せ、駆け出した。

 

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